◇SH1146◇企業法務への道(10)―拙稿の背景に触れつつ― 丹羽繁夫(2017/05/09)

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企業法務への道(10)

―拙稿の背景に触れつつ―

日本毛織株式会社

取締役 丹 羽 繁 夫

 《E.F.シューマッハーの「中間技術」論再論》

 1973年9月、ガルブレイス『経済学と公共目的』(J.K. Galbraith, “Economics and the Public Purpose”, 1973)以来背広ゼミに参加させて戴いた私には、E.F. Schumacher “Small is Beautiful  Economics as if People Mattered” (Harper & Row, 1973)こそ、最も印象深い著作として、今もなお躊躇なく指摘することができる。73年に出版されたこの書籍は、背広ゼミでは75年4月から輪読が開始されたが、同年の秋にその翻訳[1]が出版されるに及び、輪読は停止された。手許にあるペーパー・バック版への書込みによれば、私は、75年7月4日に、本書第2部第1章「最大の資源-教育」の部分を報告した。

 私は、1981年4月から2年1ヵ月にわたる財団法人中東経済研究所(現在は、アジア経済研究の一部門に吸収されている)への出向を振出しに89年4月のニューヨーク赴任に至る8年間、中東・中南米・東アジア・東南アジア諸国の政治・経済情勢の分析、経済開発計画のレビュー、政府部門・有力民間財閥グループへのファイナンスを担当した。本書第3部第2章の「中間技術」(intermediate technology)の部分は、途上国の経済発展を考えるうえで、現在読み返してもなお新鮮な視点を提供しており、依然としてその価値を失っていない。

 我が国における途上国研究、とりわけ、文化的、社会的、政治的分野における調査・研究は、予算面の制約や研究者層の薄さから、残念ながら米国に比べ大きく立ち遅れていた。私自身、1981年から88年にかけて、イラン、インドネシア、マレーシア、台湾、ベネズエラ、トルコ、韓国の調査に従事した際には、例えば、イランのイスラーム社会の歴史についてはマイケル・フィッシャー教授(現在は、MITの人類学教授)の優れた分析(Michael M.J. Fischer “Iran: from Religious Dispute to Revolution”, Harvard University Press, 1980)を、インドネシアの農村社会については「拡大なき静態的発展」(agricultural involution)と呼んだ、「劇場国家論」で知られていたクリフォード・ギアーツ教授(1970年~99年、プリンストン高等研究所社会科学教授)の分析(Clifford Geert, “Agricultural Involution: the Process of Ecological Change in Indonesia”, University of California Press, 1963)を、韓国の政治社会についてはグレゴリー・ヘンダーソン教授(ハーヴァード大学東アジア研究センター研究員であった)の『渦巻型構造論』(Gregory Henderson “Korea : The Politics of the Vortex”, Harvard University Press, 1968[2])を、それぞれの分析の出発点とした。これらの分析は、いずれも、調査対象とした各国の言語を理解し農村社会のフィールド・ワークを踏まえた、米国の研究者による労作である。

 途上国の経済発展をめぐる、我が国での当時の議論はどうであったろうか。70年代におけるブラジルを中心としたラテン・アメリカ諸国をめぐる開発論は、80年代初めにおける各国の多重債務問題の破綻と輸入代替工業化にすら失敗した開発の現状の露顕により、一顧だにされなくなっていた。80年代半ばにおけるアジア中進4ヵ国の議論も、「工業化開始の前夜における一国の工業構造が後進的であればある程、即ち一国の相対的後進性の度合いが大きければ大きい程、工業化が一旦開始された場合そのスピードは一層速く、従って先進国への追跡を加速化する」という、「後発性の利益」論をベースとした礼賛論に終始していた。

 この著作におけるシューマッハーの議論をみると、まず、経済開発のプライオリティーについて、途上国の経済開発における最大の課題は農村、都市両部門の失業問題であり、経済開発の主要な目標は、1人当たりの生産性の極大化ではなく、雇用機会の極大化にこそおかれるべきである。高めの経済成長を達成し経済開発を急ぐために、大規模な資本集約的な設備を都市部門に投入すれば、都市部門以外の地域で発展しつつあった非農業生産を破壊してしまうことになり、都市部門への人口移動を加速し、失業問題をさらに悪化させることになる、と述べている(前掲書163頁)。

 1984年に執筆した拙稿『インドネシアの現状と展望』(日本長期信用銀行国際調査部、1984年5月)によれば、インドネシアの就業構造をみると、1980年の世銀の推計では、完全失業率は4.1%と相対的に低いが、週24時間未満労働者の全就業者に占める割合は26%と高く、とりわけ農業部門における不完全雇用の割合は45%と極めて高かった。失業問題、特に農村部門における雇用問題の重要性が認識された。

 都市部門への人口流入問題をみると、1982年3月に執筆した拙稿『イラン 政治・経済情勢の展望』(中東経済研究所、1982年5月)によれば、イランの工業化は、第3次5ヵ年計画期(1963年~1967年)から第5次5ヵ年計画期(1973年~1977年)に進められた。1966年から1976年に至る10年間に、テヘランを中心とした都市部門の人口は600万人増加し、この内、農村部門からの人口流入はその35%の211万人に達した。これら都市部門内における所得格差の拡大を消費支出面からみると、中・下位層(人口の60%)の消費支出のウェイトは1963年の27%から1973年の23%へ低下した一方、上位層(人口の20%)のそれは51%から55%へと上昇した。1972年10月イスラームを否定し拝火教を崇拝したアケメネス朝ペルシャ建国2500年祭がペルセポリスの遺跡で行われたことに端を発したイラン革命の、重要な背景として、このような都市問題の深刻化を指摘することができる。

 シューマッハーは次に、採用すべき技術レベルとして、「中間技術」論を展開する。それは、途上国の陳腐化した「土着の」(indigenous)技術と、近代工業のソフィスティケートされ高度に資本集約的な技術との中間に位置する技術である。「中間技術」は、途上国の土着の技術よりは生産性が高く、近代工業の高度化された技術よりは廉価である。途上国の資金調達力、教育レベル、産業適性、技術レベルを考慮すると、「中間技術」の採用により、雇用機会の創出が比較的短期間で十分に手の届くものとなろう、と述べている(前掲書169頁)。途上国を取り巻くこのような条件、投資環境、インフラ状況が十分に考慮されないまま、資本装備率の高い設備が導入され放置されていた例は、彼も指摘しているように、枚挙に暇がなかったであろう。私の知る限り、70年代におけるアルジェリアの石油・天然ガスを利用した重化学工業化路線の破綻を想起するだけでも十分である。

 シューマッハーは最後に、「中間技術」を適用する理想的な産業分野として、農村部門の余剰労働力を吸収する初期段階の農産物加工業、農業の生産性を高める肥料、貧しい人々の生活レベルを高める建築資材、衣料品、家計消費財の生産を指摘している(前掲書175頁)。

 途上国の経済発展には、農村部門と都市部門の均衡ある発展が不可欠である。農業生産性の向上は、農村の余剰労働力を都市の工業部門へ供給する一方、農業所得の向上が新たな工業製品への需要を創出することになる。例えば、1949年の台湾における農地改革は、米国の資金援助と技術指導もあり、戦後の農業発展の基礎となった一方、旧地主層への補償として実施された被接収日本企業の株式払下げが、1950年代の輸入代替工業化の出発点となったのである(拙稿『台湾経済の現状と展望』日本長期信用銀行国際調査部、1985年5月)。韓国においても、70年代に朴政権により「セマウル(新しい村)」運動の名の下に進められた農村近代化政策は、毀誉褒貶はあるものの[3]、教育環境の整備、義務教育の徹底、農道の標準化・舗装化を含めたものであり、「韓江の奇跡」と呼ばれたその後の経済発展の礎となったのである。

 背広ゼミでのこの一冊は、その後80年代を通して途上国問題に関与してきた私に、知的好奇心の源泉と分析の視座を提供してくれたのである[4](この稿は、1995年1月に背広ゼミより発行された『続「背広ゼミ」小史』への寄稿に加筆・修正したものである)。

 なお余談となるが、欧州の大都市におけるイスラーム系の移民街がテロの温床となっている現在の状況からも、都市部門における雇用問題の重要性が改めて想起される。



[1] 小島慶三・酒井懋訳『スモール イズ ビューティフル 人間中心の経済学』(講談社学術文庫、1986年4月)。

[2] 鈴木沙雄・大塚喬重訳『朝鮮の政治社会』(サイマル出版会、1986年10月)。

[3] 雑誌「世界」(岩波書店)に1973年5月から1988年3月まで連載され後に「岩波新書」4巻として公刊されたT・K生(「世界」編集部編)『韓国からの通信』(1974年8月、続・1975年7月、第三・1977年10月、第四・1980年9月)は、私には、忘れることのできない書籍である。「目も耳もふさがれた軍政時代、韓国の人々に韓国民主化運動の真実を伝えたのは、日本の雑誌『世界』に連載されたT・K生の秘密通信だった。・・・軍政が血眼になって追い、民主化運動の人々には希望の灯となった通信の筆者が明らかにされたのは、2003年夏。・・・執筆していたのは、当時東京女子大学教授であった池明観氏であった」(池明観『池明観自伝 境界線を超える旅』(岩波書店、2005年8月)。韓国で漸く軍政が廃止され、初めての民選ともいえる大統領選挙が行われたのは1997年12月であり、私は当時偶々韓国ソウルに出張しており、同市庁舎前広場で、候補者であった金大中氏が夜遅くまで選挙演説をされていた様子が今も記憶に残っている。

[4] 80年代を通して途上国問題に関与してきた過程で執筆した拙稿には、前掲の他、下記のものがある;

 『イラン 意思決定機構のダイナミズムと展望』(中東経済研究所、1983年4月)。
 『トルコ 経済安定政策下のパフォーマンスと展望』(日本長期信用銀行国際調査部、1984年10月)。
 『ベネズエラの対外債務問題』(日本長期信用銀行国際調査部、1985年4月)。
 『再びトルコ経済を展望する』(日本長期信用銀行国際調査部、1985年9月)。
 『マレーシア市場の展望』(日本長期信用銀行国際調査部、1986年4月)。

 

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