◇SH2298◇企業活力を生む経営管理システム―高い生産性と高い自己浄化能力を共に実現する―(第4回) 齋藤憲道(2019/01/28)

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企業活力を生む経営管理システム

―高い生産性と高い自己浄化能力を共に実現する―

同志社大学法学部
企業法務教育スーパーバイザー

齋 藤 憲 道

 

第1部 管理をめぐる経営環境の変化

2.高度経済成長期後半~バブル経済期 1965~1990年(昭和40年~平成2年)

(1) 経営環境の動向

 日本の製造業が世界一といわれる競争力を持ち、事業のグローバル化が進んだ時期である。

○ 1960年代後半以降、それまで輸出を中心に国際競争力を蓄えてきた日本企業の市場シェア拡大に危機感を抱いた米欧諸国が日本の政府・業界に輸出規制を迫り、又は、ダンピング調査開始を行う等して、多くの業種で貿易摩擦が恒常化した。

 この結果、日本の多くの企業・業界が輸出自主規制に応じ、あるいは、生産拠点を海外に展開した。

 こうして、日本企業の間で、事業運営にグループ経営・グローバル経営・競争戦略等の戦略的な視点が必要であるとの認識が高まり、1970年代に入ると、ニューヨーク証券取引所に上場する企業が現れ、日本に外資系の経営コンサルティング会社も設立された。

○ 1970年代以降、日本企業は省エネ・省資源[1]技術を開発し、これを用いた製品は世界市場で評価された。

 1970~1980年代に、日本の品質管理はそれまでの製造現場中心から、その上流の開発・設計に展開した。

  1. (注) 開発・設計に適したFMEA、デザインレビュー、新QC7つ道具[2]等の手法が広まった。

○ 日本製品の国際市場競争力が顕著になったこの期間は、為替相場が大きく変動した時期でもある。

 1949年4月 1$=360円の「ブレトンウッズ体制」

 1971年8月 ニクソン大統領が$と金の交換停止を発表し、1$=308円の「スミソニアン体制」に移行。

 1973年4月 日本は「変動相場制」に移行し、この後、およそ1$=260~180円の間で推移する。

 1985年9月 先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議で「プラザ合意」が行われ、日本製品の国際価格競争力を減殺して、深刻な貿易摩擦を緩和する目的で著しい円高に誘導された。合意発表時に1$=235円の為替レートが1年後に150円台になり、日本製品の価格競争力は大幅に低下した。

○ 1980年頃になると、米国内に、日本企業の競争力を支える全社的経営システムの重要性に着目して、米国の産業競争力復活を図ろうとする動きが現れてきた。

 1980年代以降、PC・プリンター・携帯電話・事務機器が普及し、家電・自動車にも、機器組込型のソフトウェアが増加した。

○ 1990年頃までの貿易紛争では、特定の品目を対象にして交渉が行われた。

  1. (注) 1990年以降、包括的交渉が増えたことについては次項で示す。

〔対米貿易摩擦の例〕 欧州においても、米国と類似の対日輸入規制が発生している。

  1. (注) 輸出自主規制は数年間にわたって実施されたケースが多い。

 1969年 第1次対米「鉄鋼」輸出自主規制開始

     第1次自主規制 1969年1月~1971年12月 規制枠1969年575万t(以後、漸増)

     第2次自主規制 1972年1月~1974年12月 規制枠1972年650万t(以後、漸増)

 1972年 日米「繊維」協定調印(毛・化合繊維輸出自主規制)

 1977年 日米「カラー・テレビ」市場秩序維持協定

 1978年 日米「牛肉・オレンジ」第1次交渉 日本の輸入数量合意

 1981年 対米「自動車」輸出自主規制開始(1981年~1994年)

 1984年 日米「牛肉・オレンジ」第2次交渉 日本の輸入数量拡大合意

 1986年 MOSS協議(市場志向型分野別協議)決着  

     対象分野: エレクトロニクス・電気通信・医薬品・林産物・輸送機器

 1986年 第1次日米「半導体」協定締結(日本市場で外国系半導体の参入機会拡大、ダンピング防止等)

 1987年 対米「工作機械」輸出自主規制(1987年~1993年)

 1988年 日米「牛肉・オレンジ」第3次交渉 日本の輸入割当を撤廃・関税化で合意(段階的に引下)

1989年 米国が日本をスーパー301条の「不公正な貿易慣行国」に指定

○ 高度経済成長期の終盤になると、消費者問題の種類が、高度成長の最中(=貧しさから抜け出す途中)に噴出した「製品安全」「環境」と、安定成長に移行する頃(=生活がある程度豊かになって)から増えた商品の「販売」「契約」に大別されるようになる。

  1. (注) これは、消費者の関心事の「第2次産業から第3次産業へのシフト」のように見える。
    新たに生まれた商品・サービス・取引には、それ自体に改善の余地があり、かつ、利用者が不慣れなこともあって、消費者(利用者を含む)トラブルが発生しやすい。また、新分野では、消費者の商品無知につけ込む悪者も後を絶たず、新商品が多く出る成長産業分野では消費者問題が多くなる。

 (参考)日本の産業別就業構成は次のように変化している[3]

  第1次産業 第2次産業 第3次産業、他
(公務含む)
1953年 40% 24% 36%
1965年 24% 32%
(53→65年 8ポイント増)
44%
(53→65年 8ポイント増)
1990年 7% 34%
(65→90年 2ポイント増)
59%
(65→90年 15ポイント増)

 1960年代末になると、消費者保護基本法が制定されて「消費者の利益の擁護及び増進に関する対策の総合的推進(1条)」が図られ、国・地方公共団体に消費者政策部局(県庁等の県民生活課、消費生活課等)や消費生活センター(繁華街が多い)が設置された(本課とセンターの2本立て体制)。1969年に改正された地方自治法には、消費者保護が「地方公共団体の処理すべき事務(固有事務)」である旨が明記されている。

  1. (注) 1955年~1973年は日本の「高度経済成長期」と言われ、この間の平均経済成長率は10%を超えた。

〔消費者問題〕

 1965年 経済企画庁に国民生活局を設置

 1968年 カネミ油症事件

     カネミ倉庫が製造した「食用コメぬか油」に含まれていたPCB、PCDF等により14,000人に被害。

 1968年 消費者保護基本法制定

 1969年 地方自治法に「消費者保護は地方公共団体の事務」であることを規定

 1969年 厚生省が、人工甘味料「チクロの使用禁止」[4]を決定  発ガン性の疑い。

 1969年 米国で「日本・欧州の自動車メーカーが非公表で欠陥修理している」と非難された。日本には法定定期点検や車検制度があるが、リコール車の公表を義務付けることとした。 

 1970年 国民生活センター設置

 1971年 環境庁設置

 1972年 クーリング・オフ制度導入(割賦販売法改正)

 1976年 訪問販売法制定(現、特定商取引法)

 1985年 豊田商事事件 金・プラチナ等の現物を渡す意思なく、預り証券を発行して多額を騙し取った[5]



[1] 1973年秋~翌年春の第1次オイルショック(第4次中東戦争勃発に伴うアラブ産油諸国の原油供給規制)、及び、1979年の第2次オイルショック(イラン革命政権による石油国有化に伴う原油供給危機)を乗り切るために、日本企業は省資源・省エネ機器を開発した。

[2] FMEA(Failure Mode and Effects Analysis 故障モード影響解析)、DR(Design Review)、新QC7つ道具(親和図法、連関図法、系統図法、マトリックス図法、マトリックス・データ解析法、アローダイアグラム法、PDPC法)

[3] 総務省統計局「労働力調査・統計データ(長期時系列表5(3)産業(第10回改訂分類)別就業者数―全国)」による。第1次=農林業+漁業。第2次=鉱業+建設業+製造業。第3次=運輸・通信業+卸売・小売業、飲食店+金融・保険業、不動産業+サービス業+公務他。なお、1953年と1965年には沖縄県分が含まれない。

[4] JETRO「食品添加物規制調査 UAE(2016年3月)」によれば、チクロに関して、英国は使用禁止したが、EUは一旦使用禁止にしたものの、食品・飲料への使用を再容認している。

[5] 「純金ファミリー契約証券」と称する預かり証を発行し、約3万人(うち、6割が60歳以上)の被害者が発生した。被害総額は約2,000億円。(被害額は、「いわゆる『預託商法』につき抜本的な法制度の見直しを求める意見書(2018年7月12日 日本弁護士連合会)」の記載を引用。)

 

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