証明責任規範を導く制定法に関する一考察
―立法論を含めて―
第5回
8「何が法か」という点に(法の)解釈がなされ得るか
- (1) ① それでは、ここでいうところの法の解釈とはどのようなものなのであろうか。法の解釈とは、法文を読んでその意味を明らかにすること、「意味」という不明確なことばを使わずに言えば、法文の表現を別の表現で言い換えることを指す[1]。法解釈学の中心をなす営為である。
- ② 解釈には、話者の言明の意味を探求しようとする会話的解釈[2]や、自然現象のデータなどが何を示しているか探求する科学的解釈[3]などが想定できるものの、法の解釈はいずれでもない。前者であれば立法者意思説と同じことになると思われるが、法の解釈はそれにとどまるものではない。法文は立法者の意思とは一応独立して解釈の対象となる。他方、法の解釈の対象は自然現象ではなく人々に創出されたものであり、あたかも生物学者がカエルの鳴き声を説明するときのように発された音声[4]を因果律の中で説明しようとするものではない。なにより、法の解釈には解釈する側(者)の意図が含まれてくる。完全に解釈する者の目的や意図、価値判断を免れた法の解釈はあり得ないであろう。あたかも純粋に法を記述するだけかのように振る舞う態度にはかえって不透明[5]さが残る。
- ③ 法の解釈は、立法者の意思から独立して、解釈者の意図によって、過去の法実務と未来のあるべき姿との中間にある現在の時点において、法文を理解するもの、と考えるのが相当である。これをここでは構成的な解釈と呼ぶことにする。解釈者の意図とは言っても、既存の法実務との間にある程度の適合性が必要であり、おのずとその解釈の幅には限度がある[6]。他方、構成的解釈は、あるべき姿の実現のために法をその手段(道具[7])として利用する、というものでもない。もし、法が他の何かを実現するための道具に過ぎないとすれば、裁判はあたかもそれが法であるかのように振る舞っているということになるであろう。本来、社会にとって有益であれば足り、その実現のため法が役に立つと考えるのであれば、あたかもそれが法の正統な解釈結果であるように見せればよいということになるからである。こうなるともはや法とは裁判所が将来行うであろう判断の予測に過ぎないことになってしまうであろう。
- ④ 構成的解釈とは、たとえば、Aという既存の法実務があり、将来的にはCという法実務が実現されるべきであるが、その中間にある現時点では(AとCの中間にある)Bという解釈が相当な場合があり得るということである[8]。もう少し具体的に言えば、たとえば、現在が昭和51年ころであったとして、投票価値の平等は憲法上の要求であり、今回の衆議院選挙には投票価値の不平等があるため、本来、選挙は違憲かつ無効と判断すべきであるが(C)、これまで[9]の法実務として投票価値の不均衡は立法政策の当否の問題にとどまるとされていたことから(A)、一転して憲法上の要求として、その不均衡ゆえに選挙が無効とされる結論を出すのは穏当ではないので[10]、その中間として、事情判決の法理を用いて、選挙無効の請求を棄却したうえ、当該選挙が違法である旨主文で宣言する(B)などの解釈である[11]。このような場合、Bという解釈はAからCへの過渡期[12]のものであったのであるから、その後、数十年を経ても依然としてBという解釈が採り続けられているとすれば、法の構成的解釈という観点から疑問が呈されるであろう。過去から未来への中間地点でなされたある時点での解釈について、いつも現在がその解釈時の未来に立っているということを意識しなければならないからである。実施された選挙を無効とすることの衝撃(C)がいまだ強すぎると解されるなら、たとえば、違憲状態が解消されるまで将来の選挙の実施を差し止める訴訟[13](B’)を肯定するなどの方策もあり得るであろう。(B’)[14]とは(B)と(C)との中間地帯にある解釈の可能性となる。
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⑤ このような解釈的な態度が、法文に対してなされるとともに、法とはなにか、法と法でないものとの区別(の規準)に対してもなされているというのが、現実の裁判実務であると考える。
- (2) ① 法文に対してなされる解釈という態度が、法とは何かについてもなされるとはどういうことか。
- ② これは、法と法でないものとの区別が明瞭な事実(たとえば、国会で制定されたかされなかったかという事実)によってなされ、その点については法実務家の間に争いはない、というものではない、ということである。つまり、法についての理論的な対立は法とは何かに関する争いを含んで(しまって)いるのである。法的問題の中には何が法なのかについて法実務家の間にも見解が対立し解決困難な問題もあるのである。
- ③ 事情判決の法理を適用した判決は、「もとより、明文の規定がないのに安易にこのような法理を適用することは許されず、殊に憲法違反という重大な瑕疵を有する行為については、憲法98条1項の法意に照らしても、一般にその効力を維持すべきものではないが、しかし、このような行為についても、高次の法的見地から、右の法理を適用すべき場合がないとはいいきれない」と述べ、明文に規定のない法理を適用したと述べている。つまり、この場合、事情判決の法理は解釈によって認められた法なのである。同判決の反対意見は「われわれの考え方からすれば、憲法98条はその文言のとおりに適用すべきこととなるので、これについて多数意見のような複雑な論理を展開する必要もなく、また、行訴法31条及び同条と公選法219条との関係の問題も生じないので、これらについて難解な説示をしないでも済むのである」と述べており、事情判決の法理に関し、裁判官の間にも意見が対立していたことがわかる。
- ④ そのほか、従来、学説上、肯定説と否定説があり、見解が分かれていた均等論の適用を認めた最三判平成10年2月24日民集52巻1号113頁も、いわゆる均等論を法と認め、その要件を定めたうえ、適用したものと言える。また、平成16年に特許法104条の3が設けられる以前、最高裁が無効理由の存在が明らかな特許権に基づく権利行使を否定したときも、特許庁と裁判所の権限分配や行政行為の公定力に由来するとされる、侵害訴訟において特許が無効であるものとして扱うことはできない、という理解を覆すものであった。この場合のように裁判所が法と認めたものが、その後、制定法として定められることもあるのである。
- ⑤ これらの判決は、法(文)の解釈(法文を他の表現で言い換える)という形式をとりながら、ある考え方を法と認め、認定された事実に適用している。これらの法的思考は、従来、法ではあるが、たまたまそれまで裁判所に提起された事案には適用されてこなかったものを、今回の事案には適用する、というものとは異なる。解釈という土俵で、それが法なのか、何が法なのかについても争われ、それを法と認めて事実に適用されてきているのである。
[1] 平野仁彦ほか『法哲学』(有斐閣、2010年)222頁。なお、あえて法文の言葉を別の表現に言い換えないという場合も解釈に含むものと考える。条文の表現のまま、そのまま適用できる場合には解釈がなされていないのではなく、いわば0(ゼロ)の解釈がなされていると考えられる。
この点、大屋雄裕『法解釈の言語哲学』(勁草書房、2006年)174頁には「まず法の適用ということにおいて、例えば裁判で争いが生じている場合のみを考えるのは正しくない。むしろ、我々の日常生活はよどみのない法適用に満たされていると考えることができる。そこにおいて我々は自然に・盲目的に規則に従い、あるいは規則に反している(これは法の意味が明白だからこそ行い得るのである)。我々は赤信号を見たら止まる、あるいは法は止まるべきだと命じるだろうと直ちに知っている。このようなよどみのない法適用において、解釈は登場しないのである」と述べられている。ここで「よどみ」とは規則遂行に何らかの齟齬が生じることを指している(同書147頁、野矢茂樹氏の表現とのことである)。すなわち「法の命ずるところに関する十分な一致が得られなかった場合に行われるのが法解釈である」と述べられている。このように「よどみ」が生じたときに解釈がなされる、という考え方もある。
本稿では法の解釈と法の適用とは(法的三段論法上の位置づけが異なるのでこれを)区別し、法文上の文言を他の表現に言い換えない場合でも解釈がなされていると考えるのが、現実の法実務に適合的ではないかと考える。たとえば、最三決平成21年1月27日民集63巻1号271頁では、特許法105条の4の「訴訟」という文言が、そのまま訴訟と解すべきか、仮処分手続も含むと解すべきかで結論が分かれている。
[2] あの人(話者)は何を言いたいのか。
[3] 実験から得られた結果を報告するなど。
[4] 翻訳不可能である以上、それが言語であるということさえ言えない。
[5] 価値中立を装いながら、何らかのイデオロギー性を覆い隠すおそれがある。
[6] 何ものにも縛られず、自由に解釈者の好みに応じて解釈できる、というものではない。
[7] 法を何らかの目的のための道具として利用するという考え方は、一種のプラグマティズムと言い得る。現状をどう変えたいのかという判断(たとえば利益衡量)が先にあって、そのための手段(道具)として法を利用するという考え方である。構成的解釈はこれとも異なる。
[8] 一気にAからCまで変化するのは急激に過ぎるというような場合、現在はあまんじてBという結論で踏みとどまっておくという解釈があると考える。
[9] 昭和51年より以前。
[10] ドラスティックなので。
[11] いわば違憲であるが無効ではないというような結論。
[12] 次の選挙からは投票価値の不平等により選挙が無効となる可能性が視野に入る。したがって、昭和51年4月14日の前と後とでは定数配分規定の制定に関する考慮要素が異なってくる。とすると、それから40年以上経過した時点(たとえば現在)でも、違憲だが無効でないという判断を繰り返すべきなのかという点が問題になる。
[13] 宍戸常寿「第6章 参政権」判時2344号臨増『法曹実務にとっての近代立憲主義』(判例時報社、2017年)129頁は、「選挙の差止訴訟や一票の較差の是正を怠る立法不作為に対する国会賠償請求訴訟等、新たな訴訟類型の検討も必要になっている。」と述べる。
[14] ここに言う(B’)の例としては、ある選挙区の選挙のみ無効とする判決や、ある都道府県の選挙のみ無効(選挙区の区割りでなく定数配分を直接問題にする趣旨)とする判決、そのほか、確定的な時期を示した将来効判決もあり得るであろう。