国際シンポジウム:テクノロジーの進化とリーガルイノベーション
第3部 検討すべき課題、求められる人材育成とは?③・完
パネリスト ケンブリッジ大学法学部教授 Simon Deakin ケンブリッジ大学法学部教授 Felix Steffek 学習院大学法学部教授 小塚荘一郎 一橋大学大学院経営管理研究科准教授 野間幹晴
産業技術総合研究所人間拡張研究センター ファシリテーター 一橋大学大学院法学研究科教授 角田美穂子 電気通信大学大学院情報理工学研究科准教授 工藤俊亮 株式会社レア共同代表 大本 綾 |
第3部 検討すべき課題、求められる人材育成とは?③・完
質疑応答
角田:
時間が押しておりまして、残された時間は15分くらいですが、ここで会場からお出しいただいた質問に登壇者の先生方にお答えいただくというコーナーに移りたいと思います。
まず、感想の紹介をさせていただきますが、「スマートなプロレスでした!」というものでありますとか、知的プロレスを大いに楽しんでいただいたというコメントもお寄せいただいております。
次に、質問というか、会場から問題提起をいただいておりますので、これはどなたかにお答えいただきたいと思うのですが、「イノベーションを起こすのは、合理的な意思決定ではなくて、非合理的な情熱ではないか」という意見がきております。あるいは、他の方からの感想、意見なのですが、「テクノロジー初期の段階では、サンドボックスでやるのが結局は最も手っ取り早いのではないか」、「規制の度合いを決めるのは容易ではなさそうなので、やはりサンドボックス方式しかないのではないか」という意見がきておりました。このような会場からの意見に対して、いかがでしょうか。
まず、イノベーションを起こすのは、非合理的なパッションではないかというコメントに対して、Deakin先生、いかがでしょうか。
● イノベーションを起こすのは非合理的なパッションか
Deakin:
ありがとうございます。イノベーションはもちろん私たちの知っているところの向こう側に行くわけですから、将来に向けてのリスクを取ることも意味します。社会はイノベーションを支援していく必要があると思います。それは法システムが全体として行うのであり、基本的には経済活動の仕組みのなかでイノベーターに成功の果実を保障しているのだと思います。私たちは、イノベーションを起こした企業にいわゆる「スーパー競争レント」、イノベーションで得た利潤を得ることを許容し、大いに成功した企業が巨大化することも認めています―――私たちが規制が必要であると考える地点までは。しかし、この考え方では、リスクをとるインセンティヴを最大化すべきだということにはならないと思います。
たしかに、イノベーションというのは、ある意味、私たちの知っていることを越えた向こう側にあるという点には同意しますが、それが非合理的かどうかということだけではなく、既存の知識にとらわれない、そしてまた、自分たちの知っていることにとらわれないということを意味するのだと思います。そして、この点は、機械学習もしくはAIについて考えるときに非常に重要なポイントであると思います。AIに関する多くの見解が、機械学習が傾向として、少し後ろ向きなのではないかと指摘しています。いわゆる既存データに依拠しているという点においてです。そして個人的には、この深層学習の学習を暗黙の前提とするAI学習というのは、果たして、どの程度、社会に適応可能なものだろうかとの疑問をもっております。
私たちの社会には色々な学習システムというのがあり、法システムもそのひとつだと考えておりますが、その多くは、予期せぬ状況に直面しても適応して進化を遂げるという点で意外にうまく機能していて、そもそも法システムなどは未解決の問題を扱うことが日常茶飯事です。ですので、イノベーションが起きるのは何もテクノロジーだけではないのです。裁判官もまた、馴染みのない事件を裁く度に、イノベーションを繰り返しているという訳です。もちろん、私たちの社会の制度に組み込まれている社会的イノベーションには色々な面があります。そして、このことは、しばしばフレキシブルで前向きな判断を下せる制度を、マシンラーニングに代替して知の自動化を図った結果、ときに極めて後ろ向きな判断しか下せなくなるとすれば―――それば全体としてみると良いアイデアとは言い難いのだということを、改めてリマインドしておきたいと思います。
ですので、私たちには制度としてのイノベーションやリーガルイノベーションも必要で、イノベーションはエンジニアリングだけのものではないのです。そして、前向き思考も必要です。ですので、質問とは少しずれてしまうかも知れませんが、イノベーションというのは前向き思考で取り組むことであり、過去に起きてきたものを受容するということだけではない点でとても大切なのではないでしょうか。
角田:
ありがとうございます。まさにDeakin先生のお考えに近いような感想も実は寄せられておりまして、「理屈にこだわるよりも、いかに社会貢献できる社会をリードできるか、しっかり考えていただきたい」という要望、そして、「守りに入るのではなく、イノベーションして前進していくものなので、パッションとコンフィデンスを常に持ちながら頑張っていただきたい」という、我々にエールをいただいたということで受け止めておりますが、今のお話も、大変興味深いお話でした。
リクエストがSteffek先生からもありましたので、コメントをお願いします。
Steffek:
短いコメントだけ申し上げます。この合理性、非合理性についての話です。もし、人が大切で、そしてテクノロジーや法律の中心に人間があるべきだというのであれば、人というのは時として非合理であることを欲することも認める必要があるのではないでしょうか。遊び心があったり、非合理的な方法で探究することもあるのが人間ですが、テクノロジーというのはもちろん、物事を合理化し、がんじがらめにして、遊びの余地を残さない傾向があるでしょう。ですので、テクノロジーの人間の幸福への貢献について考えていこうというのであれば、この人間が享受している非合理性という部分に関してもちゃんとコントロールしていかないといけないと思います。
角田: 他にコメントされたい方……、野間先生、どうぞ。
● やはり、レギュラトリー・サンドボックスか?
野間:
ありがとうございます。サンドボックス方式が有効だというご意見なのですが、私も部分的に賛同します。私の所属は、現在、経営管理研究科となっているのですが、昨年の4月に一橋の国際企業戦略研究科と商学研究科の二つが統合しました。私は神田の千代田キャンパスの国際企業戦略研究科に属していたのですが、千代田キャンパスは実は一橋大学の中のある種の「出島」でして、ある種のサンドボックスだったといえるかもしれません。文科省のガチガチのルール、あるいは、あまり大きな声で言うと怒られるのですが、国立のルールから結構距離がありますので、そのあたり上手くやっています。文科省の一組織である大学のよう機関であれば、確かにサンドボックス的な考え方はあっていいと思うのです。私は、フィンテック研究フォーラムの活動の一環として、この2年間でシリコンバレーを数回、中国を2回、イスラエルを3回訪問しました。イノベーションがどんどん起きているこれらの地域には、サンドボックスなどありません。確かにサンドボックスは日本にとっては必要かもしれないけれども、サンドボックスがないところでも、真の意味でのイノベーションは起きています。サンドボックスに効果があることもあるとは思いますが、ベストではないと考えています。
● テクノロジーがもたらした損害に対する責任分担をどう考えるべきか
角田:
ありがとうございます。それでは、次の質問に移りたいと思うのですが、「新技術による何らかの被害が生じた時に、責任分担のあり方をいかにすれば法律で合理的に設計できるでしょうか」という質問を受けました。新しい技術を社会実装したという場面で何か被害が発生した時に、その責任分担をどのように考えていけばいいか。それをどのようにすれば法律は合理的な責任分担のルールというのを設計できるでしょうかという質問です。小塚先生、いかがでしょうか。
小塚:
それは理屈で言えば非常にシンプルで、事故は起きない方がいいのです。事故は起きない方がいいので、起こさないようにできる人に責任を負わせるわけです。企業であれば、個人もそうですが、責任を負うというのは嫌なことですから、責任を負わされると思えばきちんと備えをして事故が起きないように努めるであろう。そこに責任を負わせるのが一番いいというのが一番シンプルな答えです。これは細かく議論していくと色々ありまして、複数の人たちがあの人も、あの人も、あの人も、ついでにいうとユーザーも、皆が注意した方が事故がなくなるという時に、どういう責任の設計にしたらいいかというのは、実は理屈の上で極めて難しい問題になります。それとの関係で一つ、これも言葉の違いの翻訳でいつも迷うところなのですが、特にIT系のエンジニアの方が、責任分界点という言葉をしばしば使われて、ここからここまではAの責任、そこから先はBの責任と、これをきちっとして欲しいと言われるのです。しかし、法律的に言うとそれはナンセンスで、自然体でやってもそうはなりませんし、無理にそういう制度を作っても多分上手くいかない。法律の責任というのはオーバーラップするのです。Aの責任もBの責任も、両方が責任を負う部分というが出てきますし、そのようにすることによってA、Bそれぞれがきちんと注意を払うという場面も出てきますので、それは必ずしもおかしな考え方ではないということは申し上げておきたいと思います。
● テクノロジーへの信頼の獲得
角田:
「法務部門としては、個々の取引のリスクを減らしていくだけではなくて、技術を世の中に広げるためのルールメイキングですとか、人々が安心して暮らせるような説明というものを考えていく必要があると感じた」というご感想をお寄せいただきました。テクノロジーへの信頼というキーワードが午前中の議論の中でも出てきていたと思うのですが、コメントをお願いできますでしょうか。Steffek先生、いかがでしょうか。
Steffek:
信頼、信用というのは、やはり最終的には人の問題になり、人が経験的に何を欲してきたのか、その経験をどう活かしているのかに尽きると思います。テクノロジーに関わっている者、法律に関わっている者のいずれもが、実証研究に関わり、人々の話を聞くべきだと思います。もちろん、異なる人は異なるものを求めています。そこに哲学や規範的な判断が入ってきて意思決定のプロセスを決めるのだと思いますが、しかし、信用・信頼という時にはやはり人間というのが大事であって、テクノロジーそれ自体や法自体ではなく「テクノロジーと法」なのですから、やはり人間が大事だと思います。
角田:
そろそろ時間がきてしまいそうなのですが、大本さんの方でおまとめいただいたことをご紹介していただいてこのセッションを締めたいと思います。
● 総 括
大本:
まとめるのが結構難しいと思って聞いておりましたが、共通認識としては、やはりヒューマンセントリックというか文化的背景の理解に対して人間の関与というところがやはり重要だというということに最後落ち着いたのではないかと思います。工学側と法律側と経営であったりビジネス側のディスカッションというのをまとめていった時に、プロデューサー育成という話が最初の方にありましたが、そういった人たちをどのように育てていくのかというところでは、皆さんがおっしゃっていることはそれほど噛み合わないわけではなくて、非常に本質的な思想に基づくものだと思いました。また、これからも是非こういうディスカッションを継続的に進めていくことの重要性についても話し合われました。最終的に、第2部の方にもありましたが、技術を実験する前のそもそもの設計の時にどのような哲学や思想を持ってリーガルイノベーションを進めていくのかというところにつながってくるかなと思いました。
角田:
実は、今回このシンポジウムにご参加いただいたケンブリッジの先生方とは、これまで一緒に共同研究をしてきたわけではないのです。Deakin先生とは昨晩初めてお目にかかったというぐらいです。産総研さんとのお付き合いというのもそれほど歴史があるわけではありません。ここにご登壇いただいた先生方とはこのシンポジウムの準備の会合を何回かもったのですが、最初は本当に噛み合わなくてちょっと怒鳴り合いに近いような会合であったと今や懐かしく思い出しております。そのような次第ですが、本日は「スマートなプロレスでした」というご感想をお寄せいただけるくらい、何となくコンセンサスが我々の間で持てたということは、我々のこの関係が今後どのように発展していくのかということについても是非、乞うご期待ということで、このシンポジウム、セッションを締めたいと思います。それでは大場先生に、最後の言葉をお願いいたします。
● 終わりの言葉:アカデミアの歴史から
大場:
この会を閉じるにあたり、私の方からお話しさせていただきたいことが一つあります。それは、アカデミアの歴史をもう一度紐解いてみると、今回の議論の根源が見えてくるのではないか、ということです。
アカデミアの系譜としては、ソクラテスやプラトンの時代には学問は哲学だけであった。議論を重ねるうちに、学問は哲学から二つに分かれたと言われています。その分かれた一つはアートです。アートというのは、皆さんが思い浮かべる芸術のアートではなくて、アーティフィシャル(人工物)のアートで、人工物を対象とする学問が一つ。もう一つはナチュラルサイエンス(自然科学)を研究する学問の二つに分かれたと言われています。
アートは人工物を学問対象としていますので、文学、法学、経済学、経営学も入りますし、おそらく現代の工学も入るのではないかということです。アートの学問の本質は、人工物をデザイン(構成)するということです。
もう一つのナチュラルサイエンスは、自然科学を分析(アナライズ)するというのが本質となっている学問です。
残念ながら日本では文系、理系というように分かれてしまっていますが、もともと考えてみるとそのアカデミアはフィロソフィーからアートとサイエンスに分かれた。それで、おそらく今日登壇していただいている法学、経営学、工学の皆さんは、アートのカテゴリーに入っていて、ナチュラルサイエンスではない方々です。アート(人工物、アーティフィシャル)なものを扱う時に必要なデザイン論を、工学的に、法学的に、経営学的に議論しているだけなのではないかと思いました。おそらく出身というかカテゴリーは同じなので、デザイン的な視点から議論すれば議論は成り立つのかと思っています。
この学問の歴史から学ぶべきもう一つのことは、ソクラテスとプラトンが哲学という学問の根源のやり方についてです。ソクラテスやプラトンは、今の学校教育のように知識を教えるだけの授業をやっていたわけではないはずです。ソクラテスやプラトンは、今回の皆様の様に議論をしていく中で、お互い何か“気づき”が生まれ、新たな理論を展開するということを繰り返していたのが、学問の方法の根源だったのではないかと思います。
今回のシンポジウムはまさに、現在の学問の派閥を超えて、学問の根源的方法論である「議論をしつくす」こととなったのは、社会自体が複雑になり、問題解決がやり難くなっている現在の社会において、学問も祖先帰りをし、同じ祖先の子孫同士が、昔の方法論で議論しつくさないと解決できないということなのではないか、と本日のシンポジウムを聞いていて感じました。
以上で今回のシンポジウムを終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
第3部・完