企業法務への道(2)
―拙稿の背景に触れつつ―
日本毛織株式会社
取締役 丹 羽 繁 夫
《全共闘運動と私自身のその評価》
全共闘運動についても、この運動が収束してほぼ47年が経過しようとしている今、本稿でも触れておきたい。前述の2015年の川崎市民アカデミー・ワークショップでの報告テーマは、「経済成長と学生叛乱」であった。同ワークショップでの私の報告は、前述の吉本隆明氏による丸山眞男批判に加えて、彼の『収拾の論理』[1]、高橋和巳『憂鬱なる党派』[2]及び私と同世代の村上春樹『我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史』[3]を採り上げた。吉本隆明氏は、全共闘運動について、『収拾の論理』の中で、
- 「大学紛争の根底にあるのは、戦後の大学の理念として潜在してきた市民民主主義思想の中身の問題である。彼ら(大学教授研究者たち:筆者)は学問研究の自由、思想の自由という名目のうちにある特権を、実際に大学が温存してきた前近代的な学閥支配体制のために行使せずに、『プレスティジ』のある地位を保守するために逆用してきたのである。・・・大学紛争の本質は、大学理念の担い手である教授研究者たちの市民民主主義思想が、理念と現実性の間に口をあけている裂け目の問題である。」(吉本・前掲書13頁)
しかしながら、全共闘運動は、医学部(付属病院を含む)における無給医の待遇改善問題に端を発し、大学における教育・研究体制のあり方を問うたものであり、「戦後の・・・市民民主主義思想の中身」を問うたものではなかった、と考える。山本義隆氏は、近著『私の1960年代』週刊金曜日(2015年10月号)の中で、
- 「基本的には、東大全共闘はやはりそれぞれに決意した個人の集まりでした。・・・東大全共闘なるものの主張や思想というべきものがあるとすれば、東大全共闘に結集する各学部や研究所の学生や大学院生や助手・職員よりなる闘争委員会や小集団やさらには個人の、ときに奔放でときに過激で、そしてつねにひたむきで真摯な発言の総体こそがそれであろう。」(山本・前掲書150頁)。
と述懐されている。この山本氏の述懐にもみられるとおり、全共闘運動は、「ノンセクト・ラディカル」や「自己否定」[4]という言葉にも反映されているように、政治志向の薄い、極めて個人的で、その意味で極めて実存的な活動であり[5]、従って、政治思想として昇華することは極めて困難といわざるを得ないものであった。
[1] 吉本隆明『情況』(河出書房新社、1970年)所収。
[2] (河出書房新社、1970年11月)。高橋和巳氏は、「激動と混迷の1960年代後半の若者たちの夢と痛みを共有しつつ、誠実に生きた知識人」(高橋和巳『孤立無援の思想』岩波同時代ライブラリーの解説(1991年7月)と評価されており、全共闘運動が終焉に向かった1969年3月に京都大学文学部助教授を辞し、1971年5月に39歳で死去。私には、『憂鬱なる党派』は、1950年代初めに学生運動に参加し、挫折した自らの経験を全共闘世代に伝えようとしたメッセージであるように思われる。
[3] 「Switch」1989年10月号(『村上春樹全作品1990-2000 Ⅰ』(講談社、2002年11月)所収)。
[4] 山本氏は、「自己否定」について、「資本主義であれ社会主義であれ高度に工業化された社会において、経済成長・国際競争のための産業技術の開発のために、軍事力の強化のために、そして国威発揚のために、基礎科学であれ応用科学であれ科学が必要不可欠な要素として組み込まれているこの時代に、科学者である、技術者であるということは、そのことだけで体制の維持にコミットしていることになります。・・・私が行き着いたのは、その情況を踏まえるかぎり、体制への批判は同時に自分自身の存在への批判でなければならないという点でありました。その当時語られ、そして私自身も語った『自己否定』という言葉は、・・・しかしその当時私たちがこの言葉にこめた、体制にコミットしている自己の否定という想いは、今でも重要と思っています。」(山本・前掲書275頁)。
[5] 実存主義の哲学者ジャン・ポール・サルトルは、自らの実存主義について、1944年12月に、「人間は自分自身の本質を自ら作り出さなくてはならない。世界の中に身を投じ、世界の中で苦しみ戦いながら、人間は少しずつ自分を定義していく。・・・人間が意欲するということは、何よりもまず自分が孤独であり、自分自身の他は何物も頼りにできず、助けも救いもなく、自分で自分に与える目標以外には目標もなく、この地上に自分の手で作り出す運命以外には運命もなく、無限の責任に取り囲まれてこの地上に遺棄されているのだ、ということを理解したときに初めて可能なのだ。」(アニー・コーエン=ソラル『サルトル伝 上』(藤原書店、2015年4月)447頁)、と語っている。