長島安治弁護士は「後に続く者」に何を託したのか?
(第3回・完) 吉田正之先生
弁護士 吉 田 正 之
聞き手 西 田 章
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2024年11月18日、長島安治弁護士(司法修習5期)が永眠されました(享年98)。 長島弁護士は、長島・大野法律事務所(現在の長島・大野・常松法律事務所)のファウンダーであり、60年以上前から、「弁護士活動の共同化」の必要性を訴える先見性を持った弁護士でした(たとえば、ジュリスト318号(1965)55頁に掲載された「弁護士活動の共同化――ロー・ファームは日本にできるか」と題する論文では、「大多数の弁護士が、一人一人民刑商事一般を取り扱い、無計画にかつ非能率に経験を積んでは消えて行き、その僅かな経験さえ蓄積整理されないという状態を何時までも繰り返して行くことは、その社会全体からみた場合、大変な損失である」「構成員が死亡、退所等により更迭しても、法律事務所の経験が絶えることなく蓄積され、整理され、良質のリーガル・サービスを継続して提供し、その水準を常に向上して行くという、弁護士にとっての重要な使命を果たすためには、かかるロー・ファームを確立することが最も大事」と述べられています)。 |
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それでは、「プロフェッショナルとしての誇り」とは、日々の弁護士業務において、どのように現れてくるものなのでしょうか。残念ながら、その詳細についてまでは、ご本人にお伺いする機会は得られませんでした。そこで、長島弁護士が語る「プロフェッショナルとしての誇り」を、もう一歩、深掘りして考えるため、長島弁護士から、直接の指導を受けた弁護士の話をお伺いするインタビューを企画しました(なお、本インタビュー企画のタイトルには、長島弁護士が、第二次世界大戦で戦死された陸軍士官学校時代の先輩から託されたという言葉(「後に続く者を信ず」)を引用させていただきました。長島弁護士は、司法制度改革に対するご自身からのメッセージとして「後に続く者を信ず」という言葉を用いておられました(第一東京弁護士会弁護士会会報462号(2011)および第一東京弁護士会弁護士会創立90周年記念会報特別号:これまでの弁護士これからの弁護士(2013))。 最終回となる第3回は、吉田正之弁護士(司法修習24期)へのインタビューを紹介させていただきます。 |
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今日は、吉田先生からご覧になって、長島安治先生はどのような弁護士だったのかをお伺いしたいと思っています。

長島弁護士の人柄と功績について、要約すると、(A)非常に向上心が強い方であった、(B)先見性のある方であった、(C)あらゆる分野を取り扱い、国際取引にも関与できる大法律事務所を創設された方だった、(D)人材を見極め、その人に適切な責任を与えて、人を育てる方だった、という4点を挙げられると思います。
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ひとつずつ、お伺いしていってもよろしいでしょうか。

時代背景を踏まえて理解する必要があると思いますので、時代を遡って、時系列に即してお話をさせてください。
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よろしくお願いします。

長島弁護士は、1926年生まれで、青山師範学校附属小学校を卒業されて、旧制7年制東京高等学校尋常科を経て、16歳で、陸軍予科士官学校に入学されて、翌年には、17歳で陸軍航空士官学校に操縦士官候補生として入学されています。
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長島先生の人格形成には軍隊の影響が大きいという意見をよく聞きます。

現代のように若者が会社員を目指すのではなく、当時は、軍人を目指す人が多かったのでしょうが、その中でも、長島弁護士は、士官学校に入られました。士官学校は単なる兵隊や操縦士を育てる場所ではなく、陸軍の指導者を育てるところです。卒業すれば、すぐに少尉になり、軍の現場に派遣されて、軍の現場から推薦された場合、陸軍大学に進む。そういう軍の幹部を目指す学校です。
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学生時代から「向上心」があったのですね。

若い頃に「向上心」があっただけでなく、弁護士に転身されてからも、事務所経営においてもそれをひしひしと感じさせてくれる方でした。
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軍人としての「向上心」が、弁護士としての「向上心」にもつながるのですか。

長島弁護士が18歳の時に、日本は敗戦を迎えました。長島弁護士から聞いた話では、その時、彼は中国本土にいたそうです。一部はシベリアに送られる兵士もいて、多くは船で帰国したところ、彼は自ら飛行機を操縦して日本に帰ってきた、とのことでした。そして、翌年には、彼は東京大学法学部に入学しています。
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その間にどのような心境の変化があったのでしょうか。

長島弁護士が東京大学法学部に入学した年に、日本国憲法が公布されています。ここでの彼の心境を推察すると、「軍という立場から、法律へ、専門を選び直した」ということだと思います。つまり、「軍」という暴力的な機構ではアメリカに打ち破られて負けてしまった、そして、新しい憲法ができた。そういう時代の転換に直面して「暴力的なものではなく、法が支配する世界が来る」と感知したのではないでしょうか。
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そういう意味で「先見性があった」と評価されているのですね。

そうです。長島弁護士は、法学部入学後に、司法試験に合格して、民間企業への就職を経てから、司法研修所に行って弁護士になりますが、1960年に、35歳でアメリカに行くのです。
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