中学生に対する法教育の試み―不法行為法の場合(1)
学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央
学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志
はじめに
しばらく前に「高校生に対する法教育の試み―契約法の場合」と題して、本欄に6回連載の小稿を寄稿したが(以下、前稿と呼ぶ)、その際に紹介したのは、2020年5月から6月にかけて契約法判例を素材として開成高校で行った私のセミナーであった。これに続いて本稿では、同年の11月から12月にかけて筑波大学附属駒場中学校においてほぼ同様の枠組みで行ったセミナーの内容を紹介させていただく。素材としては(現代的な)不法行為判例を取り上げた。
今回もセミナーの記録係をお願いした荒川英央氏を煩わせて、彼の観点から授業観察記録をとりまとめてもらい、これを読者の閲覧に供することとした。記録の対象は2020年度筑駒セミナーの前半2回分である。前半2回分に限っても記録は相当分量になるので、読者の便宜を考えて1回分のファイルを三つに分けることとした。その1には、第1章第2節の途中まで、すなわち、第1回セミナーの前半の内容に関する外形的な考察を掲載する。
法教育の目的の多様性、あるいは、このような記録を公開する理由などについては、前稿で述べたところと同じなので、ここでは繰り返さない。なお、荒川氏による記録本体のあとに「コメントへのリプライ」という形で、この記録を読んで私自身が気づいたことを簡単にまとめるとともに、最後に2回分のコメント・リプライを踏まえて「暫定的なまとめ」を行った。いずれも前稿の場合と同様である。著者の自己紹介についても前稿に譲る。
(大村敦志)
第1章 ゴーマニズム宣言事件(被侵害利益―名誉)
第1節 授業の概要
と き:2020年12月5日(土) 13:00~17:30
ところ:web上でZoomミーティング形式
テーマ:ゴーマニズム宣言事件
素 材:被侵害利益―名誉
検 討:名誉毀損の要件・効果は?/名誉毀損の保護法益は?/名誉毀損訴訟の多発の意味は?
2020年冬の筑駒セミナー第一回目。新型コロナウィルスによる政府の緊急事態宣言は解除されたものの、主催者の判断により、web上でZoomを使ったミーティング形式で行われた。すでに参加者の自己紹介は済んでいため、ただちに主催者による上記テーマについての話題提供に入り、参加者との対話が進められていった。
話題の提供は、不法行為法で問題とされる被侵害利益の歴史的な変遷(人身に関わるものから人格に関わるものへ)からはじまり、最高裁の判決文の構造についての解説を挟んで、名誉毀損についての判例法理の理解に十分な時間が割かれた。その後、判決により示された新たな規範についての批判的な検討へと進んだ。前半の締めくくりに際して生徒から事実と論評の関係について質問が出され、それを主催者が重要な問題として引き取り、後半で話題にしたい点が提示されるとともに、後半の議論への道筋がつけられた。
約1時間40分の前半のあと、10分程度の休憩をはさんで開始された後半では、前半最後の質問に起因した問題から議論がふくらんで展開された。そのなかから、判例法理の意味はなにか、公共性・公益性要件について考え直すべき点はないか、判例が前提とする事実と評価の区分を批判的に検討するとどうなるか、といった問題等を軸に対話が行われていった。なお、上で「検討」事項としたものは事前に配られた資料による。以下でみていくように後ろのふたつの問題はセミナーでは表立ってはそれほど時間は割かれなかった。むしろ“即興的”な対話を展開することに重点が置かれた。
参加者
主催者:大村敦志
筑波大学附属駒場中学校の生徒:10名(3年生)
筑波大学附属駒場中学校・教諭:小貫篤
モデレーター:池田悠太
記録係:伴ゆりな・荒川英央
第2節 外形的な観察――授業の進め方・生徒の様子など
1 ゴーマニズム宣言事件の構図
まず、今回素材となる被侵害利益である名誉について、それは古くから保護されてきたが、名誉毀損をめぐる訴訟が多発するようになったのはここ20~30年であること、その背景のひとつとして、情報通信環境の変化(ネット空間の拡大)によって簡単に他人の名誉を侵害できるようになったことが指摘された。そして、本セミナーに参加する中学生にとっても、名誉毀損は身近な問題だろうとされた。
ゴーマニズム宣言事件の構図は次のように説明された。まず、事件に至った経緯として、①1990年代末に歴史の見直しを求める動きが起きた。それまでの歴史教科書を「自虐史観」によるものとして批判するグループとそれに対立するグループのあいだで論争が行われ、その流れに今回取り上げる事件は位置づく。②事件自体の流れとしては、ⅰ-1)いわゆる従軍慰安婦問題について日本に責任があるとするグループに属する上杉聡の考え方を、漫画家・小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』シリーズ(なお、中学生たちはこの漫画自体知らなかったようである)で批判、ⅰ-2)それへの反論として書かれた上杉の『脱ゴーマニズム宣言』のなかで小林の漫画のコマが多数「引用」等され、ⅰ-3)小林が漫画でその「引用」等は著作権侵害であり、上杉の行為は「ドロボー」だと表現し、それが訴訟に発展した。訴訟での争いは2段階になっており、ⅱ-1)小林側が、上杉の「引用」等を著作権侵害だと訴えたが、ⅱ-2)上杉側は、小林が「上杉は著作権侵害をしている」、「ドロボーだ」と表現したのを名誉毀損だと訴えた、とされた。
今回のセミナーで取り上げられたのは、この2段目の訴訟の最高裁判決で、その判決文の構造が次のように解説された。最高裁は、①「原審が適法に確定した事実関係」をまとめ、②当事者双方の主張をまとめたうえで、③原審の判断をまとめ、④「しかしながら、原審の上記判断は是認することができない」として、原審とは違う最高裁の判断が示される、というかたちになっている、と解説された。
2 最高裁判決の判断枠組み
この判決文の構造のなかで、④の部分で示された最高裁の判断枠組みは次のようであると説明された。その判断枠組みは基本的に従前の判例に従っているというスタンスを取りつつ、「事実摘示型」の名誉毀損と「論評型」の名誉毀損とを区別し、ⅰ)事実摘示型では、a.公共利害性、b.公益目的性、c.「摘示された事実がその重要な部分について真実であること」の証明がある(真実性)、という要件を満たせば違法性が阻却されて名誉毀損は成立せず、d.cの要件は満たさなくても、真実であると思ったことが相当である(真実相当性)という要件を満たせば故意または過失が否定されて名誉毀損が成立しない。他方、ⅱ)論評型では、aとbについてはほぼ同様で、c.「意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であること」の証明がある、という要件を満たせば、論評としての域を逸脱しない限り、違法性が阻却され名誉毀損は成立せず、d.cの要件は満たさなくても、真実相当性の要件を満たせば故意または過失が否定されて名誉毀損が成立しない(傍点は記録係。以下同じ)。
この判断枠組みでは、名誉毀損が成立するかは、事実摘示型に当てはまるか、それとも、論評型に当てはまるか、が分かれ目になる。今回のゴーマニズム宣言事件では、小林の表現(「上杉は著作権侵害をしている」、「ドロボーだ」)は論評に当たるから、結論としては小林側による上杉に対する名誉毀損は成立しない、と判断された、と解説を加えたうえで、主催者は、「名誉毀損についての最高裁の一般論で本当にいいと思うか?」を話題にしたい、と参加者に問いかけた。しかし、すぐに参加者たちに発言を求めることはしなかった。
上で最高裁の判断枠組みを示すにあたって(なお、解説は判決文を画面共有しながら、それをほぼなぞるかたちで行われた。換言すれば、この段階ではかみ砕くような説明は行われなかったということである)、おそらく主催者は、参加者が事実摘示型と論評型の違いをすぐにははっきりと理解できないことを織り込み済みだったようである。理解を促すべく、主催者は生徒たちとの対話をさまざまなかたちで進めていった。
1)事実摘示型と論評型の違い
まずは次のように質問を積み重ねるかたちで。小林側は自分たちの表現は論評型に当たると主張したのだが、それはそのほうが小林側に有利だからと考えたためだと思われる。なぜ有利なのか? 今回の事件とは別の例を挙げ、雑誌などで、「ある政治家が○○大学卒だと言っているが実際には卒業していない」と書く場合と、「あの政治家はウソつきだ」と書く場合でどう違うのか? 再び事例に戻って、今度は小林側が上杉に対して起こした著作権侵害訴訟にふれて、裁判所が大筋では「上杉は著作権侵害をしていない」と判断しているから、「上杉は著作権侵害をしていない」が本当だということになって、小林の表現は事実摘示型だと考えるとすると小林の名誉毀損は成り立つだろうか?
はじめ生徒たちは、最高裁判決にも盛り込まれていた表現の自由といった言葉を使いながらなんとか考えをまとめようとするのだが、やや手こずっているように見受けられた。主催者はもう少し話しを進めるほうが分かりやすいかもしれない、として、次のように説明を加えた(なお、発話の内容をゆがめない範囲でとくに断りなく省略した部分がある。以下同じ)。
- 主催者:法的な評価というのは事実じゃなくて、論評なんだ、というふうなことを裁判所は言ってるわけです。「法的な見解の正当性それ自体は、証明の対象」にならない、と。で、「証拠等をもってその存否」が決まるようなことじゃないんだ、と言うわけです。
前後したが、上の最後の質問がこの説明のすぐ後に行われたものである。ここで生徒はそれなら「名誉毀損は成立する」と応えた。ただ、その理由づけは次のようなものだった。
- 生徒A:裁判所が「著作権侵害はない」って言ってるのに、「著作権侵害がされた」って言ってることは明らかに事実ではないから。
一面では記録係が言葉の端を捉えているだけなのだが、「事実ではないから」と言うときの“事実”は必ずしも論評との対立で決まってくる意味では使われていないようにも見受けられる。
2)論評型の場合、小林側の名誉毀損が成立しない理由
そんななか、それでも最高裁判決の考え方が参加者にある程度は伝わった感触がえられたと見受けられた段階で、今度は主催者はなぜそうなるのか、について説明を求めるかたちに切り替えた。逆に、最高裁判決のように「上杉は著作権侵害をしていない」は論評だと考えるとすると、なぜ小林側の名誉毀損は成り立たないのか、自分の言葉で説明して欲しい、と。やはり生徒たちは苦戦しているように見受けられた。
ただ、興味深いのは、主催者と対話のなかから出てくる個々の生徒の発話のなかに、書き留めておくべきように思われるものが派出してくることである([ ]内は記録係。以下同じ)。
- 生徒B:著作権侵害があったかどうかは裁判所が客観的に決めることじゃなくて、小林さんが主観的に決めることであるから、事実に基づいてあったかないかという真実性を担保することはできないから、勝手に言うことができる、みたいな感じですか?
- 主催者:事実じゃない言い方をすれば、なんでも言えるってことになるのかな? 常に名誉毀損にならない、っていう。
- 生徒B:事実じゃなかったら、そもそも名誉は毀損されないのかな、と。明らかにウソだったら、そもそもみんなウソだと分かって、名誉そのものが傷つくことがなくて、問題にもならないのかな、と思います。
生徒Bのこの発話は、後で展開される議論につながっていく。ただ、主催者はその前に、また別のかたちで最高裁判決の判断枠組みについて考えることを促した。
3)真実だと証明されるべき、「論評が前提としている事実」
判決によれば、論評型でも、それらが前提としている事実については真実であることが要求される場合がある。主催者はこう述べたうえで、小林側の「論評」が「前提としている事実」はなにか? と訊ねた。次の発話も興味深い派生物の一例である。
- 生徒C:上杉の本で、小林の漫画のコマをたくさん引用していたんですよね。それで、それに色々つけくわえて揶揄していた。それを小林が、「これは自分に対して悪意をもって、悪く言っているだけだ」という感じになったら、それは著作権の侵害に関わってきちゃうのかな、って思います。
生徒Cのこの発話は、主催者が訊ねたことへの応答を含んでいながら、(なぜか)それを飛び越えてしまう(もっとも、飛び越えていないのかもしれない)。むしろ小林側が著作権侵害を訴えるに至った、ある意味動機のようなものに言及しているのだが、それが、上杉による小林に対する論評部分を画定すると同時に、いわば斜め下から求められた「事実」部分の特定に帰着しているようなのである。
この後、主催者は事実レベルで小林の主張を覆せないかを問うかたちで理解をはかった。またてこずる生徒たちに対して、主催者側から例を示して次のように説明した。判例によれば、「確かに上杉という人物が《≠訴訟当事者とは別のウエスギサトシが》、確かに小林の漫画を《≠小林以外が書いた漫画を》、確かに無断で《≠承諾をえて》載せたかどうか」は証拠等で存否が決まる「事実」で、「論評」はそれら「事実」が真実であることを要する(上記《 》内が「事実」レベルで真実性を覆しうるものとして主催者が挙げた例)。しかし、反対に言うと、そこだけ――その小さな部分だけ――が「真実だ」と言えばいい、それで名誉毀損の責任を免れる――ここに落差があって結論が分かれる。最高裁判決の判断枠組みはこのようなものだと述べ、事実摘示型と論評型の区別を生徒たちに示してみせた。
上記生徒Cの発話の位置付けは記録者による恣意的なものとも思われる。ただ、やや不思議にも思われるようなこうした発話の連鎖を含みつつ、そのなかから判決の判断枠組みについての生徒たちの理解が進んでいっていったようなのである。
3 判例の判断枠組みは“いい”のか?
前半の時間ほぼすべてを使って判例の判断枠組みを説明したあと、主催者は「それでいいのかな?」と問いかけた。この問いかけには少なくとも次のふたつの意味があるという。ひとつは、この判決が出たことがどういう意味をもつのか? もうひとつは、この判例法理に含まれている世界観・社会観――とりわけ言論に対してどのような態度を取るか――には疑問の余地があるのではないか? こうした点について、後半で考えてみたい旨が生徒たちに告げられた。
その意図は次のように説明された。大学ではこの判例はこう教わる。名誉毀損による不法行為には、事実摘示型と論評型のふたつがある。事実と論評の区別の基準は基本的には証拠等でその存否が決まるかどうかである。そのどちらかによって名誉毀損の責任を免れられるかどうかが大きく異なる。法的な判断は論評にあたる。最高裁の判断枠組みは以上の通り。そう理解して、「おしまい」、になる。
そうした判断枠組みを身に付け、操作できるようになることが法律家になっていくということでもある。ただ、皆さんにさらに進んでいって欲しいのは、「その考え方で本当にいいのか?」を考えること、つまり判例に対して批判的な観点に立つこと――結論はそれで“いい”になるかもしれない――だと思っている。
これは一見時間のムダである。しかし、このことによって「このルールがなにを意味しているのか」をより深く理解できるようになるのではないか。それはルールを変えなければいけない難しい場面に遭遇したときに、ルールを変える手がかりを手に入れることになる。
難しい場面に出会うことは必ずしも多くないかもしれない。法的な見解は事実なのか論評なのか、最高裁の考え方は分からなかったからこの事件は難しかったケース。簡単なケースばかりなら、事件処理の効率性が大事になる。ただ、事件を解決することがすべてだろうか? その解決や、それが前提にしているルールがもっている世界観・社会観がわれわれにとってよいものなのか? を問い、よい世界観・社会観を実現していくのが、事件を解決するだけでない「法律家」の役割なのだろう。そして、それができる人たちは、それをやる必要がある。このように思っている、とのことであった。
4 生徒からの質問:前提としている事実と意見・論評の関係
主催者は以上のように前半を締めくくったのち、ここまでで質問はないかを訊ねた。ここで生徒から出された次の質問が後半の議論を大きく規定することになった。事実と論評をつなぐ推論の関係の問題である。
- 生徒D:論評型だった場合に、前提としている事実さえ真実であればいい、みたいな感じだったんですけど、たとえば事実が正しくてもそこから論理の飛躍みたいな感じで、たとえば「Dは日本人だからウソつきだ」みたいな、そんな感じでものすごい論理の飛躍があったら、これは、でも論評型として認められるみたいな話になるんですか?
主催者は、それは重要な点だと思うと述べた後、論評型が免責される要件には、人身攻撃に及ぶなど論評の域を逸脱しないことがあることを再確認し、この事件ではそこで判断されているのだろう、とまずは応じた。
しかし、Zoomの画面を通して「D君はかすかにうなずいてくれてるんだけど、かすかにしかうなずいてくれてないんだよね」と認め、この生徒の発話・態度から問題を次のふたつに整理してみせた。ひとつは、感情的なものではなくて、論理的にオカシイものはどうなるのか? それは問題にならないと考えるか、それも問題と考えるか? もうひとつは、「論評の域」を逸脱していたらアウトというので感情的なものは処理できるとしても、論理的にオカシイものはそれでは処理できないのではないか? 「論評の域」とは別立てで考えるべきではないか? この点は後半考えたい。意見は分かれるだろう。皆さんは自分の考えができつつあると思うが、その上で反対の意見も考えておいて欲しい、とのことだった。ここまでの質疑応答で前半が終了した。
(荒川英央)