法のかたち-所有と不法行為
第二話 社会関係性がない所有権概念は法概念たりうるか
法学博士 (東北大学)
平 井 進
3 所有権概念が社会関係性をもたないことに対する批判
上記のように、ある者とある対象との関係しか記述しない文であれば、世界にその者しか存在しないことと等しい(すなわち、ロビンソン・クルーソー的な世界)。ここでは、そのような文がもつ思考を「一者概念」ということにする。「一者概念」による(聖書的にいえば、人間としてまだアダムしかいない)状況をドミニウムの規定とすることについては、当然のことながら古くから批判がある。
オッカムのウィリアムは、『90日の著作』(14世紀前半)において次のように述べている。人がある物を自由に使用するという事実的なことがらは他者との関係ではなく、それがドミニウムであるためには、他者がそれを自らの物であると主張しないことによる。アダムが一人でいる時にその周囲のものを自由に利用することができていても、イヴが登場してからはそのようにできる訳ではない。[1]
プーフェンドルフも、1688年の『自然と万民の法』においてアダムとイヴの譬えによって同様のことを述べており、人が二人以上いなければドミニウムという概念は成立しないとする。[2]
オッカムのウィリアムやプーフェンドルフが述べていることは、人が自由に物を利用するという事実状態には他者との関係性がなく、法が社会において機能するものである以上、社会関係性のない概念は法的な概念になりえないということである。
カントも、1797年の『人倫の形而上学』において次のように述べている。「もし地球に人間が一人しかいないとすると、そもそも外界の物を自分のものとして持ち、または取得するということはない。(略)本来的かつ文字どおりに理解すると、ある物における(直接の)権利というものは存在しない。」[3]
[1] Cf. Guillelmi de Ockham Opera Politica, accuravit H.S. Offler, Manchester University Press, Vols. 1 and 2, 1974. Opus Nonaginta Dierum (1332-1334), C. 14, Vol. 2, pp. 432-436, C. 14, Vol. 2, pp. 435. C. 26, Vol. 2, pp. 483-484. C. 27, Vol. 2, pp. 488-489. C. 28, Vol. 2, pp. 492-493. C. 88, Vol. 2, pp. 661-662. 次も参照、William of Ockham’s Work of Ninety Days, trans. John Kilcullen and John Scott, Vol. 1, The Edwin Mellen Press, 2001. 小林公「清貧と所有-ウィリアム・オッカム研究(一)」立教法学17 (1978)129-200頁。
[2] Cf. Samuel Pufendorf, De Jure Naturae et Gentium, Libri Octo, Vol. 1 (1688), Clarendon Press, 1934, IV.4.3., p. 365, IV.4.11., p. 375.
[3] Immanuel Kant, Die Metaphysik der Sitten, 1797. テクストは、Kant’s gesammelte Schriften. Herausgegeben von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Berlin, Band VI, 1914. S. 261. なお、カントは物に関する法関係を対人的な関係(所有する者以外にとっては義務の関係)として次のように述べている。「義務を課す者と課される者という主体の関係」による区分について、権利も義務ももつ人間と人間との法関係のみが実在し(S. 241)、また、所有権について、「物における権利(ius reale, ius in re)とは、その物のいかなる占有者にも対抗する権利である」という定義が通常のものである(S. 260. 274)。