コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(97)
―雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑦―
経営倫理実践研究センターフェロー
岩 倉 秀 雄
前回は、協同組合の酪連が、戦時体制に組み込まれ株式会社化した経緯について述べた。
第2次世界大戦の勃発により、挙国一致の戦争体制が強化され、国策に則り、酪連は、明治製菓、極東煉乳、森永煉乳との統合に踏み切り、有限会社北海道興農公社(後に株式会社に変更、以下、公社)が発足した。
各社の道内の製乳工場をすべて抱合した公社は、製乳事業の積極的な合理化を進め、軍需用カゼイン、煉粉乳の生産に重点を置いた。
当初、酪連は解散せず、総括団体として原料乳の統制を行なっていたが、戦時体制が進むにつれ、北連と合併して、保証責任北海道信用購買販売利用組合連合会(現、ホクレン)が発足した。
戦後(昭和21年)公社は、北海道酪農協同株式会社(以下「北酪社」)と社名変更し、再出発を図ったが昭和23(1948)年2月22日、過度経済力集中排除法の指定を受けた。
今回は、北酪社の分割後の事業活動と再合併による新生雪印乳業(株)の誕生について考察する。
【雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑦:雪印乳業㈱のルーツ】
7. 北酪社の雪印乳業㈱、北海道バター(株)への分割(昭和25年)
北酪社は、昭和23年、過度経済力集中排除法の指定を受け、全道農民一丸となっての反対運動を展開したが、翌年6月分割の指令が出て、昭和25年1月20日、持株会社整理委員会は北酪社に対し再編成に関する決定指令を通知し、同月30日受諾するに至った。
北酪社は雪印乳業株式会社と北海道バター株式会社(後のクロバー乳業株式会社)に分割し、薬品、種苗、皮革、食肉事業の別会社への分離を受入れた。
雪印乳業と北海道バターの両社は、それぞれ昭和25年6月10日新発足した。
北酪社は、北見・清水・釧路・雪裡・幌呂・太田・旭川・名寄の8工場及び大阪支店をもって存続、社名を北海道バターとし、今金・遠軽の2工場はそれぞれ明治乳業、森永乳業に売却、残りの32工場および東京・名古屋・福岡の3支店を分離して第2会社を設立、社名を雪印乳業とした。
経営のトップには、北海道バターは、取締役社長三井武光、専務取締役青山永、鈴木傳、雪印乳業は、取締役社長佐藤貢、取締役副社長塩野谷平蔵、専務取締役瀬尾俊三が就任した。
8. 自由競争再出発(雪印乳業(株))(昭和25年~33年)
販売統制から一転して、自由競争に突入した乳業界の変革期に、両社は独自の道を歩んだ。
雪印乳業(株)は、まず昭和28年3月に至る3ヵ年は、経営陣の充実強化、激烈な自由競争に勝ち抜くための体制整備に努め、関連事業の肉加工・種苗・皮革・製薬部門を分割、平成25年12月6日、雪印食品工業株式会社、雪印種苗株式会社、雪印皮革株式会社、雪印薬品工業株式会社を設立した(雪印皮革と雪印薬品工業の2社は29年に事業閉鎖)。
また、岩手県下の乳製品工場設立資金確保のため、資本金を10億5千万円に増資した。
量産体制を整備して急激な原料乳増産・事業規模拡大の方針に沿い道内工場を増強すると共に、道外工場網の拡大を図った。
雪印乳業(株)の道外進出の第一歩は岩手県で、昭和28年に花巻工場など5工場を建設した。また、東京都では30年には志村工場(後に東京工場)を建設した。
伸長する府県酪農に順応し、岩手県、東京都への進出に次いで、さらに積極的な拡充を図り、昭和33年には北海道から九州にいたるまで工場網を拡大した。
昭和33年度の事業規模は、資本金15億円、工場数115、支店・営業所37ヵ所、売上高は199億円であった。
9. 体制整備、事業拡充(クロバー乳業(株))(昭和25年~33年)
北海道バターは発足時、事業分量の縮小、新商標「クロバー印」の知名度の低さ、経済情勢の激変など悪条件が蓄積し、生産・販売・資金・労務等あらゆる面に多くの問題を抱えていたが、役員の充実、業務機構の整備、工場設備の近代化によって内を固め、外にあっては牛乳の増産、販路拡大を目指しクロバー印の新商標のもとに、関西市場に不動の基盤を作った。
さらに、東北等に事業領域を拡め、昭和32年6月、社名をクロバー乳業と改め、社業拡充に努力した。
10. 雪印乳業(株)・クロバー乳業(株)の合併と新生雪印乳業(株)の誕生
雪印乳業(株)とクロバー乳業(株)の合併は、昭和33年8月22日公聴会が開かれ、28日合併が承認され、11月1日両社は合併し雪印乳業(株)となった。
新生雪印乳業(株)は、発足時の資本金12億9千万円、事業所は札幌市に本社、東京に支社を置くほか、支店・営業所35ヵ所、工場は道内63、道外35の計98ヵ所、処理場18ヵ所、集乳所196ヵ所となり、従業員数5,582名、集乳量33万トンで出発し、取締役社長は、佐藤貢、取締役副社長小野三郎・瀬尾俊三・鈴木傳であった。
11. 酪農振興法制定と急速に伸長する酪農
昭和29(1954)年6月酪農振興法の制定により、集約酪農地域として全国75地域が指定され、酪農及び肉用牛生産の近代化促進が図られた。
この結果、昭和25年から33年における酪農の状況は、酪農家戸数で2.7倍、乳用牛頭数3.2倍、生乳生産量4.2倍となった。指定された集約酪農地域のうち、雪印乳業関係は20ヵ所、クロバー乳業関係は12ヵ所であった。
こうした中、都市における牛乳、乳製品の需要は大きく伸長、原料乳は不足をきたし、各所で牛乳の争奪戦が激化した。
なお、合併後の雪印乳業(株)は、昭和34年度を起点に、他社に比べ著しく弱体であった市乳事業の拡張に全力を傾注し、特に都府県の地方都市へ進出した結果、同社の市乳生産量は昭和34年度以降めざましい増加を示した。
次回は、合併前の雪印乳業(株)で発生した「八雲工場食中毒事件」について、考察する。