◇SH1811◇インタビュー:一渉外弁護士の歩み(1) 木南直樹(2018/05/07)

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インタビュー:一渉外弁護士の歩み(1)

Vanguard Tokyo法律事務所

弁護士 木 南 直 樹

 

 インタビュー企画の第1弾は、民事手続法の研究者である伊藤眞教授にお話をお伺いしました。次は、実務家の観点からも、新しい分野を切り拓いて来られた先輩の体験談をお伺いしたいと考えて、我が国法曹界における「国際金融法務」の第一人者である、木南直樹弁護士(1975年弁護士登録)にお願いしたところ、ご快諾をいただくことができました。

 木南弁護士は、田中・高橋法律事務所にて、日本初の「インターナショナル・ファイナンス・ロイヤー」としてご活躍されるだけでなく、インターナショナル・ローファームの東京オフィスの代表弁護士を長年務めておられました。そして、数年の充電期間を経て、昨年、再び、日本の法律事務所(Vanguard Tokyo)に参画して金融法実務に復帰なされました。

(木南弁護士の略歴については、Vanguard Tokyo法律事務所のHPをご参照下さい。)

 そこで、木南弁護士に、日本の弁護士業界において「国際金融法務」の実務がどのようにして出来上がってきたのかを中心にお伺いした上で、今、日本のリーガルマーケットでどのような金融法務のプラクティスが求められているのかをお聞きしました(2018年3月16日開催)。以下、6回にわたり、インタビューの内容をご紹介させていただきます。

 

(問)
 木南先生は、1975年に司法修習(27期)を終えて弁護士登録をなされていますが、渉外弁護士を目指したのはいつ頃からなのでしょうか?

  1.    私は、当時としては珍しく、「渉外弁護士になりたい」という目標を掲げて、司法試験受験を決意しました。

 

(問)
 それは珍しいですね。ご経歴からすると、木南先生は、1973年に東大法学部をご卒業なされていますが、東大紛争の時期でしょうか?

  1.    はい、医学部紛争に端を発したいわゆる東大紛争は、私が入学した年の一学期には教養学部の無期限ストに発展し、全学的に拡大していきました。その影響で、翌1969年は、史上初、そして唯一、東大入試がなかった年です。研修所同期で、フレッシュフィールズでも、今の事務所でも同僚の岡田和樹弁護士は東大を受験できなかった学年です。

 

(問)
 先生もストに参加されていたのでしょうか?

  1.    ストに至る経緯や背景を本当に理解していたかどうかは自信がないのですが、当時の大学側の対応や姿勢には私も違和感を抱いていたので、駒場の無期限ストには賛成票1票を投じました。ただ、集会などの活動に積極的に参加したわけではなく、実際には、友人たちと雀荘に通う毎日でした(笑)。当時、学内の動きには脇目も触れず、まじめに図書館に通っていた同級生のなかには、大蔵省に入省して出世した人もいましたね。

(問)
 大学時代に特に力を入れて受けていた授業やゼミはありましたか?

  1.    ストのせいで、スト明け後は1学年を9ヵ月で終わらせるというスケジュールで授業が進んでいきました。そのため、私たちの学年は「秋休み」を知りません。
  2.    ゼミは本郷に行ってからのことで、各学期単位です。刑法の藤木英雄ゼミと平野龍一ゼミ、そして、英米法の伊藤正己ゼミを二回とりました。この伊藤正己ゼミ参加が「渉外弁護士」を目標とするきっかけとなりました。

 

(問)
 伊藤ゼミでどのような出会いがあったのでしょうか?

  1.    伊藤ゼミに参加していた大学院の先輩から、アメリカには国際的に業務展開する法律事務所があり、そこで国際的に活躍する渉外弁護士という職業があることを教えてもらいました。当時、アメリカでは、ウォール街の名門法律事務所は専らアメリカの国内業務を取り扱い、国際業務を手掛けるところはほとんどありませんでした。そのなかでニューヨークを本拠に国際業務を中心に手掛け、ヨーロッパにも拠点を展開し、アジアでの業務展開にも大変力を入れている事務所がある、と聞きました。

 

(問)
 その事務所とはどこですか?

  1.    十数年前に解散してしまった、クデール・ブラザーズという法律事務所です。クデール・ブラザーズは、国際業務に特化した法律事務所として、19世紀半ばクデール兄弟によってニューヨークに創設され、その後、ヨーロッパ、そしてアジアの主要都市に拠点展開をしていた法律事務所で、当時アメリカの法律事務所としてはユニークな存在でした。その伊藤ゼミの先輩の話を聞き、とても新鮮で刺激的に感じ、「こういう国際的な事務所で活躍する弁護士になってみたい」と考えるようになり、司法試験受験を志しました。

 

(問)
 まだ外弁法(外国弁護士による法律事務の取扱いに関する特別措置法)ができる前ですよね?

  1.    外弁法施行の15年も前の話です。大学の図書館に行き、先輩に教わった「マーティンデール・ハベル」というアメリカの法律事務所・弁護士名鑑で調べたところ、クデール・ブラザーズが、日本の「田中・環・西法律事務所」と提携していることを知りました。海外の事務所や外国の弁護士の日本国内での活動に関する当時の弁護士法の規制など全く知りませんでした。

 

(問)
 司法試験の勉強はどのようになされたのでしょうか?

  1.    当時は、司法試験の予備校などありません。独学が常道で、一部には答案添削を受けていた人もいました。私の周りでは、仲間で勉強会をする方法が主流でした。私は、2つの勉強会に入っていました。ひとつは、同学年の友人で始めた我妻榮先生の『民法講義』を講読する勉強会です。週に1度集まり、担当者を決めて報告する形式を採っていました。この勉強会の参加者は7名で、そのうち合格年は違うものの6名が司法試験に合格し、他1名は国家公務員試験に合格しました。松尾眞弁護士(桃尾・松尾・難波法律事務所)や、元大阪地検の検事正の三浦正晴弁護士はこの勉強会の仲間です。

 

(問)
 もうひとつの勉強会というのは違うタイプだったのでしょうか?

  1.    もうひとつは、学年が1年上だった鳩山邦夫さんが言い出した勉強会です。鳩山さんとは、鳩山さんが私のとても親しかったクラスの友人のゴルフ部での先輩にあたり、その関係で駒場時代から知り合いになりました。鳩山さんは、記憶力のとてもいい人で、学年末試験など試験前にちょこちょこっと勉強するだけで、ほぼすべての科目で「優」を取るような秀才でした。この勉強会での教材は、音頭を取った鳩山さんの強い意向を反映して、同じ我妻榮先生の書籍でも、有泉亨先生との共著である「ダットサン民法」でした。いまの若い人たちはその存在も知らないと思いますが、新書版程度の大きさで、3冊で民法全体が学べる初学者向けの参考書です。

 

(問)
 司法試験合格にご苦労はなかったのでしょうか?

  1.    そんなことはありません。前にも話したように、私たちは、ストの後遺症で、一学年を9ヵ月でこなしていた学年です。私の司法試験初挑戦は大学3年次(普通の学年なら4年次)でしたが、見事に短答試験で落ちました。でも、その挫折(と感じるほど勉強していなかったので、「現実」を再認識したといったほうが正確かもしれません)がバネ(というかクスリ)になりました。以後、本気でネジを巻いて受験勉強に取り組み、翌年は幸運にも合格することができました。

 

(問)
 民法以外の科目はどうだったのでしょうか?

  1.    勉強会は専ら民法でした。刑法は何故か(?)もともと好きでしたし、憲法もそれなりに勉強はしていました。当時は短答試験に合格しなければ論文試験に進めませんから、短答試験突破が最優先課題で、畢竟、受験勉強も憲・民・刑が中心になります。結局、それ以外の試験科目はあまり事前に受験準備をすることができず、短答試験が終わったあとで、大学での講義ノートを中心に短期集中で勉強することで対応しました。

(続く)

 

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