◇SH3404◇高校生に対する法教育の試み―契約法の場合(6) 荒川英央/大村敦志(2020/11/27)

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高校生に対する法教育の試み―契約法の場合(6)

学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央

学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志

 

 (4)(5)までで、第2回の授業の概要の紹介、外形的な観察までを終えた。第1回と同様、続いて、内容上の観察に移ることにする。

 

第3節 内容上の観察――契約法を教えるポイント

(1)「小さな約束」・「小さな契約交渉」

 今回の素材はUFJグループと住友信託の合併交渉に係る平成16年最高裁決定であったが、第2節の冒頭でふれた通り、話題とされたのは契約交渉段階の法律問題に限られていない。契約と契約以前について、主催者と高校生の対話のなかでさまざまなバリエーションが話題にされた。まずは、UFJグループと住友信託の合併交渉と似た状況を高校生にとって理解しやすいものに置き換える試みから始まり、次のような文脈に話題がひろがった(《 》内は主催者による法的評価であり、その意義は後述する)。

 恋愛の文脈では、単に付き合っている段階、婚姻を前提にして付き合う段階《これがUFJ信託と住信が合併に向けて基本合意に達した状態に近いとされた》、約束とはいえないが事実上関係を深めるものとして親に会わせる段階、婚約した段階、婚姻《これが合併契約成立に近いとされた》。就職の文脈では、中央官庁に特殊な状況だがひとつの省庁に事実上囲い込まれる段階、内々定の段階《企業も応募者も排他的な契約関係には入っていないとされた》、内定の段階《内定取消しも内定辞退も行われうるが、前者は重く責任を問われるとされた[内定は始期付き解約権付き労働契約の成立と解される]》、入社して働き始めた段階《副業が禁止されれば合併契約の成立に近いとされた》。

 次第に話題は交渉段階というより、相手方を誘引・拘束するやり方にシフトしていった。進学の文脈では、学校側が受験者を拘束する手段として、入試日程や合格決定後入学金等の納入期限を調整すること。物・サービスの売買の文脈では、返品を認める販売戦略、キャンセル可のレストラン・ホテルの予約(もっとも556条が規定する「予約」とは異なる解約権付きの本契約)や旅行ツアー募集のほか、クーリングオフまで話題になった。

 話題はさらに多様な場面に及んだ。「家庭教師の○○、30点アップ」という宣伝《30点アップが契約内容なら、30点アップしなければ契約違反[債務不履行]になるとされ、そこまでの契約ではないとしても、ある程度得点がアップしなければ期待・信頼が損なわれるとされた》、隣人訴訟《訴訟では準委任契約の成立は認められなかったが、損害賠償請求が認められたと説明された[不法行為]》、マンションの騒音《なんらかの契約があれば契約違反[債務不履行]、契約がなくても損害賠償請求は認められうるとされた[不法行為]》。

 すでに第2節でふれた内容と重なるがあらためて雑然と列挙した。このようにさまざまな事実関係をめぐって対話が展開されたことは、高校生の思考のレベルに対しては、少なくともふたつの効果を及ぼしたように思われる。

 ひとつは契約交渉過程が扱われたことから直截に現れるものである。合併交渉のように時系列的に進んでいく場合については、交渉開始→予備的な合意→本契約(・最終契約)というステップを踏むケースが少なくないだろう。現代社会の契約実務に応える契約・契約法の修整の一環として、時間を要する契約交渉段階にふさわしい法律関係の規律が模索されていることは、当事者の意思表示(申込みと承諾)の合致による“一瞬の”契約成立という古典的な契約観の見直しにつながることは言うまでもない。予備的な合意のなかには、最終的な契約締結を強制できないものもある。これだけを取り出しても、「結婚と婚約、って、違うんですか?」、「婚約したら結婚する以外ない、ですよね」といった高校生の声を考慮に入れると(なぜ強制できないかに無視すべきでない違いがあるとはいえ)、参加者に契約・契約法のはたらきの微妙さを提示することになったように思われる。

 もうひとつは、上記の契約交渉過程でも現れるものの、それと対比していわば「小さな契約交渉」とでもいうべきものが扱われたからこそはっきりと、かつ機微を伴って現れるものである。セミナーで問題にされたのは、婚姻・労働契約・売買契約といった本契約に向けた婚約・内定(内々定)・予約といった「小さな約束」に限られなかった。隣人訴訟のケースのような「小さな契約交渉」で現れるコトバ・態度が生む期待・信頼もまた少なくとも一部は契約・契約法の守備範囲に含まれるものとしてクローズアップされた。そして、高校生がさまざまな事実関係について、当事者双方の立場を入れ替えながら疑似体験していく途上で、主催者からは適宜そこにどのような法律関係が生じるかについてのコメントが丹念に差し挟まれていった(その一部が《 》であることになる)。これは、契約と契約以前のさまざまな当事者間関係について、法律関係の前提となる事実関係の多彩さが、それでもなお連続性のあるものとして、高校生のあいだで共通に理解されるうえで有効だったと思われる。どのように期待は高まるか、期待に対してはどのような法的評価がなされ、その期待が損なわれたらどのような保護が(主として損害賠償のかたちで)与えられるか、についてのイメージも醸成されていったように見受けられた。

 

(2) 契約の自由と期待・信頼の保護

 契約交渉段階に視野が向けられ、とくにその段階に対する介入が契約・契約法によると考えられる場合、契約自由の原則・私的自治の原則との緊張関係が指摘されることが少なくない。契約自由の原則のうち、締約の自由(521条1項)は次のように敷衍することができ、契約を締結するのも締結しないのも自由なのであって、後者の側面を強調する立場からは、契約交渉に入っていても損害賠償なしに交渉から撤退して契約を結ばない自由があると説かれることもある。そして、近代私法の基礎としての私的自治の原則を重んじる立場からは、契約交渉過程で許される範囲の駆け引きのなかで自分の側に損害が生じてもそれを相手方に帰責することはできず自己責任になるとも言われる。

 ささいなことだが、その契機は次のようなところにも感得できるように思われる。誰かと付き合う場面で法的拘束力が発生するようなことには「最初っからそうはなりにくいかも」と感じる高校生の判断。「最初の人とちょっといい感じになってたんだけど、にばんめの人に乗り換え」てそれを非難されても、「『それは知らねえ』かな、って感じ」と言う高校生の判断。内定を2社からもらって最初の会社を蹴って2番目のほうを選ぶのも「まあ、ありなのかな、って」と考える高校生の判断。

 それでも(それゆえ)本契約のまえに、当事者がそのまえの関係の保護を望む場合に、「小さな約束」を結ぶ。「小さな約束」ともいえない、一定のコトバや態度が生む期待や信頼もまた保護されうる。上でふれたような原理・原則レベルでの緊張関係がどれほど意識されたかは分からないが、高校生たちはこうした解説も十分に理解したように思われる。

 セミナーでの解説では、この期待と信頼は互換的に使われたが、このふたつは同じものなのだろうか。実際のところ、記録をみる限りでは、「期待や信頼が義務を生む」という命題に関わって高校生が「信頼」ということばを使ったのは1回だけだった(その1回というのも次の通りである。

 

  1. 主催者: 学校が[進学実績のデータを]出してたら、それで、いや、この学校は大丈夫だ、って、そういう信頼を抱くのかな?
  2. 生徒L: 信頼……か。ま、実態的な、有名大学への進学実績は、実際、ほかの学校よりもいい部分があるので、ほかの学校より優れてる部分が、どこかにあるんだなあ、とは思います。

 

 つまり、高校生は「信頼が義務を生む」とは1回も表現していない、とも言える)。セミナー参加者には事前に平成16年決定が配布されていたから、それを読んで「期待」の語を選んだだけかもしれないし、高校生の感覚として期待が義務を生むと考えるほうが受け容れやすかったのかもしれない。ただ、同決定について、いわゆる履行利益と信頼利益を対比させる文脈で、同決定が「期待」と述べたことに着目するものもある(もっとも、いわゆる「契約締結上の過失」が問題になったとされる裁判例では期待も信頼も使われるのではあるが)。

 仮に期待と信頼は同じではないと考えてみるとすると、期待が損害賠償のかたちで法的に保護されるとはどういうことになるのだろう。履行利益と信頼利益は基本的にはドイツ法の影響のもとで設定された概念であるとされ(また、アメリカ法で言う期待利益は履行利益に相当するとされる)、日本法にはどの概念も根拠規定はないとの立場に立っても、期待の保護は直ちに履行利益相当額の損害賠償を認めることになるとは考えにくい。ここでひとつの可能性を示したように思われるのは、平成16年決定のあと、住友信託側が起こした損害賠償請求訴訟で、予備的に〔履行利益 × 最終契約が成立していたであろう客観的可能性〕の限度で請求がされたことである。この請求は認められず、二審で和解が成立して終わっており、こうした請求の仕方を否定する見解もある。とはいえ、現在「契約締結上の過失」で認められるのは信頼利益の賠償に限られるという考え方が揺らぎ、また必ずしも履行利益と信頼利益の対比にとらわれない乗り越えも模索されていることからすると、最終契約成立の客観的可能性が算定できるかは難問としても、ひとつの素直な発想ないし出発点ではあるようにも思われる。

 

(3) 法的なものをめぐって

 契約性を緩めていくと契約と契約以前はどこかで連続すると捉えると、法的責任のレベルで考えるなら契約責任と不法行為責任がどこかで連続するということになると思われる。そして、損害賠償を基礎付ける条文のレベルでは、415条と709条が(あるいは契約責任とも不法行為責任ともわり切れない信義則上の責任を独立の責任とする見方に立つなら、1条2項も)接点をもつということになるのだろう。それぞれの責任の異同は、法律論としてはさまざまに論じられるべき問題を含んでいるとしても、セミナーの場面に限って考えれば、それは必ずしもこだわる必要の大きくない問題と言っていいかもしれない(もっとも、不法行為法を扱うセミナーは別途予定されている)。

 実際のところ、高校生たちにとって、損害賠償請求ができるかどうかの判断自体は、それが契約責任なのか不法行為責任なのかの区別をほとんど意識することなく(そうだから、というべきか)、容易に行えるものだったように見受けられた。だから、「損害賠償請求できるかな?」と問われれば、とくにためらいなく「この場合はできると思う」、「そのときは無理だと思う」というように応えられたのだろう。

 ここで考えておきたいのは、法的なものに対するイメージのカタさが垣間見られたように思われることである。高校生がなにを法的なものと捉えているかといえば、今回のセミナーで話題にされたコトバのレベルでいえば、契約と損害賠償を挙げてもそれほど的外れでもないだろう(もうひとつ不法行為も挙げられるだろうが、セミナーではそのコトバ自体はわずかにふれられるにとどまった)。ここでもう一度主催者と高校生のあいだの次のやりとりを再現しておきたい。付き合っているカップルが「親に会わせる」ことは、婚姻に向かう期待を高めるだろう、それなのに付き合うのを止めたらSNSなどで社会的制裁が加えられるだろうという理解のうえに、主催者がそのさきを訊ねた部分である(第2節で紹介した部分と重複するが、重要なのは付け加えた最後のところである)。

 

  1. 主催者: うん。いまSNSにさらす、っていう話だと、――SNSにさらす、はいま非常に制裁としては重要なんだろう、と思いますけれども――、損害賠償請求できるかね?
  2. 生徒H: さすがにそれはできないんじゃないですか。
  3. 主催者: さすがにそれはできない。そう、ですかね。
  4. 生徒H: はい。

 

 親に会わせた相手と付き合うのを止めれば社会的制裁がありうることは認めつつ、損害賠償請求はできない、と言う。そして主催者になかば再考を促されるかたちで問われても考えを変えなかったわけである。主催者はすぐ続けて別の生徒に訊ねた。

 

  1. 主催者: そう、ですかね。さっき、I君がマイク入ってたけども、――親に会った、というだけで、付き合うの止めたからといって、損害賠償請求はできない、と。婚約してたらどうかな?
  2. 生徒I: 婚約をしていれば、その、まあ、契約をした、ということになるので、できるんじゃないかな、って。
  3. 主催者: うん。さあ、そこでちょっといま、「契約した、ということになるから」というふうに、I君言ってくれたんだけど、「親に会う」という約束と、――婚約というので、「婚約は契約だ」って言うんだけど、そのときの契約、って、どういうことかな?
  4. 生徒I: まあ、その、「親と会う」っていうこととの違い、っていうのは、やっぱり、なんか、法的なことに関する、っていうのが大きいかな、って思って。婚約、ってのは、やっぱり法的な契約なので、それを破ったときの、まあ、罰、というか、ペナルティが確定するみたいなところが違うのかな、って思って。

 

 婚約は契約で「法的なことに関する」ものなので、やはり法的な損害賠償まで認められる、ということのように思われる。つまり、契約と「親に会う」のあいだには高い壁があるようなのである。ここで生徒Iは明言してはいないものの、契約と契約以前のあいだについての捉え方は生徒Hとあまり変わらないのではないかと思われる。実際問題としてはふたりの生徒の感覚に不思議はないのかもしれない。一方では、第1回セミナーで話題になった契約の象徴的意味、今回話題にされた期待への保護について、高校生が一定の理解に達していることは十分にうかがえた。それなのに、契約以前のものが生みうる義務違反に対して損害賠償請求が認められる、というように考えを変えることは、少なくともこの段階では(主催者のリード・サゼスチョンにかかわらず)なかったことは指摘しておきたい。

 第1節では要点だけ示したが、この問題との関連で、高校生の側から契約と契約以外の区別を意識的に取り上げた次のやりとりも再現しておきたい。

 

  1. 生徒M: センターのリスニングのお話で、さっき、町内会が出てきたじゃないですか。町内会が「まあよろしかろう」と言ったから、センターやってる側は騒音が出ないことを期待していい、っていうことでしたけど。だけど、町内会のなかに入ってない、センターの会場の近くに住んでいる人たちの声はまったく入ってないわけで、その人たちが期待させたわけじゃない、っていうのに、センター側は護られないといけない、と思っていいんでしょうか?
  2. 主催者: もし、いまの話が、契約によって相手を義務づける、っていう話だとすると、――東大でも大学入試センターでもいいんですけども――、それが契約によってある人たちに義務を負わせようとするんだとすると義務を負う人が契約の当事者になってないといけないよね?
  3. 生徒M: はい。
  4. 主催者: で、そのことは、たとえば、回覧板で回されました、と。で、回覧板で回されたからといって、[近隣住民の]個々人が同意したことにはならないですよね?
  5. 生徒M: まあ、はい。
  6. 主催者: だけど、皆んなそれが回ったことによって知ってる、と。で、自分が約束したわけじゃないんだけれどもそういうことで騒音を出さないようにしようというのがこの地区の入試のときの、――なんていうのかな――、地区の人たちが負うべき義務になるのだ、ということは、他人がした約束とか、あるいは、他人が約束したことについて知ってるということに基づいて生ずる、契約とは別の社会規範、だと思うんですよね。それについて、やっぱり協力する義務、っていうのがあるんだ、というふうに言うのはそんなにオカシイことじゃないだろう、と思います。

 

 生徒Mは契約の拘束力が及ぶのは原則として当事者に限られることを理解したうえで契約以外の関係を問題にしている。そして、ここで説明されたような義務が生ずることまでは理解しただろう。では、ここで設定された義務が守られなかったとしたら、彼は、あるいは高校生たちは損害賠償請求を認めただろうか。さきの生徒Hへの問いかけを最後に、「この場合は損害賠償請求できるかな?」と問われることはなかった。その後の発言からも、生徒の考えをうかがうことのできる手がかりは見つけられなかった。高校生は、契約から派生する社会規範をどの程度法的なものと感じただろうか。センター試験を実施する側と町内会のあいだの契約の内容が、たとえば医療専門家が作成したガイドラインのようになんらかの注意義務についての法的評価に影響するかは分からない。いずれにせよ、最後に提示されたような社会規範が、契約・契約法の守備範囲と少なくとも間接的には一部重なると考えるとすると、高校生が法的なものと捉える仕方のカタさ(のカタさ)は考慮されてよいように思われる。

(荒川英央)

 

第4節 コメントへのリプライ

 2回目についても、荒川氏のコメントは私の授業内容を的確に整理するとともに、いくつかの問題点を剔出している。このコメントを読んで私が改めて考えさせられたのは、次の4点であった。

 第一は、問題の整理・位置づけにかかわる。この回の授業で取り上げられた判例は、直接には本契約締結に向けての交渉に先立ってなされた基本合意に関するものであり、広い意味では、「契約交渉段階における責任」という枠組みで論じられるものであった。この枠組みの中で、(この判例の事案のように)ある種の合意が存在する場合とそのようなものは存在しない場合を含めて、交渉を破棄された相手方に法的保護は与えられるか、与えられるとしたらそれはなぜか(契約によるのか不法行為によるのか)、また、どのような保護か(履行強制まで認めるか、損害賠償に留まるか)を論ずるというのが、一般的な検討の仕方であろう。

 しかし、荒川氏が冒頭から指摘しているように、私の授業の中では、①契約交渉段階から契約締結へ、という通時的な観点からの検討に留まらず、②「契約」と評価される合意と「事実」と評価される合意、という共時的な観点からの検討が含まれている。すなわち、「契約と契約以前」と一言で言いつつも、この二つの問題の中には共通点と相違点とがあるが、この点の整理が必ずしも十分ではなかった。なお、荒川氏は、①において現れる「契約以前」のものが「小さな約束」と呼ばれることを念頭に置きつつ、②において現れる「契約以前」のものを「小さな契約交渉」と呼んで区別しようとしている。それ自体は貴重な試みであるが、より用語・表現がないかどうかについては、もう少し考えてみたいと思う。

 第二は、「契約」の概念にかかわる。言い換えれば、ある合意(約束)を「契約」であると性質決定すると、そこから何が導かれるのか、という点をもう少し詳しく説明すべきであった。この点は、授業の成果ということもかかわる。荒川氏は、生徒たちが「契約」「損賠賠償」についてある種の直感的な判断をしていること、その判断枠組みには強固なもの(「カタさ」)があり、授業を通じても必ずしも大きく揺らいでいないことを指摘している。それは「契約であるか否か」と「損賠賠償が認められるか否か」がどうかかわるのか、また、「損害賠償が認められる」と「認められない」とはどう線引きされるかについて、直感を導く暗黙の枠組みを修正するに足りる説明を与えるには至らなかった、ということだろう。これは授業の内容に対する批判であるとともに、授業の進行に対する批判でもある。この点についての理解が十分でないことを感じ取って、その部分を深める必要があったのではないか。ここでは、(オンラインであれ)生徒たちと向き合って行われる対話式の授業の意義が問われている。

 第三は、責任の根拠あるいは「損賠賠償」の中身にかかわる。荒川氏は、私が主として「信頼」という語を使い、「期待」という語もこれと互換的に使っているのに対して、生徒たちはもっぱら「期待」という語を使っていたのではないかと指摘する。そこから進んで荒川氏は、損賠賠償の内容として信頼利益の賠償ではなく、期待利益の賠償を認めるという可能性に言及している。確かに、賠償額の算定は議論すべきことがらであり、これとの関連で「信頼」と「期待」を意識することも必要であろう。しかし、それとあわせて(それ以前に)、「信頼」とは何であり「期待」とは何であるのかを考えてみる必要があったのかもしれない。これは、1回目の授業で指摘されていた「契約の拘束力」の根拠ともかかわる点である。

 第四は、「契約」による「社会規範」の生成・創出にかかわる。(当事者間でのみ効力を持つ)「契約」の存在が、(当事者を超えて通用する)「社会規範」を生み出しうる、ということを理解してもらうためには、もっと丁寧な説明が必要であった。この点は、「法律」による(法律の内容を超えた)「社会規範」の生成・創出という、より一般的な―コロナ下における日本における規範生成に関連する―問題にもかかわる。別の機会にセミナーの話題にしてみたい。

(大村敦志)

 

第5節 おわりに―暫定的なまとめ

 今回のセミナーを通じて痛感したのは、契約法を教えるというのは思った以上に難しい、ということであった。そこには少なくとも、これまでに不法行為法や家族法を教えた際には感じなかった難しさがある。この点は、参加した生徒たちも感じていたようであるが、端的には、荒川氏が「記録に残す方がよい」としてわざわざ取り上げてくれた、授業外の(休み時間中の)問答に現れている。

 私は質問に対して、法律問題と社会問題とが連続的なものであること、思考方法として、直感による方法(ファストな方法)と分析的な方法(スローな方法)とがあること、法律家の直感と法律家以外の直感とに本質的な差はないこと、などを述べた。しかし、不法行為や家族の問題と異なり、契約の場合には第一次的な直感だけでは片付かないものがあるのではないか(直感だけで考えてしまってよいのか)。生徒たちは私の話を聞いて、そう考えたのではないかと思う。

 問題は次のように定式化できるのかもしれない。不法行為法と契約法とでは(あるいはより一般化して、法領域が違う場合には)、直感の働く領分が異なるのではないか。あるいは、直感は直ちには働かず、問題の一定の整理を前提とするが、この整理を直感的に行うことができる場面とそうではない場面があるのではないか。この問いに、いま直ちに答えを与えることはできないが、セミナーをまとめて書籍化する際には、少なくとも暫定的な見通しを述べたいと思う。

 

 セミナーは第3回・第4回と続いたが、本稿で述べるのはここまでである。もっとも、本稿には続稿が予定されている。そこでは、不法行為法(その現代的な側面)を取り上げたセミナーに関する記録(やはり前半の2回分)をご覧いただきたいと考えている。

(大村敦志)

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