◇SH2082◇簗瀬捨治弁護士インタビュー② マネージングパートナーと代表取締役社長 西田 章(2018/09/11)

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簗瀬捨治弁護士インタビュー②
マネージングパートナーと代表取締役社長

T&K法律事務所 顧問
弁護士 簗 瀬 捨 治

(聞き手)西 田   章

 

 前回(第1回)は、簗瀬捨治弁護士が、東大法学部時代に官僚志望から切り替えて司法試験を受験して渉外事務所に就職し、米国証券取引委員会の元チェアの教授に師事するためにコロンビア大学ロースクールに留学し、米国クリーブランドのローファームで勤務したところまでをお伺いしました。

 

 今回(第2回)は、常松・簗瀬・関根法律事務所のマネージングパートナーを務められた経験と、長島・大野・常松法律事務所のチェアマン退任後に、オーケー株式会社の代表取締役社長を務められた経験を踏まえたお話をお伺いします。

 

 

 

 

 ブレークモア法律事務所は、当時(1972年末)、相当に忙しかったのですね。
 当時、日本の日本企業の中には外貨の余裕資金を持つところが出てきたのでしょう、米国企業が、私募で日本から資金を調達する、という仕事が急増しました。常松先生が死にそうに忙しくなっているそうなので、それを手伝うために、研修を切り上げて帰国することにしました。
 米国での勤務経験を持って、日本で証券業務に携わるのはいかがでしたか。
 いや、これが、日本に馴染めませんでした(苦笑)。米国では、弁護士が言うとおりに実務が動きますので、弁護士が判断すれば、その判断について異論を唱えられることはありません。それに対して、日本では、弁護士が作った書面でも、役所から色々と修正の指摘を受けてしまう。理屈から行けば、書面をどう書いて届け出るかは、当事者と弁護士に権限と責任があるはずなのに、役所から細かい表現の修正を求められることに驚きました。だって、役所の指導を受け入れたからといって、ぼくらは免責してもらえるわけでもないですからね。そこで、「理不尽なコメントは不要だ!」と、最初は、よく役人と喧嘩してしまいましたが(笑)、段々に、ぼくも丸くなっていきました。
 当時のブレークモア法律事務所は、日本の渉外法務で圧倒的な存在感を誇っていたと思います。ブレークモア先生は、すごい方だったのでしょうか。
 非常に、幅広い関心があって、物事に対する好奇心が強い方でした。依頼者は、それぞれ異なった事業を営んでいるので、ブレークモア先生は、その製品でも何でも、徹底的に興味をもって理解されようとしていました。
 日本語、漢字も真剣に勉強されて、外国人向けの司法試験にも合格されて、日本法をアドバイスできる立場にもありました。
 その興味は、仕事に留まらずに、趣味の世界にも広がっていました。フライ・フィッシングは、ブレークモア先生が、秋川渓谷に持ち込んだのが日本初と聞いた覚えがあります。また、五日市の川沿いに別荘を持たれていたので、そこで、当時はまだ日本になかった、新種の果物であるキウイを栽培されて、農業大学の学生が集まって来たりしていました。
 多才な先生だったのですね。事務所経営者としてどうだったのでしょうか。
 まったく金銭面での欲がない方でした。アソシエイトにも、スタッフにも、優しかったです。基本的な発想として、「累進税率が高いパートナーが利益を確保するよりも、みんなに配ったほうがトータルで支払う税金が安くなる」「税金を支払うよりも、従業員に還元するほうがいい」という考え方をお持ちでした。
 素晴らしい経営者ですね。ただ、1987年には、そのブレークモア法律事務所に分室を作られていますが、そこにはどういう経緯があったのでしょうか。
 ブレークモア法律事務所は、証券だけでなく、外国クライアントのコーポレートを数多く受けていましたが、証券業務とコーポレートとの間で、仕事の進め方が異なる部分が広がっていきました。
 事務所の規模も関連する話なのでしょうか。
 日本の法律事務所の伝統的なスタイルは、事務所のすべての仕事を「目の届く範囲」に留めておく形だったんですよね。他の弁護士が何をやっているのかも、把握していないと、コンフォタブルじゃない。
 法律家の世界では、それは当たり前かもしれないけれど、クライアントからすれば、グローバルな仕事をやっていたら、リーガルサービスのニーズは、もっと大きくなっている。それに対応できるのか? ロイヤーだけが取り残されているのではないか? という問題意識がありました。
 証券業務をやる限りは、大規模化も必要だったのですね。
 証券業務・金融業務は、ものすごい勢いで仕事をこなさなければならない。時間そのものが重要なファクターです。弁護士だけでなく、スタッフも重要な役割を果たす分野だから、相当にちゃんとした教育もしなければならないですよね。
 でも、大規模化していくと、パートナーが、他の弁護士がやっていることに責任を持てなくなってくるリスクがあるわけですね。
 責任だけの問題じゃないのかなぁ。弁護士にとって、同じ事務所の他の弁護士が自分にはちゃんとやっているのかどうかわからない分野に取り組んでいて、その分野がどんどんと広がっていく。そういう状況を受け入れられるかどうか、それがコンフォタブルかどうかは、哲学の問題かもしれませんね。
 そのため、かつては、一人前になった弁護士は、事務所を離れて、別の事務所を作る、ということになってしまったのでしょうが、事務所が一代限りで終わってしまうと、専門化も進まないし、事務所としての力量を積み重ねていくこともできないですよね。
 なるほど。それで、1987年に、「日比谷分室」という形で独立されたのですね。
 ブレークモア法律事務所の先輩方から「そんなこといっても、依頼者から違和感を持たずに仕事を受けるためには、事務所も同じ名前でやったほうがいいんじゃないか」と親切にも提案していただいて、そのご厚意を受け入れて、ブレークモア法律事務所日比谷分室という名称でスタートさせていただきました。
 そして、無事に立ち上がったので、事務所名を「常松・関根・簗瀬」に変更されたのですね。
 はい。翌年になって、「もう大丈夫だね。あとは、自分たちの両足で立ってやんなさい」ということで、自分たちで責任をもって仕事に取り組むことを名称上も明確にしました。
 独立後は、事務所経営は大変ではなかったのでしょうか。バブル崩壊もありましたが。
 ぼくは呑気だからあんまり大変さは感じませんでした(笑)。バブル崩壊はあったけど、ぼく自身は、事業会社からの海外JV案件等もずっと担当していたから、バブル崩壊後も忙しくしていました。
 また、バブル崩壊後のことですが、金融関係の一定のパターンの仕事は急激に減ったものの、銀行にも証券にも担当者は残っていますよね。彼らは、前と同じことをすることができないとわかったら、今度は、また新しいことを考えて提案してくるんだよね。幸いなことに、そういう新しい相談を持って、「今度はこういうことを考えているんだけど、ちょっと一緒にやってくれないか」ということで、常松・簗瀬・関根に声をかけていただいた。本当にありがたいことです。そこから、証券化・流動化なんていう仕事も出て来たよね。
 なるほど、ファイナンス分野でも、新しい類型の仕事が生まれてきたのですね。
 バブル崩壊前に戻りますが、資金調達の仕事は多様でした。外国のボロワーもいますからね。また、国内のボロワーでも、民間会社のほかに自治体関連の仕事もありました。飛行場の埋め立て資金とか、地下鉄の建設資金とかの資金需要がありました。当初は政府保証がついていたため目論見書には日本国の記述も必要でした。内外の証券会社からの紹介もあって、一緒に担当させていただいたことで、仕事の幅も広がりました。
 ファイナンス案件以外も扱われていたのでしょうか。
 事業会社とは、最初にファイナンスの仕事を受けていると、そのうち、違う部署からも相談を受けるようになります。常松健先生や関根攻先生もそうだったと思います。
 純粋な国内案件を依頼されることもあったのでしょうか。
 仕事はもっぱらクロスボーダー案件ばかりでしたね。
 1993年には、常松簗瀬関根のマネージングパートナーに就任されていますが、経営センスを評価されていたのですね。
 なんでだろうねぇ(笑)。常松先生と話して、「やるか」って話しになっただけで、特段のきっかけは覚えてないなぁ。もともと4人で始めた事務所だから。案件だけでなく、事務所のアドミニ関係の仕事もやっていたから、その延長線上だったような記憶ですね。
 1995年には、改正外弁法が施行されて、欧米系の巨大ローファームに買収されるのではないか、という外圧とか、巨大なアカウンティングファームが、日本でもリーガルサービスにも参入するのではないか、というような脅威があった時期だと思いますが。
 う~ん、外資系事務所とか、会計事務所とか、そういう脅威を感じた意識はまったくなかったね。証券業務は、ニッチな分野で参入障壁が高い分野だし、ぼくらが、スピード感ある仕事をしていたので、そんなに簡単に真似されるとも思わなかったな。
 そうだとすれば、2000年1月の長島・大野法律事務所との合併は、どういう経緯だったのでしょうか。
 人材の採用面では、苦労はあったかもしれないね。規模が大きいほうが、新人を採用しやすい、というのはあったかもしれない。
 当時のリクルーティングは、事務所訪問をしたら、その後に会食をして、という流れでしたよね。
 修習生とは何度も晩飯を食いましたよ。だけど、ご馳走してもうちに来ない人も多くいて(笑)。でも、ある程度、一緒に食事でもしないと、人柄はわからないよね。
 常松先生が書かれた論文(『日本のローファームの誕生と発展』(商事法務、2011年)126頁)では、簗瀬先生が、当時の長島・大野にいらっしゃった竹内先生とコロンビア・ロースクールの卒業式レセプションでの立ち話がきっかけで、と書かれていますが。
 そんなこともあったね。
 常松先生の論文でも「法律事務所の構成員たる弁護士にとって良い仕事ができるか、楽しく満足なプロフェッショナル・ライフを送れるか否かは、事務所の持つカルチャーにかかっているといえよう。」(同書126頁)と書かれていますが、常松・簗瀬・関根と、長島・大野のカルチャーは似ているところがあったのでしょうか。
 そうだと思います。それに加えて、実務的には、クライアントの産業分野とかがうまく補完し合う関係にあったのは幸運でしたね。お互いの事務所のパートナーがそれぞれしっかりと稼げていたことも大事だったと思います(笑)。
 統合後の長島・大野・常松では、代表は長島・大野出身の原壽先生で、簗瀬先生はチェアマンに就任されましたが、統合後の融合にご苦労はなかったのでしょうか。
 驚くほど問題は何もなかったよ。もともと合併する前から、知り合い同士だったパートナーも多かったしね。
 そういえば、旧・長島・大野は、弁護士を「さん」付けで呼ぶのに対して、旧・常松・簗瀬・関根では、弁護士を「先生」付けで呼んでいましたね。
 そうだったね。いずれにせよ、弁護士の集団だから、いろんな意見を独立して持っているのは良いことだと思うよ。当たり前だけど、それぞれの意見を十分に聞いて、パートナー同士でよくコミュニケーションを取ることは必要ですよね。何処かの国の政党では、外から見ると、所属しているからといって、違う意見があるようでもなく何も言わずに多数に従うように見えます。それとは大違いです。(笑)。
 長島・大野・常松では、お互いに誰がどう考えているかがわかった上で、「じゃあ、これで行こう」とオープンに議論できたのがよかったと思いますよ。
 それでは、次に、弁護士が、経営に携わることの意義についてお尋ねしてみたいと思います。簗瀬先生は、法律事務所でマネージング・パートナーやチェアマンを務められたご経験もあれば、事業会社の社長職を務められたご経験もあります。先生から見て、法律事務所の経営は、事業会社の経営とは異なるところが多いのでしょうか。
 会社は、組織でもって指揮命令系統が決まっているけど、法律事務所では、上下関係がないよね。あるのは、先輩後輩関係だけ。
 上下関係がないから大変な面もあるのでしょうか。
 そうだね、やっぱり、フェアでなければならないよね。多くの会社では、偉くなった人は、ずっと偉いでしょ、同じ組織にいる限りは。
 それに対して、法律事務所では、パートナーの働き方にもいろんなスタイルがある。ある年に一生懸命に働いて大きな売上げを立てたパートナーが、次の年はあまり稼がない、ということもありうる。仕事に波があるのが当たり前の世界。弁護士の仕事以外のことに時間を使いたいと思うようになることもある。そんな中で、収益の分配方法ひとつを取ってみても、全パートナーに納得してもらえるようなルールを作るのは、大変だと思うよ。
 事業会社の社外役員としては、オーケー株式会社で2006年から社外取締役を、株式会社ホギメディカルでは2007年から社外監査役を務めておられますね。オーケーの社外取締役に就任された経緯はどのようなものだったのでしょうか。
 オーケーの創業者である飯田勧さんは、酒卸問屋「岡永商店」を作った飯田紋治郎氏の三男で、セコム創業者の飯田亮さんはその弟に当たります。
 飯田勧さんの会社で弁護士に相談しなければならないことが起こった際に、ぼくに白羽の矢が立って、それを首尾良く解決できたのを契機として、その後も、関係が続いています。
 簗瀬先生から見て、飯田勧さんはどのような経営者なのでしょうか。
 ロジカルで厳しいながら非常にすばらしい経営者ですね。熱心で、正直で、フェアです。創業者なので、金銭感覚もきちっとされています。
 オーケーは非上場なので、社外取締役を入れることが義務なわけではないですよね。
 長島・大野・常松にいる間は、ずっと外部弁護士としてお付き合いを続けていたのですが、ぼくが、パートナーを退任して解放されます、という話しをしたところ、飯田さんから「暇になるんだったら、うちの役員として来てよ」とお誘いを受けました。
 オーケーには、社外取締役に留まらずに、2014年からは、代表取締役社長にご就任されていますよね。
 優れた経営者も歳をとるからね。飯田さんと2人で会って話をしていると、話題はよく「後継者の話」になりました。それで、「会社に入ってもらって、一緒に探そう」と言われて、社長職を引き受けました。
 それなので、2年間、社長職を務めて、飯田さんがよしとする後継者が見つかったので、ぼくの仕事は終わりました。
 なるほど、そういう背景があったのですね。では、店舗経営の仕事は担当されていなかったのですか。
 業務執行もしていましたよ。飯田さんは、シンガポールに住んでおられて、度々東京に出張で来られていました。ぼくは、通常の管理業務のほかに、新店開設関係だとか生鮮食品の仕入れ先の多角化などの通常業務もしました。もっとも、スーパーマーケットの商品をどこからいくらで仕入れるとか店舗作り、という営業の中核部分は、ぼくでは飯田さんの代わりは務まりません。
 法律事務所経営と、事業会社経営は違いましたか。
 違うね。会社経営は非常に幅広いですよね、上がってくる問題が。決めなくちゃいけないことがたくさんある。だから、幅広い関心を持っていないとダメだね。「自分の守備範囲はこれ」と思っているような人には務まらないかな。
 事業計画や経営目標も設定されたのですか。
 飯田さんが売上3500億円超え、という目標を設定して、ぼくの社長2年目にそれを達成しました。船の舵取りはしていましたが、要所要所で、飯田さんのメッセージを社員に伝えることで、社員をひっぱっていくことが僕の役割だったと思います。
 これから先、もっと多くの弁護士が、会社経営に携わっていくことが望まれると思いますか。
 経営者から信頼されて、そういう仕事を頼まれる弁護士が増えて来たらいいな、と思います。ただ、社長の仕事と、弁護士の仕事の間にギャップがあることも事実ですよね。ビジネスにはビジネスの段取りがあり、ビジネスの世界にも候補者はたくさんいるので、ビジネスの世界で、社長職に選ばれる、ということは大変なことだと思います。ぼくの場合は、偶々だったけど。
 ビジネスの仕事と、弁護士の仕事のギャップ、とはどのようなものでしょうか。
 日本の場合は、長期的な取引関係とかが重視されているので、いろんな取引関係を理解して、その中に溶け込むのには相当な時間がかかりますよね。
 それは、例えば、クロスボーダーの合弁契約で当事者の会社にアドバイスするときとはまったく違いますよね。クロスボーダー案件だと、まず、当事者の会社間で、どこに共通のゴールがあるか、どう考えているかを、最初の段階で、徹底的に議論するじゃないですか。共通のゴールがなければ終わりで、あれば、それを活かすにはどうすればいいか、違うところがどこにあるか、というのを徹底的に考える。それが合理的なネゴシエーションです。そして、合意したことは履行してもらう。もし、相手方が約束を違えることがあったら、損害賠償を請求する、という発想も当然です。
 ところが、日本のビジネスは、長期的なリレーションを重要視していますよね。決して、「契約を履行しなかったら、裁判で法的サンクションを受ける」というのが強制力になっているわけじゃない。人種と文化が同一の社会に帰属している人たちの間だから、それでもうまく回っている部分も多いのかもしれないよね。
 そういうビジネスのやり方に慣れてしまっているために、日本企業が海外に進出して当初苦労するのかもしれない(苦笑)。
 その発想は、社長職をお務めになられたからこそ出て来たものなのでしょうか。それとも、社外役員の仕事でも感じられることでしょうか。
 社外役員でガバナンスのことなどを考えるのは、法律家的発想からでも、うまく出来ると思います。
 社外役員を務めるならば、執行部のトップである社長を信頼できないと怖いですね。
 社外役員は、トップがフェアでないと、きっと苦労しますね、ぼくはそう思います。
 証券取引所からは、「経営者にガバナンスを効かせるのが、社外役員の仕事」と言われてしまうのかもしれないけれども、実際のところ、「経営者の経営手法や考え方を変える」というのは、とても難しいことだと思います。

(続く)

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