コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(92)
―雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する②―
経営倫理実践研究センターフェロー
岩 倉 秀 雄
前回は、雪印乳業(株)グループの食中毒事件と牛肉偽装事件について、筆者の問題認識を述べた。
本稿は、『雪印乳業史 第7巻』等による公開資料の範囲内の事実に基づき、組織論の視点から、雪印乳業(株)設立の歴史を踏まえ、同社グループの事件がどのような経過で、なぜ発生し、どのような危機対応を行い、どう信頼回復・経営再建を図ったのか、事件の再発防止のために何をどう実行したのか、事件を教訓として(雪印乳業(株)と日本ミルクコミュニティ(株)が合併して設立された)雪印メグミルク(株)が発展するために、今後何が必要か等、を考察・提言する。
筆者の考察は、組織文化に注目しているが、そのためには、組織の創業の歴史を知る必要があることから、今回から複数回にわたり、雪印乳業(株)はどのようなルーツを持ちどう発展してきたかを考察する。
【雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する②:雪印乳業(株)のルーツ】
雪印乳業株式会社は、大正14(1925)年設立の北海道製酪販売組合に始まるが、その母体は、更に遡り、明治30(1897)年頃に設立された宇都宮仙太郎[1]を中心とする札幌の市乳(飲用牛乳)業者による、ビール会社の副産物であるビール粕を共同で購入・分配する「札幌牛乳搾取業組合」(通称4日会)の設立に始まる。
当時、酪農家の生産物である生乳が煉乳会社に買い叩かれるので、大正6(1917)年、他の酪農家とともに4日会を「札幌酪農組合」に改称し、適正乳価の協定と飼料の共同購入を行なった。
組合長は宇都宮仙太郎、専務理事は黒澤酉蔵[2]で、組合員は乳牛飼育者に限られるという“牛屋は牛屋で”を実現した酪農の公認組合の第1陣であった。(雪印乳業史編纂委員会編『雪印乳業沿革史』(雪印乳業(株)、1985年)4頁~6頁)
1. 北海道製酪販売組合(雪印乳業(株)の前身)設立の事情
ここでは、明治以降の北海道酪農の状況や酪農生産者の活動を踏まえ、雪印乳業(株)創立の背景と経過を確認する。
どのような社会状況の中で、いつ頃、何のために、どのような経緯で、雪印乳業が設立されたのか、設立前夜の、酪農・乳業の情勢はどうだったのか、生産者の組合である「北海道製酪販売組合」と既存の乳業会社との軋轢はどうだったのか、その軋轢をどのように乗り越えたのか等、北海道の先進的な酪農生産者が雪印乳業(株)を設立しなければならなかった事情と背景、組織に期待された役割を考察する。
(1) 北海道酪農のはじまりの頃
明治元年、蝦夷地開拓法が公布され、その翌年、この地は北海道と命名され、開拓使[3]が置かれた。明治3年、第3代開拓使次官(後に長官)黒田清隆[4]のもと、初めて北海道農業の基本方針が立てられ、翌年、米国から開拓使顧問ホーレス・ケプロン[5]を招聘、ケプロンは北海道のような寒冷地には稲作は不適当であるとして、畑作有畜農業を提唱した。ケプロンの献策により開拓使10ヵ年計画[6]が策定され、明治5年から始動した。
(つづく)
[1] 慶応2(1866)年、大分県中津市生まれ。同郷の先輩福沢諭吉の「洋学を学ぶ進取の気性」に強く触発され、18才で北海道に渡り、北海道開拓のために招かれたエドウィン・ダンの牧場(真駒内種畜場)に牧夫として就職した。同牧場で2年間働いた後、明治20(1887)年、渡米し、3年間ウイスコンシン大学で酪農を学び、帰国後、札幌近郊の白石村で農場を開き、翌年、札幌で市乳(飲用牛乳類)の販売を行った。北海道酪農の父と言われる。宇都宮は、黒澤酉蔵、佐藤善七(雪印乳業(株)初代社長佐藤貢の父)等と共に、雪印乳業(株)の母体となる酪農協同組合を設立した。
[2] 明治18(1885)年、茨城県久慈郡世矢村(現常陸太田市)生まれ。16才で田中正造の弟子になり、足尾銅山鉱毒難民救済運動に加わった。弾圧を受け、前橋刑務所に6ヵ月間未決拘留され、無罪を勝ち取った後、20歳で北海道に渡り、宇都宮牧場の牧夫になった。その後、札幌市山鼻で独立し、酪農と牛乳販売で成功した。なお、黒澤は投獄中に女流教育家潮田千勢子に聖書を差し入れられ、親友の佐藤善七の影響もあり、後に札幌で洗礼を受けクリスチャンになった。黒澤は10代で活動家、20代以降は、酪農家、農協運動のリーダー、政治家(衆議院議員)、社会企業家、酪農学園大学の創業者、農本主義の思想家として活躍した。(岩倉秀雄「日本酪農の先覚者・黒澤酉蔵の「協同社会主義」と報徳経営」田中宏司ほか編著『二宮尊徳に学ぶ報徳の経営』(同友館、2017年)204~216頁)
[3] 明治2(1869)年、北海道開拓のために設置された行政機関。1882年廃止。北海道発展の基礎を固める上で重要な役割を果たした。
[4] 1840年11月9日生(1900年8月23日没)薩摩藩士。薩長連合の成立に寄与。戊辰戦争では五稜郭の戦いを指揮。維新後は、北海道経営にあたり、札幌農学校の設立、屯田兵制度の導入を決定。「樺太放棄論」、「北海道経営10ヵ年計画」を建議し、北海道の方向を定めた。
[5] ホーレス・ケプロン(1804.8.31〜1885.2.22)は、アメリカ合衆国の第二代農務局長。黒田清隆の懇請により農務局長の職を辞して、明治4年に67歳で開拓使の御雇教師頭取兼開拓顧問として、お雇い外国人(外国人技術者)らを指揮して北海道開拓に関する意見を開拓使長官に進言、事業の推進にも関わった。三回にわたって北海道を視察調査し、北海道開拓の指針を『ケプロン報文』にまとめた。
[6] 最初の北海道開発計画。明治5年から10ヵ年にわたる拓殖費の支出を1,000万円(別に租税収入を使用することを認める)とした。これにより、移民の受け入れが進み、陸海路の開削や鉄道の敷設等により北海道開拓の基盤整備が進んだ。