コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(94)
―雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する④―
経営倫理実践研究センターフェロー
岩 倉 秀 雄
前回は、北海道酪農の始まりの頃の続きを述べた。
明治8年、ケプロンの推薦により来日したエドウィン・ダンは、札幌西部に牧羊場、真駒内に牧牛場(のちの真駒内種畜場)を作った他、新冠牧場を整備し、北海道に有畜農業普及の基礎を築いた。
一方、政府は、北海道に有畜農業を普及させようとしたが、大半の牧場が、府県富豪や華族の投資による、牧場の開設・経営を名目とした地主的土地確保の手段として利用された。
そのような中で、煉乳事業は、早くから発達し、北海道煉乳(株)、極東煉乳(株)(後に明治乳業(株)に改称)、森永製菓(株)の3大会社が激しい競争を続けながら、各社とも酪農家の育成に努めたので、工場周辺では酪農家が増えていった。
今回は、北海道酪農の基礎を築いた人々と雪印乳業(株)との関係について考察する。
【雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する④:雪印乳業(株)のルーツ】
(2) 北海道酪農のルーツと雪印乳業㈱の創業者達
① 開拓期の北海道酪農の推進者
エドウィン・ダンの最初の教え子であった町村金弥はダンの後を継ぎ、真駒内種畜場長となり、長男の敬貴[1]は札幌農学校卒業後、明治40(1907)年から10年間米国の牧場とウィスコンシン大学で研修し、終生北海道酪農の振興に尽くした。
宇都宮仙太郎は、この真駒内種畜場で2年間実習した後、明治20(1887)年に渡米し、3年間ウィスコンシン農業試験場と大学で、世界的に著名なヘンリー、バプコック両博士に師事し、帰国後、札幌郡白石村で米国式の本格的な酪農を開始するとともに、牛乳の販売とバターの製造も行った。
宇都宮は、明治39(1906)年、ホルスタイン乳牛を求めて再び渡米、ヘンリー博士に再会し、博士の退官記念講演で、農民の団結と高い農業技術力で荒廃したデンマークが再生したことを聞いて感銘を受け、帰国後、デンマーク農法による酪農の重要性を説き、黒澤酉蔵、佐藤善七[2]等と研究会[3]を設立した。
また、宇都宮は、多くの青年を育成し、北海道(日本)酪農の指導者として今日の酪農発展の基礎を築いた。
黒澤酉蔵は、その宇都宮牧場で、酪農を学んだ後に独立し、札幌山手(南14条西15丁目)で12,000坪の牧場を持ち30頭以上の乳牛を飼育した。
② デンマーク農業の研究と創業の頃
開拓使廃止(明治18年)後の北海道農業は、開墾後の5~10年は無肥料栽培でもある程度の収穫が得られたことから、穀類と豆類中心の無肥料、連作が行なわれた。
そのために、地力は著しく弱まり、凶作の連続により農村は極度に疲弊した。
大正10年、宇都宮は同年5月に着任した第16代北海道庁長官宮尾舜治[4]にデンマーク農法の調査とその導入について強く進言、これに深く賛同した宮尾は道庁から職員を、民間から音江村長の深沢吉平をデンマークに派遣した。
大正12年、この調査の結果をもとにデンマーク農業の講演会を開催し、それを「丁沫(デンマーク)の農業」にまとめて刊行、酪農家に深い感銘を与えた。
その結果、畜牛・輪作・甜菜の3者を基軸としたデンマーク農業の方式が広く農家に普及し、乳牛を導入して酪農に転換する農家も徐々に増えていった。
また、道庁は大正10年、牛馬百万頭増殖計画[5]の立案に着手し、この政策のもとに北海道の酪農民は奮起した。(雪印乳業史編纂委員会編『雪印乳業沿革史』(雪印乳業株式会社、1985年)11頁)
しかし、大正12年9月、関東大震災が発生、日本経済は多大な打撃を受けた。
物資窮乏と価格の暴騰に備え、政府は乳製品の輸入関税を撤廃、これにより、安価良質な煉乳や脱脂粉乳、バターが外国より大量に流入したので、煉乳会社は経営不振に陥り、原料乳の買取拒否により北海道酪農は窮地に追い込まれた。
(つづく)
[1] 帰国後、近代的牧場の町村牧場を創設・経営する。実業家・貴族院議員、政治家の町村信孝は甥、町村金五(元北海道知事)は実弟。
[2] 雪印乳業(株)の前身である酪連創立者の一人。明治7年北海道有珠郡伊達町生まれ。北海道庁を経て、山鼻村(札幌市南16条西8丁目付近)に自助園(果樹園)を開いた後、札幌市南の沢に牧場を開設。長男貢(雪印乳業(株)初代社長)の米国酪農留学の帰国後、本格的酪農経営に転化(大正13年には乳牛30余頭を飼育)した。大正14年5月、北海道製酪販売組合を宇都宮・黒澤らとともに創立し、理事に就任。昭和8年10月黒澤らと(社)北海道酪農義塾(後の酪農学園大学)を発起設立、24年、酪農学園理事長に就任した。
[3] 宇都宮、黒澤、佐藤等は、大正12年12月、「北海道畜牛研究会」を組織して積極的にデンマーク農業紹介運動を起こし、実体験を通して酪農発展の課題について建設的な研究を行い、道庁に働きかける等、民間の意思を政策に反映させた。
[4] 宮尾瞬治は、開拓当時にケプロンやダンの唱えた有畜農業の方針に沿って、アメリカの農法から1歩進めたデンマークやドイツの農業方式による蓄牛・輪作・甜菜を軸とした農業経営の合理化を目指すいわゆる「宮尾農政」を打ち出した。
[5] 大正10年、北海道の農業経営上必要な家畜の頭数を北海道産牛馬畜産組合組合連合会(略称畜連)が算定し、第2期北海道拓殖計画の畜産対策とした。その内容は、「……将来、畑作農家5町歩につき牛2頭馬1頭、水田農家3町歩につき牛馬各1頭、濃霧地帯10町歩につき牛2頭、馬1頭を農業経営上必用な家畜頭数と定めて飼養させ、20年後には畜牛50万6千頭、馬匹42万2千頭に達するようにして、酪農の発展を図ろうとする雄大な計画であった。」(雪印乳業史編纂委員会編『雪印乳業沿革史』(雪印乳業株式会社、1985年)7頁)
結局この計画は、酪農と糖業振興策を中軸とする第2期拓殖計画に入れられ、大正15年から一部実施された。(同8頁)