◇SH2064◇コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(99)雪印乳業㈱グループの事件を組織論的に考察する⑨ 岩倉秀雄(2018/09/04)

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コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(99)

―雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑨―

経営倫理実践研究センターフェロー

岩 倉 秀 雄

 

 前回は、合併前の雪印乳業(株)で発生した、経営者が真摯に対応して逆に組織の信頼を高めたと言われた八雲工場脱脂粉乳食中毒事件について述べた。

 事件後、社長の佐藤貢は、八雲工場で行った訓示を「全社員に告ぐ」と題して印刷し全社員に配布、毎年の新人入社式でも配布した[1]

 「全社員に告ぐ」には、佐藤の組織の社会的責任に対する認識と従業員の奮起を促す想いが率直に述べられており、大企業とその子会社による品質問題が頻発している今日、経営者の事業及び危機対応に対する姿勢として業種が異なっても参考になると考え、あえて筆者による要旨を前回に掲載した。

 今回は、佐藤の経歴と創業時の酪連精神について考察する。

 

【雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑨:佐藤貢の経歴と酪連精神】

 八雲工場脱脂粉乳食中毒事件に対する佐藤貢の対応と、2000年食中毒事件発生時の経営幹部の対応(公表の遅れや社長の「寝てないんだ」発言等)は、極めて対照的である。

 それがどこから来るかは、「組織文化の変遷」という組織論上のテーマが想定されるが、これについては、後述する。

 なお、雪印乳業(株)の前身の「有限責任北海道製酪販売組合」は、煉乳会社への隷属から脱却しデンマークのように「農民の生産したものは農民自らの手で加工販売するべきだ」と主張した宇都宮仙太郎、黒澤酉蔵、佐藤善七等、酪農生産者によって、関東大震災による北海道酪農の危機を背景に、大正14年5月に設立され、その後会員が増えて保証責任北海道製酪販売組合連合会(酪連)に組織変更したことは、既述した。

 本稿では佐藤貢の経歴と酪連創業時の理念である酪連精神について述べる。

 

1. 佐藤貢の略歴

 佐藤貢は、酪連創業者の一人である佐藤善七の長男として明治31(1898)年、札幌市郊外の山鼻村に生まれた。幼いころより父の牧場を手伝いながら、大正9(1919)年北海道大学農学部農業実科を卒業後、米国オハイオ州立大学に留学し、バターやアイスクリーム等の乳製品製造学を学び、大正10年6月に卒業、バチェラー・オブサイエンス及びマスター・オブサイエンス(大正11年)の学位を授与された。

帰国後は、各方面からの誘いを断り、大正14(1924)年7月に、設立されたばかりの有限責任北海道製酪販売組合に技師として就職し、ゼロから乳製品類の製造・販売を行った。[2]

 佐藤は、昭和13(1938)年北海道製酪販売利用組合連合会専務理事、17年北海道興農公社専務理事、戦後22年北海道酪農協同(株)専務取締役、24年公職追放者辞職勧告により辞任した黒澤酉蔵の後任として同社取締役会長に就任、25年過度経済力集中排除法により、同社が北海道バター(株)と雪印乳業(株)に分割された時に、雪印乳業(株)初代社長(八雲工場脱脂粉乳食中毒事件はこの時期に発生)になり、昭和33(1958)年、再合併した新生雪印乳業(株)の初代社長に就任、その後相談役等を歴任し、平成11(1999)年9月26日に101才で亡くなった。

 雪印乳業(株)食中毒事件は、佐藤が亡くなった翌年6月に発生した。

 

2. 創業時の理念「酪連精神」

 酪連の創業時の理念である「酪連精神」は、創業時の組織文化を知る上で参考になるので、以下に紹介する。(雪印乳業株式会社編行『雪印乳業史 第一巻』(雪印乳業、1960年)277頁他)

  1.  「創業以来、いばらの道を踏み越え、嵐にたえながら、不動の礎石を築き上げた精神的根幹は、世に言う「酪連精神」である。『北海道農業のデンマーク化』を理想に掲げ、組合主義による製酪事業の完成を目指して酪連が成立されたことは言うまでもないが、事業の成否は一にかかって精神の高揚いかんにあった。理事者は、ひとり組合員である酪農家に対してばかりではなく、職員に対しても組合主義の理念を徹底させ、酪農の発達、北方文化の建設を指導精神としたのである。組合首脳部・組合員・職員が三位一体となり、協同友愛の精神に立って、同一目標に向かってこそ、高遠な理想は達成される。職員も酪農家と変わりなく精進することによって、はじめて組合事業は発展するというのが、理事者の考え方であった。(中略)したがって自然に質実剛健な気風が生れ、この組合事業が失敗に終われば、北海道の酪農は崩壊する、どんな苦難にもたえ、それを克服していこうという責任感を職員一人ひとりが抱くようになった。経営困難に陥ったとき、職員が減俸を申し出て危急を救おうとし、禁酒禁煙を励行したのも、全役職員の坊主刈り姿も、表面にあらわれた現象にすぎない。こうした気風がいつしか酪連事業遂行の思想となり、「酪連精神」と呼ばれるに至ったのであるが、今日の大をなすにいたった無形の源泉力ともいえよう。」

 筆者は、雪印乳業(株)が八雲工場脱脂粉乳食中毒事件に迅速・誠実に対応しその後の品質の雪印を築き得たのは、佐藤貢(経営トップ)が自ら創業時の困難を乗り越えてきた創業経営者で、かつ、酪連精神が組織文化の根幹に機能していたからであり、2000年の危機対応の失敗は、組織文化が変質し酪連精神が組織文化から失われたことと無関係ではないと考える。

 これは、「組織にコンプライアンスを浸透・定着させるためには、経営トップの姿勢と組織文化への浸透・定着が重要である」という筆者の主張の源泉にもなっている。



[1] 昭和60年代には配布されなくなった。

[2] 佐藤は、30ポンド能力のバターチャーンを操作し、牛乳・クリームの脂肪検定、殺菌、ワーキング(バター粒を練り合わせ、塩分を均一に分散させてなめらかなバターにする)から缶洗いまでを一人で行い、帳簿の整理、事務所への報告等、毎日夜遅くまで業務に励んだ。(雪印乳業株式会社編『雪印乳業史 第一巻』(雪印乳業、1960年)58~61頁)

 

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