池尾和人先生追悼文
池尾和人先生を偲んで
早稲田大学名誉教授
上 村 達 男
この2月21日に池尾和人先生がご逝去されたとの報は、私にとっては実に衝撃的なものであった。池尾先生は私より5歳年下(享年68歳)だが、私にとってはいつもありがたい先輩と言う感じの方であっただけにその喪失感は非常に大きい。
私は2019年3月末をもって早稲田大学を定年退職したが、その直前の1月に行った最終講義の後のパーティで、池尾先生は出席者を代表してスピーチをしてくださった。
私がそのことを池尾先生に依頼した際に、先生は自分は経済学者であるからそのようなことをするに相応しくないと言ってまずは断られた。そこで私は、池尾先生は10年間も金融審議会のメンバーとして、あるいは神田秀樹先生の後を引き継いで審議会のトップとして金商法改正等に携わっていながらそのようなことは言わせない、と申したところ、それでは仕方ないと引き受けてくださった。しかし当日の出席者代表としての冒頭の挨拶では、経済学者の私などに冒頭のあいさつを頼むというのは、おそらく法律家に友達がいないからに違いない、と敵を討たれた。例の甲高い声で嬉しそうにそのように言われた情景が繰り返し目に浮かぶ。さらにスピーチで、上村さんは、制度が3割ほど改善しても必ず批判するとも言われたので、そこは何といっても最後の挨拶は私なので、それについて、自分は自分の見解が採用されるなどとは常日頃思っていないので、自分が構築してきた理論からするとこうなるはず、という痕跡を残すことで後学の研究者がいつか、こういう見解もあったのだと気づいてもらえたら、という思いで発言してきたと申し上げた。そもそも3割と思うのは、どこかに10割らしきものを想定しているはずで、その10割の概念を理念型として構成することで、むしろ3割との差額の7割を意識すれば制度はより良くなる可能性があるかもしれない。池尾先生もそうした発想を共有すればこそ3割と言われたのでは、というニュアンスのことを申し上げた。池尾先生はそうしたことは他の誰よりも分かって下さっていたと思われるが、当日は、パーティ終了後にホテルのバーに最後までニコニコと笑顔を絶やさずに付き合ってくださった。その時の先生の姿を思い浮かべるとどうしても暗涙を催さざるを得ない。
池尾先生と親しくお話しするようになったのは、1996年の金融ビッグバンに対する商品先物取引のあり方を検討する通産省の研究会が、英米の海外調査を行った際にご一緒してからである。池尾先生は当時すでに著名な経済学者であったが、お会いしてすぐに親しくお話しできる方であった。調査の合間に皆で競馬場に行ったり、夜に二人で繁華街をさ迷ったこともあった。池尾先生は、日本の商品先物の世界が経済学の教科書に書いてあることとはほぼ無縁の世界であると言われていたのが思い出される。
その後2003年に、日本コーポレート・ガバナンス・フォーラムの流れを汲む日本取締役協会の「公開企業法委員会」で委員長の神田秀樹先生と副委員長の私が、いわゆる公開会社法の具体案作りを始めたが(これには、当時の自民党商法小委員会、会計小委員会座長の塩崎恭久衆議院議員の後押しがあった)、これが「資本市場を正しく使う委員会」を経て、「金融資本市場委員会」となった際に、池尾先生が委員長となられ、私が共同委員長となり、その後の公開会社法要綱案11案の策定(2007年)に至った経緯がある(この具体案作りに際しては神田先生のご意見をいただいてきた)。
もっともお世話になったのは、第一次安倍内閣の経済財政諮問会議のグローバル改革専門調査会金融・資本市場ワーキンググループ(WG)においてであった。このWGが設置される際に、安倍内閣の官房長官は塩崎恭久衆議院議員であり、それまでの経緯から私を買いかぶっていた塩崎長官が、なんと私を他の推薦を振り切ってこのWGの主査に任命したのである。私もそれまでは少数説の無責任で言いたいことを言ってきていたが、突如として、ここで決めたことが諮問会議で採択されれば骨太の方針として閣議決定されるという重大な会議体の主査になってしまった。その際、池尾先生は副主査となられた。池尾先生はこうしたことには慣れておられたが、私はいきなり重責を負うこととなり、論客ぞろいの会議体の運営自体もいかにも素人っぽく、池尾先生が見ちゃいられなかったのはよく分かる。その後は常に池尾先生の助け舟、ご指導をいただきながら何とか「真に競争力ある金融・資本市場の確立に向けて」と題する中間報告(2007年)を公表することができたが、思い出すに汗顔の至りである。報告の内容としては、準司法機能を有する市場監視機関の必要性、総合取引所、公開会社法の必要性など、官庁横断的な重要な事項を含んでいるが、それも池尾先生の友情とご理解の賜物と思っている。
忘れがたいことをもう一点述べさせていただくと、現行金融商品取引法の第1条に「資本市場の機能の十全な発揮」「公正な価格形成」確保が謳われるに至ったことは、一般には証券取引法市場法論を36歳の時の日本私法学会報告以来主張し続けてきた上村説の採用と言われているが(専門書にそのようなことが書かれることは一切ないが)、金融商品取引法を策定した時の金融庁の担当室長だった松尾直彦氏(現弁護士)および金融庁内部では市場法論というのは当たり前ではないかという空気が強く、一時は金融商品市場法という名称にしようという時期もあったとのことである(市場という用語について法制局から、クレームがついたとのことであった)。現行の1条のような規定を設けたいという意志が担当者にあっても、金融審議会で一人の委員の発言もないのに官僚が勝手にそのような条文(特に目的規定)を書くことはできないところ、池尾先生が審議会で私の市場法論に言及してくれたので実現できたという話をお聞きした。
この文章の執筆時点で桜が満開であるが、池尾先生の愛妻の愛子先生(早稲田大学商学部教授<経済学史>)、私と家内の4人で八芳園の庭を散策しながら夜桜をみたときの楽しい思い出が昨日のように思い出される。たしかどこかの部屋にキッシンジャーが来ていたと記憶する。池尾先生を思うと感謝の気持ちばかりである。このところ、私のことを「上村くん」と呼んでくれる先生や先輩が一人、二人と減っていくが、5歳年下の先生・先輩を失ったことは辛い。池尾先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたい。
(うえむら・たつお)