国際シンポジウム:テクノロジーの進化とリーガルイノベーション
第3部 検討すべき課題、求められる人材育成とは?②
パネリスト ケンブリッジ大学法学部教授 Simon Deakin ケンブリッジ大学法学部教授 Felix Steffek 学習院大学法学部教授 小塚荘一郎 一橋大学大学院経営管理研究科准教授 野間幹晴
産業技術総合研究所人間拡張研究センター
ファシリテーター 一橋大学大学院法学研究科教授 角田美穂子 電気通信大学大学院情報理工学研究科准教授 工藤俊亮 株式会社レア共同代表 大本 綾 |
第3部 検討すべき課題、求められる人材育成とは?②
● 講演者のメッセージを総括すると
角田:
ここで、大本さんに前半の議論を図式化していただきましたので、簡単にまとめていただけますでしょうか。
大本:
「検討すべき課題と求められる人材育成」ということで、バラバラとまた描いているように見えるのですが、左側にエンジニアであったり工学的な考え方をまとめています。特に小島さんからは、産総研のデザインスクールで行なっている事例や、デンマークに実際に行って見てこられた先進事例から、今後どういったことが必要かというお話がありました。
右側が法律側の話で、これから未来の弁護士を育てるためにどのようなことを考えていくべきか、AIとの関係性とはどのように考えるべきか、イギリスの大学では何が起きているかという話です。
真ん中は経営学の話で、デジタルトランスフォーメーションフォーラムを中心として、どちらかというとビジネスサイドから、今、行われていることについてお話がありました。特に、受講生のCEOに対してのプレゼンテーションの話をとおして、デジタルトランスフォーメーションを活かしていこうというトップの決断が非常に重要だという観点が示されました。
また、今後リーガルイノベーションを進めていく上で、トランスレーターあるいはプロデューサーの存在が必要という話がありました。そういった人材を育てるために、一つは目的の共有化、色々な多種多様な人たちが単純に集まるだけでなく、目的を共有できるような場所が必要だということ。また、法律を専門に学んでいる人が、同時にスマートコントラクトとは何か、ブロックチェーンとは何かという、少し違った分野に対しての知識を深めるというようなことも大事だという話もありました。ここでお伺いしたいのは、どのような場を作ればトランスレーター、あるいはプロデューサー的な人材が今後育っていくのかというのをもう少し深くお聞きできればと思っています。
テクノロジーの進化とリーガルイノベーション:課題と展望
角田:
ありがとうございます。これでひと通り、ご講演で言いつくせなかったところについてお話をいただいたところと思います。だいぶ、残された時間も少なくなってきましたので、これから「テクノロジーの進化とリーガルイノベーション」というこの将来の課題についてもう少し議論をして、何が問題なのかについてできるだけ共通の理解を得ておきたいと思います。何が一番、今、我々が真剣に取り組むべき課題なのかということについて、今日の議論を通してお感じになったこともふくめて先生方にコメントをいただければと思います。こちらから順にということで、Deakin先生、よろしいでしょうか。
Deakin:
ありがとうございます。明るい未来が、法とテクノロジーのコラボレーションには控えていると思います。なぜかといいますと、これら新しいデジタルテクノロジーのポテンシャルとして、消費者やサービス・ユーザーの生活の質を高め、政府コストを大幅に下げる効果が非常に大きいと考えるからです。しかし同時に、そこに大きなリスクがあることも確かで、本日も議論してきた通り、そのリスクは企業の競争優位性ということのみならず、人権や民主主義の価値という点にも及んでいます。これはすでに明らかなことと言ってよいでしょう。しかしながら、テクノロジーの変化が波のように起きていて、それが資本主義のなかで起きており、そして、この創造的破壊のプロセスはしばしば社会に軋轢を生まずにはいられないので社会な困難に直面することになりますが、私たちはそのプロセスをある程度までしか制御することはできません。もちろん、この変化を止めることはできませんし、回避することもできません。この変化は、既に数百年にわたって、特にイギリスの場合などは18世紀の産業革命以来ずっと続いてきたもので、社会に深く組み込まれているからです。ですので、このプロセスがなくなることはありません。
そして、今現在、私たちはまさに新たな破壊的創造の波に差しかかるところではないかと思います。これまでも破壊的創造のプロセスは起きてきましたので、どう対応していくべきか歴史に学ぶべきです。必要なのは、テクノロジーの変化を促進するだけではなく、仲介し、そしてまた変化に対する保護を保障するようなメカニズムです。テクノロジーの変化は常に受容されるべきとは限りません。その運用には法と規制が必要です。法と規制で、きちんとマイナス面に関してはコントロールしていかなければいけないと思います。例えば、権力の集中ですとか格差の拡大に関しては、そういった予防策をとっていく必要があります。ということで、テクノロジーの変化への対応は、民主的な制度の強化を要求しているのであって、規制することをギブアップすべきではありません。このことは、ヨーロッパでは人間中心という形で議論されていて、私も賛同します。日本では政策の力点に違いがあり、人権を重視する当事者対抗的リーガリズムといった英米法的発想とは一線を画した形で、政府が果たす役割に力点が置かれるでしょう。ですが、私たちはテクノロジー決定論に対しては異議を申し立てるべきと考えている点では完全に一致をみています。つまり、テクノロジーがすべての事項を決定し、私たちの民主的な司法制度もテクノロジーにひれ伏すべきといったテクノロジー決定論は、根本的に誤っており、拒絶すべきだと思います。
というわけで、私は、未来に対しては楽観的でテクノロジーがもたらすものに対して恐怖心も抱いておりません。ただ、テクノロジーを理解し、民主的制度や私たちの福祉国家制度の強化を模索していくという重大なタスクがあると考えています。そして、今週のBrexitのニュースに接して、改めて国際的な協力も必要だと考えています。
角田:
次にSteffek先生、お言葉をいただいてもよろしいですか。
Steffek:
私も楽観的な展望を持っております。テクノロジーはより良い社会、そして個人の幸福に寄与すると考えています。今までの人類の歴史でテクノロジーが何に貢献してきたのかを振り返りますと一言でいえば効率性をもたらしてきたということで、費用便益の改善やより効率的な解決策は、果たしてテクノロジーが意味を持つのか否か、社会に入ってくるのか否かを問うことなく、常に取り入れられてきたのです。好むと好まざるとを問わずにテクノロジーは取り入れられていきます。次に私たちが問わなければいけないのは、それをどのようにやっていくのか、そしてどうすればそのプロセスが私たちにとって良い方向に変えていけるかだと思います。
ポイントは二つあり、包摂(inclusion)と平等(equality)だと考えています。既にDeakin先生も指摘された通り、取り残されるような人々がないようにということを考えなくてはいけません。取り残されるといっても理由は多様でしょう。技術を好まないから、またはそういった技術へのアクセスがないからということもあるでしょう。そこが今現在、私たちが直面している課題で、大事な問題だと思います。この会場にいる人々は、恐らく問題ではないのですが、会場に来られない人、法へのアクセスができないような人たちは問題です。OECDの概算によりますと、50億人の人たちが法へのアクセスがないとのことです。もし法をテクノロジーによって変革することができれば、まさにこの50億人の人たちに法へのアクセスを提供できるチャンスとなるでしょう。
また、本日も話がありましたが、平等もリスクに晒されています。資本主義の作用として、テクノロジーの恩恵がほんの一部の者に集中していること、忘れてはいけないと思います。そして、この点はDeakin先生と同意見なのですが、やはり、法律家としてはそこに一歩踏み出して、関わっていくべきだと考えます。それには、複合的なレベルで能力強化、キャパシティー・ビルディングが必要でしょう。もっとも、法律家といっても多様で、実務家もいれば政府で働いている人、教育に携わっている人、法曹実務家、そして企業で働いている人もいらっしゃいます。そういったすべてのレベルの人たちが関わって、協力をしてくことが必要であると思います。そして、協力ということについて一言申し上げますと、本日、皆さんとの中で行われた協力や意見交換は大変楽しいもので、とても良いと思いました。こういったプロセスが今後も続くとことを祈念したいと思います。更なる協力関係を追求していきたいと考えています。
角田:
では次に、小塚先生からもお言葉をいただきたいと思います。
小塚:
だんだんと順番が後になるとしゃべることがなくなって、というのは、皆、結局同じようなことを考えているのでそうなっていくのですが、大本さんの投げかけに対して答えようとすると、たぶん二つ必要なことがあって、一つは、それぞれの専門で自分が行っていることを改めて問い直す、見直すということです。小島さんのお話でトンカチというお話が出てきました。これはまさに法律の分野でも同じことで、我々は六法というのが、かなづちよりも重いのではないかと感じるときもありますが、自分の分野で当たり前だと思っていることも、一歩離れてみると、実はこういうことを行っていたのだと改めて気づく。それはやはり非常に大事なことで、それに気づかせていく必要があるのです。
アメリカの論文で読んだことがありますが、交通道路の速度違反の取り締まりをAIで代替できないかといって、そのコーディングをするという実験をした。要するに、学生を集めて交通法規を見せて、車が通っていくのをセンサーで感知して交通違反を摘発するという、そういうプログラムを作りなさいと言った。そうすると、出てきたものに結構ばらつきがあるというのです。どういうことかというと、例えば、制限速度60キロとあっても60キロをちょっとでも超えたらすぐに取り締まるかといったらそうではないわけです。そうすると、どれくらい超えたら取り締まるかということについて、コードする人によって考え方が違ったりする。それから、制限速度ぎりぎりで超えたり超えなかったりという行為が続いた時に、ちょっと超えるたびに1回の速度違反にすると、超えたり超えなかったりしている間に5回とか10回とかの違反になってしまうわけです。あるいは、それを全体として、「この区間は速度を落としたところもあるけれども、全体として違反だった」というコードにするかとか……。それは改めて考えてみると、では法律家というのはこの道路交通法の速度制限についてどう考えているのか、警察はそれを執行する時にどういう基準で臨んでいるのかという問いを改めて投げかけられているわけです。それに答えるには、自分がいつも無自覚に行っていることをきちんと言語化していくということが必要になる。
もう一方で必要になることは、逆に専門を越えて、結局どういう社会を作っていきたいのか、この我々が住んでいく社会の中で譲れないものは何なのか、変えてはいけないものは何なのかということを改めて自覚する。これについては幸いなことにヨーロッパと日本は比較的共通していて、結局、それは人間中心、そして自由で民主的な社会ということですが、そういうことも専門を越えて共有していかなければいけない問題かなと思っています。
角田:
それでは、野間先生からお願いできますでしょうか。
野間:
本当に後ろになればなるほど言うことが限られてきますね。まず、私自身もやはりテクノロジーの進化というものに対して、基本的にポジティブにとらえています。つまり、テクノロジーが我々人間社会の幸福に貢献できるのか、いいかえれば、「Can technology contribute to our society?」という質問には、「Yes」と答えます。では「can」ではなくて「will」で問うとどうでしょうか。すなわち技術の進化は、社会、あるいは我々の幸福に貢献するのか、「Will technology contribute to our society?」。この問いには、まさに「It depends on……」と答えるしかない。その「It depends」を考える際には二つの要素が必要です。先ほど言ったように、少なくとも日本だと、エスカレーターを急ぐ人は右側か左側かという明確な法律はありません。なぜ、そういう法理がないかということを経済学的に説明すると答えは明らかです。「エスカレーターで急ぐ人はどっち側を通るべきか」という法律を作るコストよりも、そこから得られるベネフィットが小さいから法律がないのです。慣習があるだけなのです。先ほど法律が決めるべき世界と決めない世界を線引きして欲しいという議論をしたのですが、ソフトローとハードローの境界を決定するのは、法律家だけではなくて、国民のコンセンサスだと私は考えます。例えば、中国では画像認識が進んでいるがゆえに、誰がどこを歩いているか認知されてしまう。我々日本人は、場合によってはこういった事をプライバシーの侵害ととらえます。しかし日本でも、例えば養護施設に入った老人が徘徊して困るという事例の対策にはそういうテクノロジーを使う余地があるのではないでしょうか。私自身そういった分野に応用するのは良いのではないかと思っていますが、それをいかに社会的コンセンサスにしていくかというところを考えるべきというのが一つです。
そして、もう一点は、先ほど小島先生のプレゼンテーションの中に出てきた現象学の話、あるいは哲学を学ぶべきだという議論に関してです。私自身も恥ずかしながら、学部時代に哲学の授業を受けた記憶があるのですが、いかんせん全く覚えていない。一方、イギリスの大学では、リベラルアーツ、あるいは哲学の教育をちゃんとやっています。というのも、ノブレスオブリージュの精神が浸透しており、戦争が起きた時に高貴な身分の人ほど戦争に行くのです。極端な事例ですが、戦争で生死を分ける意思決定をする瞬間には、やはり哲学的要素が必要だからなのです。日本では、確かにイノベーションを興す時に哲学は必要になるかもしれませんが、大学教育でそれをやっても、大学生は必要性を感じないのではないでしょうか。野中郁次郎先生がナレッジフォーラムというフォーラムを開催しており、私もそのお手伝いをしています。参加者は各社の次期社長候補ですが、こうした社長候補に現象学ですとか色々な哲学を教えるとすごく響くのです。何を申し上げたいかというと、日本の大学で哲学を必修にしろといっても、必要性がなかなか理解されない。先ほど文化的背景を理解することが必要だとおっしゃったように、各国の制度や文化によって、あるいは慣習によって、どのタイミングで何をするかというのは異なるのではないでしょうか。私はデジタルトランスフォーメーションのフォーラムやフィンテックの研究フォーラムで活動を行っています。フィンテック研究フォーラムは大学のコラボレーションセンターを中心に活動しており、企業の方々、特に金融機関の方々と我々研究者が議論する場を設けています。デジタルトランスフォーメーションは経産省がバックアップして作ったフォーラムで、大学の外で活動しています。全てを大学の中でやってしまおうとすると色々と限界がありますしニーズなどにもマッチしません。そこで、上手く新たな形あるいは組織を作って、推進していくことが重要だと私は考えています。
角田:
ありがとうございます。大学の進化を担っておられる野間先生ならではの面白い貴重なコメントをありがとうございました。
すみません、最後でどんどん難しくなっているタスクを小島さんの方からお願いできますでしょうか。
小島:
一番最後は本当に損で、今、哲学の話をしようと思ったら言われてしまいどうしようかと思いましたが、デザインスクールの視点からコメントすると、プロデューサーを育てるというところもあるのですが、結局「当たり前」というのを1回はずすということなのです。文化もそうなのですが、染みついてしまっていて目に見えないので、先ほどのエスカレーターの例も、我々が大阪に行って初めて「ああ、そうだ」と気づくのです。要は、文化的背景がそこで切り替わっているのです。それは普段の生活では気づかないのです。我々は中国に行くと中国の異常さ、異常さと言っては悪いですが、文化的背景の違いに気づき、そこで何か新しいものを得るわけです。ということで、「当たり前」を日常生活で1回はずす、例えば「住宅ローン35年って、これおかしいよね」となったら、「住み方を変えようよ」という話になって、色々なものが変わるわけです。あるいは、最近働き方改革とか言っていますが、そもそも35年ローンを払うのはおかしいではないかとか。そういうところから考えるというのは結構重要なので、デザインスクールでは1回マインドセットをはずすということをやるのです。フレームを変える方法も習うのですが、それに加えて、対話の中では色々な背景があるので、各人の当たり前がいったい何なのかということを理解しなければいけません。その上で、対話の中で相手の意見を、プロレスと一緒で、一旦受け入れて、それに対して何か返すことも必要です。合わせ技で返すとか、プラスアルファで、良いものだけではなくて建設的批判と私は言っているのですが、そういうものを入れて、批判も厭わずただ建設的に、そういう態度をとることが重要です。そう考えると実は工学部も法学部も、今、当たり前だと思っている教育の目的というのをもう一度問い直す必要があるのではないか。工学部は、いかに問題を解ける人を作るかというのに、ずっと高度成長期以来、というか、明治以来頑張ってきている。法律も、法律家を育てるということを目的にしてきた。今それが果たして社会ニーズとしてマッチしているかという、目的をもう一度セットし直して、いわばマインドセットを変えた方がいいのではないか、というので私は終わりにしたいと思います。
角田:
ありがとうございました。ひと通りコメントが終わりましたが、多様な観点から極めて示唆に富むお話をうかがったところで、大本さんにまとめていただきたいと思います。
大本:
後半にいくにしたがって、テクノロジーは人間を幸福にするかという野間先生の問いがありまして、その中で社会的コンセンサスを国民がとっていくことの重要性や、国民といっても色々な文化的背景を持った人たちがいるので、そこの理解を高められるような人を育てる必要性が話されました。また、例えば法律であったり工学であったりを大学のクラスルームだけで学ぶのではなくて、ある意味、異文化の人たちが集まるような場所、組織などを作ることがプロデューサー育成というところにも繋がっていくのではないかという話がありました。あとは、小島先生の方からマインドセットのお話で、バックグラウンドの違う人が集まった時に、未来を作る上では議論はもちろん必要なのですが、特に建設的に議論する、建設的に批判するということを通して、既存のマインドセットを問い直していく必要性があるのではないかというお話が最後にありました。
③につづく