◇SH2042◇コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(96)雪印乳業㈱グループの事件を組織論的に考察する⑥ 岩倉秀雄(2018/08/24)

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コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(96)

―雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑥―

経営倫理実践研究センターフェロー

岩 倉 秀 雄

 

 前回は、窮地に陥った北海道の酪農民が、雪印乳業(株)の前身となる「有限責任北海道製酪販売組合」を設立した事情を述べた。

 雪印乳業(株)の前身の「有限責任北海道製酪販売組合」は、酪農民が煉乳会社に従属し、受け入れ拒否をされた生乳は捨てざるを得ない状況のもと、デンマークのように「農民の生産したものは農民自らの手で加工販売するべきだ」と主張し運動を展開した宇都宮等によって、関東大震災による北海道酪農の危機を契機に、大正14(1925)年5月に設立された。

 その後、加入者が増え、翌年保証責任北海道製酪販売組合連合会(酪連)に組織変更した。

 酪連は、酪連精神(牛乳の生産者である農民と酪連の役職員が一体となって、協同友愛、相互扶助の精神に基づき協力し、北方農業の発展と国民の栄養改善・体位向上に貢献する:岩倉要約)に基づき、民間の煉乳会社との軋轢を乗り越え、様々な困難を克服して成長し、バターのロンドン市場への輸出も果たしたが、日華事変が勃発するに至って、酪連は次第に戦時体制に組み込まれていった。

 今回は、協同組合の酪連が、戦時体制に組み込まれ株式会社化した経緯について考察する。

 

【雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑥:雪印乳業(株)のルーツ】

4. 国策会社(株)北海道興農公社に変更

 昭和14(1939)年9月、第2次世界大戦が勃発、国際情勢は悪化の一途をたどるなか、物価統制大綱の決定(昭和14年)、物資動員計画(昭和13年)、国民徴用令(昭和13年)による青紙徴用(昭和14年)等、挙国一致の戦争体制が強化された。これに併せて、食糧増産体制は急務であったが施策は十分では無かった。

 酪農・乳業界では乳業の合理化[1]問題が喫緊の課題であり、時の北海道長官戸塚九一郎は、町村牧場主町村敬貴の進言を入れ、昭和15年8月、有限会社興北農業総合公社設立案[2]を道内乳業者に提示した。それは、道内乳業メーカーを統合した国策会社を設立し、土地改良事業も併せて行なうものだった。

 酪連は、明治製菓、極東煉乳、森永煉乳と協議し、統合に踏み切り、昭和16(1941)年4月1日、有限会社北海道興農公社(後に株式会社に変更、以下、公社)が発足した。酪連は事業の一切を公社に委譲し、組織の形態は組合組織から会社組織に移行した[3]

 出資金は1,200万円、取締役社長に黒澤(酪連)、常務取締役に松山潜藏(明治製菓(株))、佐藤貢(酪連)、瀬尾俊三(酪連)、大野勇(森永煉乳(株))、常任監査役に今野末松(酪連)が選出された株主は、北海道農業会、農林中央金庫、北海道庁、北海道拓殖銀行、明治乳業、森永乳業の6者だった。

 こうして、各社の道内の製乳工場をすべて抱合した公社は、製乳事業の積極的な合理化を進め、軍需用カゼイン、煉粉乳の生産に重点を置いた。 

 肉資源の対策としては飼畜事業を開始、肉加工事業の強化、原皮集荷のほか製革事業を行ない、家兎大増産運動をも展開した。農産加工では農産缶詰を主体に操業、軍需粉醤油、酒石酸石灰も製造した。

 また、上野幌育種場を開設するとともに、道庁の5ヵ年計画に基づき、大掛かりな土地改良事業を直営した。

 関連会社として北海道農機具工業(株)を設立し、海外へも進出した。(シンガポール、マレーシア、スマトラ方面に南方要員を派遣、満州の酪農開発、上海、南京、台湾、朝鮮へも事業所を開設)

 

5. 酪連の発展的解消と新北連誕生

 酪連は解散せず、公社に770万円を出資し全道271組合の総括団体として原料乳の統制を行なっていたが、戦時体制が進むにつれ、農業団体統合の意見が強まり、昭和17(1942)年2月4日、酪連及び保証責任北海道信用購買販売組合連合会(以下、北連)が合併して保証責任北海道信用購買販売利用組合連合会(現、ホクレン)が発足した。

 

6. 北海道酪農協同(株)(北酪社)に社名変更

昭和21(1946)年、北海道の酪農をどうするか、戦時中のような経営形態で良いのか、という批判の声が各地から相次いで起こり、公社は同年12月24日の臨時株主総会で定款を変更し、(株)北海道興農公社を北海道酪農協同株式会社(以下「北酪社」)とした。

 こうして体制を整え、乳幼児の主食煉粉乳を最重点に生産し、前途に曙光の見えた矢先き、北酪社は、昭和23(1948)年2月22日、過度経済力集中排除法の指定を受けた。



[1] 拓殖計画の実施に伴い、酪農の東漸の傾向は著しく、石狩・空知・渡島の酪農は次第に衰え、十勝、釧路、根室、網走管内に酪農が普及した。新地帯に煉乳工場新設を希望する煉乳会社もあったが、地元と折り合いが付かず、旧地帯に工場を抱える煉乳会社は原料乳確保が困難になった。一方、酪連は地方工場の設置要望が相次ぎこれに応じきれない状態だった。同一集乳圏に酪連と煉乳会社の工場が並立していたので、不合理を速やかに是正すべきだとの声が起きていた。(雪印乳業株式会社編『雪印乳業史 第一巻』(雪印乳業株式会社、1960年)366頁~367頁)

[2] 北海道拓殖計画を実行するに、企業の不合理を是正し北海道農業を確立・振興することを目的として道内乳業会社を一元化するとともに、道庁、北連、拓銀からも出資して、北方農業に欠くことのできない土地改良・採種事業・農業資材の生産配給等も併せて行う、いわゆる公益優先を理念とする特殊会社設立の構想。(同367頁~368頁)

[3]  なお、公社の設立については、生産者から様々な意見が出された。「……農業関係者の間には、絶賛の拍手を送る者、現実に即しない理想案であると懸念する者、あるいは酪連の救済策であるとする者、または産業組合の資本家への屈服だと難ずる者等々、活発な議論が展開され、公社設立の真意は容易に理解されなかった。」(同378頁)

 

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