コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(101)
―雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑪―
経営倫理実践研究センターフェロー
岩 倉 秀 雄
前回は、雪印乳業(株)の前身である酪連を創業し初期の組織文化の形成に大きな影響を与えた黒澤酉蔵の足跡について、生誕から田中正造との出会い、北海道移住までの経緯について述べた。
今回は、前回に続いて北海道移住後の黒澤酉蔵の活動を考察する。
【雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑪:北海道移住後の黒澤酉蔵の活動】
2. 社会活動のはじまり
(1) 有畜畑作農業の導入
開拓がはじまった当時の北海道では、酪農への認識が低く、寒冷地でもわずかにコメが取れたので、多くの農家はコメを作っていた[1]が、1913(大正2)年、未曾有の冷害により北海道農業は壊滅的打撃を受けた。
黒澤は、農村の窮状を放って置けず、上川・空知管内の各村を歴訪してつぶさに惨状を視察・調査した。
そして、街頭演説を連日行い札幌市民に募金を訴えるとともに、全国のキリスト協会に呼びかけて義捐金を募り被害地に送った。
そして、これを契機に、黒澤は、デンマーク農業を理想とする同志(宇都宮、佐藤ら)とともに、水田万能の略奪農業を止め、寒冷地に適した有畜農業を実践する農業革命を行う決意を固めた。
(2) デンマーク農業と北海道牛馬100万頭増殖計画
宇都宮仙太郎は、母校ウイスコンシン大学に2度目の留学をした際、恩師ヘンリー教授から、農民の団結と高い農業技術で荒廃したデンマークが再生したことを聞いて感銘を受け、黒澤、佐藤らとともにデンマーク農業研究会を作った。
1921(大正10)年に内務省より赴任した宮尾瞬治北海道長官とも意見が一致[2]し、官民あげてデンマーク農業を手本に北海道農業を再構築することになった。
そこで、デンマークに調査団・留学生を派遣[3]するとともに、デンマークやドイツから農家を招聘し、実際の農業経営の仕方、農民生活のあり方、協同組合の作り方を勉強した。
また、北海道は、1924(大正13)年、20年かけて畜牛50万6千頭、馬42万2千頭を全道の農家が分担して飼育するという「北海道牛馬100万頭増殖計画」[4]を完成させた。
3. 農民運動(酪連の設立)
(1)「酪農救国」の旗印
大正末期、北海道には、大日本煉乳、極東煉乳、明治煉乳、森永煉乳、新田煉乳という5つの煉乳会社があり、生乳が不足する時には生乳の争奪戦を行い、製品が売れなくなると受乳を拒否した。
酪農民は煉乳会社に従属し、受け入れ拒否をされた生乳は捨てざるを得ない状況が続いた。
黒澤らは、これでは日本の酪農は伸びない、デンマークのように、生産者自身が、工場を経営し、製造・販売しなければならないと考えた。
1923(大正12)年の関東大震災を契機に、外国製の安価で高品質の乳製品が無税で輸入されると、国内の煉乳会社はバタバタと潰れていった。
北海道は酪農以外にないので、1925(大正14)年、黒澤らは不退転の決意で「酪農救国」の旗を掲げ、酪農民による牛乳処理組織を立ち上げた。
(2) 酪連の設立
経営の専門家が投げ出した製酪事業に、素人の酪農生産者が取り組むことについて、生産者の意見は3つに分かれた。1つは、黒澤らの「なんとしても生産者が自力で難局を乗り切ろう」と言うもので、他は「乳業界が混乱する」という反対意見と、「会社のやり口も悪いが、事業に失敗すれば今以上に不利になる」と言う中間の意見だった。
こうした中で、1925(大正14)年5月17日、雪印乳業(株)の前身の「有限責任北海道製酪販売組合」が産業組合法に則り設立された。
組合長は宇都宮、専務理事黒澤、常務理事佐藤(善七)で、道庁内に事務所を構えた。
煉乳会社は、様々な形で妨害したが、黒澤らは信念を貫き通し、翌年3月、この組織は全道一円をカバーする保証責任北海道製酪組合連合会(酪連)に組織変更した。
そして、同年7月27日、北海道大学からオハイオ州立大学に留学し家業を手伝っていた佐藤善七の長男の佐藤貢(後雪印乳業(株)初代社長)を技師に迎え、酪連のバター作りが始まった。
黒澤は、この頃の心境を「これでひとつ大もうけをしようとか、金儲けの道具にしようとかいう考えは毛頭ありません。どうしても、この酪連をつくらなければ、農民は全く困っている。搾った牛乳を捨ててしまわなければならない。この農民を救うためにできたのが酪連なのです。」(酪農学園編『酪翁自伝――黒澤酉蔵翁生誕130年・記念』(酪農学園、2015年)107頁他)と語っている。
酪連は、戦時体制で株式会社化した後、分割・再合併を経て、高度経済成長と食の洋風化の波に乗り、連結売上高1兆円超の雪印乳業(株)になった。
筆者は、雪印乳業(株)(現雪印メグミルク(株))が、食中毒事件・牛肉偽装事件により消滅の危機に陥り、協同組合(連合会)に救われたことと、同社のルーツは関係があると見ている。
(つづく)
[1] 開拓使廃止(明治18年)後の北海道の農業は、一部に稲作可能な地帯があったことなどから、道外からの移住者はもっぱら穀菽(こくしゅく:穀類と豆類)農業に偏っていた。開墾後の5~10年は無肥料栽培でもある程度の収穫が得られたことから、無肥料、連作が行なわれた結果、地力は著しく弱まり、凶作の連続によって農村は極度に疲弊した。
[2] 宮尾瞬治は、開拓当時にケプロンやダンの唱えた有畜農業の方針に沿って、アメリカの農法から1歩進めたデンマークやドイツの農業方式による蓄牛・輪作・甜菜を機軸とした農業経営の合理化を目指すいわゆる「宮尾農政」を打ち出した。
[3] 大正12年、この調査の結果をもとに、講演会を開催し講演集「丁沫(デンマーク)の農業」を刊行、酪農家に深い感銘を与えた
[4] 大正10年、北海道産牛馬畜産組合連合会(畜連)が、官民60余名の委員で算定し、第2期北海道拓殖計画の畜産対策とした。(雪印乳業史編纂委員会編『雪印乳業沿革史』(雪印乳業、1985年)7頁)