◇SH2017◇コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(93)雪印乳業㈱グループの事件を組織論的に考察する③ 岩倉秀雄(2018/08/07)

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コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(93)

―雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する③―

経営倫理実践研究センターフェロー

岩 倉 秀 雄

 

 前回は、雪印乳業(株)の創業の歴史と北海道酪農の始まりの頃について述べた。

 雪印乳業(株)の創業は、大正14(1925)年設立の北海道製酪販売組合だが、その前身は更に古く、北海道開拓の頃に酪農を始めた酪農生産者が中心になって設立した「札幌牛乳搾取業組合」(通称4日会、明治30(1897)年頃設立)と、それを母体として、煉乳会社の生乳の買い叩きに対抗して、適正乳価の協定と飼料の共同購入を目的に設立した「札幌酪農組合」(組合長は宇都宮仙太郎、専務理事は黒澤酉蔵、大正6(1917)年)である。

 北海道開拓は、明治元年、蝦夷地開拓法が公布され開拓使が置かれたことに始まる。北海道開拓に尽力し開拓の方向を定めた第3代開拓使長官黒田清隆は、米国から開拓使顧問ホーレス・ケプロンを招聘し、ケプロンは、寒冷地の北海道には稲作は不向きであり畑作有畜農業を行うべきであると提唱した。

 今回は、北海道酪農の始まりの頃の続きを考察する。

 

【雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する③:雪印乳業(株)のルーツ】

(1) 北海道酪農の始まりの頃(前回の続き)

 明治8年、ケプロンの推薦により来日したエドウィン・ダン[1]は、翌年、真駒内に広大な大地を開墾して飼料作物をつくり、大規模な牧場を設けて有畜農業普及の基礎を築いた。

 また同年、札幌農学校(現、北海道大学)の教頭として赴任したウィリアム・スミス・クラークは、北海道農業の指導者を育てた。

 その後、明治19年制定の「北海道土地払下規則」は、大地積処分の道を開き、明治30年の「北海道国有未開地処分法」は、更に寛大な土地付与を行ったので、府県富豪や華族の投資による民間牧場[2]が次々と誕生した。

 しかし、大半は牧場の開設経営を名目とした地主的土地確保の手段として利用されたに過ぎず、経営は極めて粗放、馬産が中心で、牛は乳牛よりも肉牛に主力が置かれた。

 そのため、地主的牧場は不振に陥り、小作制の農場に転換するものが多くなり、一部牧場は酪農方式を取り入れ、バターの製造販売を行うようになった。

 いわゆる地主的牧場・酪農だがそれも多くの労働力を必要とするため、周辺農家や小作人による分散飼育を主体とするようになり、北海道の初期の酪農は次第に農民的小生産に移っていった。(雪印乳業史編纂委員会編『雪印乳業沿革史』(雪印乳業株式会社、1985年)3頁)

 なお、明治初年から20年ころまでが官営畜産時代、明治20年から末年までが地主的大牧場並びに搾乳業者時代、これに続く大正時代は煉乳事業勃興時代と言える。(同4頁)

 煉乳事業は、乳業の中でも早くから発達[3]し、北海道煉乳(株)、極東煉乳(株)(後に明治乳業(株)に改称)、森永製菓(株)の3大会社が激しい競争を続け、各社とも酪農の育成に努めたため工場周辺の近村には、乳牛を飼育する農家が際立って増えていった。

一方、この頃札幌や函館の都市周辺には、牛乳搾乳業者が続出し牛乳の販売を始めた。札幌市では明治19年ごろ、岩淵利助が大通西5丁目に乳楽軒と号して開業したのが最初であるという。(同4頁)そして、明治24年には、北海道酪農の父と呼ばれる雪印乳業(株)創立者の一人である宇都宮仙太郎が、大通りで牛を飼ったという。(同4頁)



[1] エドウィン・ダン(1848年6月19日 – 1931年5月15日)は、獣医師で明治期のお雇い外国人。開拓使に雇用され、北海道における畜産業の発展に大きく貢献した。アメリカ合衆国、オハイオ州チリコシー出身。オハイオ州マイアミ大学卒業。1873年より開拓使顧問として雇用され、多数の牛、羊、農耕具を日本へ輸送した。来日当初は、東京において最大70人の生徒に畜産学や獣医学を教えた。1875年、日本人の「つる」と国際結婚し、翌年の1876年、札幌へ移動する。彼の指導により、札幌西部に牧羊場、真駒内に牧牛場(真駒内牧牛場、のちの真駒内種畜場)、ビール醸造所、が作られた。また、バター・チーズ・練乳・ハム・ソーセージの加工技術を指導し、北海道の馬産の拠点となる新冠牧場を整備した。(英語版Wikipedia ‘Edwin Dun’(https://en.wikipedia.org/wiki/Edwin_Dun, 2018年7月14日18時58分版)他

[2]  前田村の前田牧場、八雲町の徳川牧場、雨竜村の蜂須賀農場などがその例である。(雪印乳業史編纂委員会編『雪印乳業沿革史』(雪印乳業株式会社、1985年)3頁)

[3] 北海道庁は、明治初期以来の略奪農業により地力が衰え農村が疲弊したことから、有畜農法による根本的解決を意図して、明治38年「移入牝牛補助規程」、続いて「移入牝牛委託購買手続」「産牛馬組合補助規程」などを制定して酪農の普及・発達を促し、成功したが、明治40年以降牛乳生産が過剰になったため、これを処理するための煉乳事業が次々と興った。その際、煉乳事業の後押しに役立ったのは、明治41年に公布された煉乳原料砂糖戻税法(煉乳原料用砂糖に対する消費税を免税する措置)で、製菓業界における加糖煉乳の消費を拡大し煉乳市場は安定した。(雪印乳業株式会社編『雪印乳業史 第1巻』(雪印乳業株式会社、1960年)18~19頁)

 

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