民法改正の本質と新しい民法学
慶應義塾大学名誉教授・武蔵野大学教授
池 田 眞 朗
はじめに
本年4月1日から、約120年ぶりの民法(債権関係)大改正(平成29年公布)が施行される。賛否両論のあった大改正であるが、本稿では、現状を前向きに把握して、この改正の本質を改めて分析し、あわせて今後の民法学のあり方について論じたい。
基本的な状況把握
私は、この改正に合わせて改訂した自らの債権法教科書のはしがきに、以下のように書いた。いささか長くなるが、本稿の核心にかかわるところなので、引用をお許しいただきたい。
「今回の2020年施行の民法大改正は、人間の営みである以上、うまくいったところも多々あるが、そうでないところもある。従来の疑問点を払拭してわかりやすくなったところもあれば、かえって複雑でややこしくなったり、中には新たな紛争を生み出しそうなところさえある。改正作業の途中でも、試案を作った学者たちに対して、他の学者や法曹や市民団体などが反対をしたところも多かった。実際、出来上がった改正法を見ると、市民法の改正というよりは、取引法の改正となっているところが多い。つまり、市民といっても消費者のための改正というよりも、取引実務を扱う法律家や企業の法務部員を名宛てにしたような改正も多いのである。
けれども、そういう紆余曲折を経て、このような新しい改正民法が誕生したことの総体が、令和時代の、2020年代の、わが国の「時代意思」の表れとみるべきなのである。伝統的な、「市民の基本法」という「民法観」自体が変容してきているという言い方もできよう。だからこそ、これから民法を学ぶ人たちには、新しいルールの意味するところ、目指すところ、問題を含むところ、を適切に教え、このルールの下でどう生きていくべきなのかを教えなければならない。A説だB説だなどということはまさに二の次なのである」(池田真朗『スタートライン債権法〔第7版〕』(日本評論社、2020))。
つまり、私の基本的な状況把握は、①今回の民法改正の特徴は、「市民法から取引法・金融法へ」(上記教科書の帯に採用した表現)というものであり、②良いところも悪いところも合わせて、このような形で民法改正を実現させたのは、まさにわが国の現代の「時代意思」というものなのである、という2点に集約される。
以下この把握に基づいて論旨を展開したい。
民法は新しいステージへ――市民法から取引法・金融法へ
教科書の改訂作業をしてみると非常によくわかるのだが、これまでの民法の教え方では、「民法は人が生まれてから死ぬまでの全範囲をカバーする市民生活の基本法である」「民法は私法分野全体の基本法であり、そこから多数の特別法が派生している」としてきたものが、今回の改正で、民法のイメージ自体が大きく変容したことがわかる。ことに債権法を中心とした改正であったこともあり、今回の改正は、市民とりわけ「消費者」を名宛てにしたものでは全く(それが言い過ぎならば、ほとんど)ない。完全に、取引法としての民法の改正であり、中でもいわゆる金融法分野に大きくかかわる改正であった。そして、私法の基本法(それだからあまり頻繁に改正されると法的安定性が失われるなどという説明もこれまではなされてきた)であるはずが、特別法に引っ張られて改正された部分もある(具体的には、破産法に合わせた改正がされた詐害行為取消権のところなど)。民法の機能、民法典の位置づけ、というものが変容したということになる。
ただこれは、わが国の取引法分野の法構造から見ればある意味で当然のことなのである。たとえば、民法債権法の中でこの四半世紀に最も重要度を高めたのは、債権譲渡の分野であることはほぼ異論がない。かつては、資金繰りの怪しくなった事業者が苦し紛れにする取引であった債権譲渡は、今や中小企業から大企業までが、資金調達のために、正常業務の中で、非常に広範に行う取引となるに至っている。それなのに、商法や会社法には債権譲渡の規定がなく、債権譲渡プロパーの包括的な特別法も存在しない(動産債権譲渡特例法も対抗要件としての債権譲渡登記に関するだけのものである)。したがって、わが国では、債権譲渡に関する取引の法的整序は、すべて一般法である民法が引き受ける構造になっているのである。
また、保証契約についての規定も、同様の状況である。したがって、今回の民法改正では、保証契約全体に条文を増やし、ことに個人が企業等の事業債務の保証をする場合の個人保証人保護に新規の多数の規定を加えるに至っているのである。
私が「市民法から取引法・金融法へ」と表現する所以である。
消費者保護はどこへ
そうは言っても消費者のためになる規定も置かれたのではないかという質問に対しては、ごくわずか存在するが、決して重要な改正点ではない、と答えるしかなさそうである。
たとえば賃貸借の終了時ルールの明確化に関して、改正法621条の賃借人の原状回復義務の規定では、自然損耗や経年変化などは含まれない(つまり賃借人は、カーテンや壁紙が経年劣化してもその取り換え費用を敷金から差し引かれることはない)ことを明示しており、明らかに消費者保護に資する改正ではあるが、これは決して今回の改正の目玉と呼べるような大きな比重を占めるものではない。また、今回初めて「定型約款」という、約款の一部に関する規定が民法典中に置かれることになったのだが、一見、電気・ガス・保険などの大企業側が作る契約条項に従わざるを得ない消費者を保護する規定のように思えるのだが、実際には、これも消費者に有利な規定ばかりでなく、大企業側が、細かい条項を消費者の合意を得ずに改変できるという、もっぱら大企業側に有利な規定(改正法548条の4)も含まれているのである。
新民法を誕生させた「時代意思」とは――使い手、受け手の「民意」
今回の民法改正を牽引した中心人物というべき内田貴氏は、最終的にご自分の思ったような形の改正にならなかったことを書いておられ(内田貴「民法(債権法)の抜本改正」學士會会報941号(2020)4頁)、そもそも「困っている誰かを救済するために民法を抜本改正するのではない」と書き、「その逆風の中で、学問としての法学に対する不信感が実務界から示されたことだった。学問的必要性による改正は、「学理的」と表現され、これが強烈なマイナスイメージとして機能した。かつては敬意をもって使われた形容が致命的レッテルと化している」と書き、「明治維新以来の近代化を牽引してきた日本の法学も、その役割を終えた」、「非西洋国ではじめての、自前の民法抜本改正をリードしようとした日本民法学は、夢を打ち砕かれたのである」と書いておられる。
しかし、これらの記述は、たとえば同じ民法学者を自認する私の考えとは、ことごとく異なる。私見は、①まず、民法は(というより民法に限らず法律は)、世の人々の幸福な暮らしの実現のためにあるのであって、その意味ではまさに「困っている誰かを救済するために」あるのであり、改正はそれが実現できていないところを改正するのである。②現実の紛争解決から乖離した、学理の整合性のための改正などは、まさに「学理的」という言葉で批判されるべきものであり、「学理的」という言葉は、もともと「敬意をもって使われた」形容とは到底思われない。③法学が近代化を牽引した事実はあるが、私見ではそれは既に昭和の中期までに(第二次大戦後に)終わっており、法学ことに民法学は、21世紀に入って、成熟してきた市民層のより一層の成熟を支援しつつ、その「民意」をくみ上げてルール化していくという、新たなミッションを与えられている、というものである。さらに言えば、④私は2000年から日本の弁護士のボランティア団体と協力してカンボジアの法教育支援を行ってきた経験から、「それぞれの国にそれぞれの民法があるべき」という思いを強くしており、学者が「学理的に」アジアから世界に範たる民法典を作って発信するなどという発想自体が今日的ではない、と考えているのである。
その意味で、内田氏が今回の改正作業の結末に残念な思いを抱かれているとすれば、(同氏のご尽力には最大の敬意を表するものの)それは同氏の「民法典観」、「民法学観」が既に現代の「時代意思」と隔たっていたということなのではなかろうか。民法学は、少しもその役割を終えておらず、今回の改正を受けてさらに新しいステージに入ったと私は考えている。
民法学も新しいステージへ
ではその新しいステージの要点はどこにあるのか。これも前掲の拙著のはしがきに書いたところだが、これまでの民法学は、所与の条文規定の解釈学に圧倒的な比重を置いていて、教育面でもその学説や判例を詳細に教えることが良いことだと考えてきた傾向がある。そうではなくて、法律を学ぶことで、一つひとつのルールの意味や役割を理解し、誰の利益をどう保護するルールなのか、そのルールがなかったら人はどう行動するのか、などを考え、ひいては、自分が将来所属するさまざまな集団にあって、それらの構成員を幸福に導けるルール創りができるようになる、そういう人を育てることこそが現代の法律学の教育の要諦となるべきではないかと私は考えている(池田真朗「新世代法学部教育の実践―今、日本の法学教育に求められるもの」連載第5回「解釈学の伝授から『ルール創り教育』へ」書斎の窓647号(2016)40頁以下参照)。
したがって、2020年の改正民法施行後の民法学の喫緊の課題は、一つひとつの規定の解釈を研究して教授することではなく、このように作られた一つひとつの規定が、どのような意図、どのような趣旨で作られたのかを検証し、その意図なり趣旨なりの形成が不十分であったならば、それらの規定を実際にどう使っていくべきなのかを、使い手である実務の人々や、受け手である一般市民とともに考えるところにある。
「行動立法学」の提唱
また、その意図なり趣旨なりというのは、決して学者が「学理的に」どう考えたのかを検討するものではない(つまり、学理的な起草理由を探究する作業ではない)。そうではなくて、このルールがなかったら誰がどう困り、人々はどう行動するか、とか、逆に、このルールを作ったら人はどう行動すると想定されるか、などということを立法段階でどの程度明瞭に意識していたのか、ということを検証するべきということなのである。
私はその作業を行うことを勝手に「行動立法学」と命名しているのだが、実はそのような、人々の行動を予測したルール創りがなされていたのかが疑問なところが今回の改正民法ではかなり見受けられるのである。たとえば、資金調達の場合の債権者側と債務者側の利益バランスを取って作られた新規定があるとして、それによってどう人々が行動するか(つまりたとえば理論的には当事者の利害を調整した規定に見えるが、その結果その取引が活性化するのか、そもそもそういう活性化を、あるいは活性化することの可否を、考えて規定されたのか、単に表面的な利害調整を図っただけではないのか)等の分析が、2020年からの民法学の新しい課題になるように思われるのである(好個の例として、改正法における466条の債権譲渡制限特約の規定を挙げておく。そこでは、簡単に言えば、債権譲渡制限特約付きの債権の譲渡を有効とするとしながら、債務者保護のためにその制限特約も有効とするとしている)。
そして、その検証作業は当然、学者と実務家や消費者団体などとの共同作業によって行われる(もっと言えば共同作業がなければ行えない)ものになろう。最近は、取引実務の中に企業の実務家や弁護士以外に司法書士や不動産鑑定士などの士業の方々も重要なメンバーとして加わってきているので、それらすべてのプレーヤーの行動を分析する作業の中で民法学は発展していくべきなのである。
市民層の成熟と民法学の変容
こうして見てくれば、21世紀の民法学は、学者が理想形や理念形を考えてそれを社会に当てはめるなどというものとは全くかけ離れたものであることが理解されよう。学者が自分たちの考えたルールの集成を社会に与えて社会を発展させようなどということは、端的に言って、もはやおこがましいことなのである。私自身は、昭和22(1947)年の家族法改正作業にも――それは戦後の民主社会を創造する貴重な作業であったことは疑いのないところなのであるが――既に若干の違和感を覚えている(池田真朗『民法はおもしろい』(講談社、2012)127頁以下参照)。おそらく、学者たちが、一種の「上から目線」で法律制定によって理想の社会を作ろうとする作業は、この昭和22年民法改正あたりまでで合理化の根拠を失ったと私は見ているのである。
すなわち、明治29年の民法典制定や昭和22年の家族法大改正と、今回の平成29年民法改正の決定的な違いは、民法の使い手であり受け手である市民層の形成・成熟というところにあると私は考えている(池田真朗「民法(債権関係)改正作業の問題点――「民意を反映した民法典作り」との乖離」世界865号(2015)265頁参照)。為政者と学者が組んで、おカミが民衆に法律を下げ渡す(明治憲法発布の際の「絹布の法被」の話を想起されたい)時代はとっくに終わり、現代の法学者ことに民法学者の役目は、いかに市民のニーズを集めて法律の形に適切に盛り込むかというところにあるというのが私の理解である。
つまり、前掲の内田氏の言う「近代化を牽引してきた法学」という役回りは、既に半世紀以上前に終わっているというのが私の見解ということになる。したがって、今次の民法改正では、民法学は何ら敗北していないし、何も打撃を受けてもいない。それどころか、このような「時代意思」によって誕生した、すべてのステークホルダーの利害を考察して構成する新しい学問的側面(成長要素)を得たと把握するべきなのである。
結びに代えて――21世紀のビジネス法務と民法学の将来
市民法から取引法・金融法に変質した民法債権法について今後形成されていく民法学は、したがって、ビジネス法務の進化発展についていけるというだけでなく、逆にそれをリードする要素も用意できるような、イノベィティブなものにならなければならない、というのが私の想定するところである。私法の基本法、という、ある意味ではいわば努力なしに生き残れる横綱のような地位は、既に失われつつある。しかしながら、特別法に規定がなければ一般法たる民法による、という基本ルール自体が失われたわけではない。その意味で、民法学自体の進化発展、民法学からの実務に対する発信、実務とのコラボレーションの展開、民法学の他の法分野へのアプローチ強化等、令和時代の民法学者のなすべき課題は山積している。2020年4月の改正民法の施行は、まさに民法学の新たなスタートラインを引いたと位置づけるべきものなのである。
以 上