◇SH2080◇コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(100)雪印乳業㈱グループの事件を組織論的に考察する⑩岩倉秀雄(2018/09/11)

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コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(100)

―雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑩―

経営倫理実践研究センターフェロー

岩 倉 秀 雄

 

 前回は、佐藤貢の経歴と創業時の理念である「酪連精神」について述べた。

 八雲工場脱脂粉乳食中毒事件に対する佐藤貢の対応と、2000年食中毒事件発生時の雪印乳業(株)の経営幹部の対応は、極めて対照的であった。

 佐藤貢は、創業時の困難を乗り越えてきた創業経営者で、当時の組織には「酪連精神」が組織文化に機能していたが2000年の食中毒事件発生時の雪印乳業(株)は、売上高1兆円超の業界No.1企業であったが、「酪連精神」は既に失われ佐藤の「全社員に告ぐ」も配布されなくなっていた。

 2000年の食中毒事件で辞任した石川社長の後任の西紘平社長は、創業者の一人で北海道酪農義塾(今日の酪農学園大学)創設者である黒澤酉蔵の「健土健民」(大地の健康を増進することが心と体の健康な国民を生む)の思想を創業の精神として掲げ経営再建を図った。

 黒澤酉蔵は、雪印乳業(株)の設立・発展に極めて重要な役割を果たしたカリスマ経営者だが、経営者の枠に収まらない農協運動のリーダー、政治家(衆議院議員)、社会企業家(酪連等の経営)、酪農学園大学創設者(教育者)、農本主義の思想家である。

 雪印乳業(株)の創業時の組織文化[1]を知るためには、黒澤酉蔵の足跡と思想を知る必要がある。

 

【雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑩:黒澤酉蔵の足跡と思想】

 黒澤の略歴は、既に本稿(92)で触れたが、筆者は、昨年、黒澤酉蔵の思想と足跡について論考を執筆[2]しており、執筆のための調査・研究を通して、雪印乳業(株)の創業と初期の組織文化の形成には、黒澤が大きな役割を果たしていると思われたので、本稿でその足跡と思想を紹介する。

 

1. 黒澤酉蔵の生い立ち

(1) 生誕から立志上京まで

 黒澤酉蔵は、1885(明治18)年3月28日、茨城県久慈郡世矢村(現常陸太田市)の小農の家に生まれた。父は元之助、母はイノで、4人兄弟の長男だった。

 黒澤家は、曽祖父の代まで相当な資産家だったが、元之助が深酒で家産を蕩尽し負債をつくったので、母は自分の代での家運復興をあきらめ子供にかけた。そのため、黒澤は、幼い頃から酒への戒めと家運復興を母に何度も聞かされ、禁酒禁煙と身を粉にして働くことを信念として身につけた。

 黒澤は世矢村尋常小学校に4年間学び、11歳で卒業した。その後、農業の傍ら、隣家の漢学者礒野壇から「日本外史」、「十八史略」等の漢学を学び、さらに近村の涯水義塾で、漢学の他、数学、地理、歴史、物理、化学等も学んだ。

 しかし、2年後、この塾が経営難のために閉熟したので、さらに学ぶために、数え15歳で同郷の先輩を頼って上京し、神田数学院小使兼給仕として住み込んだ。その後、同院の教師の書生になり、神田の正則英語学校に通学し、1900(明治33)年、海軍兵学校を受験したが、身長不足で不合格となった。

(2) 田中正造との出会い

 1901(明治34)年12月10日、田中正造が明治天皇に直訴した記事が日本中の新聞に載った。新聞には、鉱毒事件の内容と田中が何のために直訴したかが詳しく書かれており、黒澤はこの記事に感銘を受け、新橋駅近くの田中の常宿「越中屋」を訪ねた。黒澤酉蔵数え年17歳の時である。黒澤は、田中から足尾銅山鉱毒事件の話を聞き、田中に勧められ、内村鑑三が団長を勤める学生視察団に加わり現地を視察した。

 その後、黒澤は、田中の人柄と「国家安寧の根本を、国土を愛することに置くべき」という思想に共鳴(後の黒澤の「健土健民」思想につながる)し、田中の書生となり、4年間、鉱毒事件の渦中に身を投じた。

 黒澤は義憤に燃えて学生救済会に加わり、農村の中堅青年と「青年行動隊」を設立して決起を促そうと村々を廻ったが、過激思想の危険人物として前橋監獄に投獄された。未決拘留6ヵ月という憂き目に会ったが、1審、2審とも無罪の判決を受け出獄した。投獄されていた時に、弁護士の今村力三郎と婦人団体の代表として鉱毒事件の救済に当たっていた女流教育家潮田千勢子の知己を得た。潮田は、黒澤に聖書を差し入れ、 水戸学を思想の根源にしていた黒澤がクリスチャンになる端緒を作った。

(3) 北海道移住

 黒澤は、田中の勧めと支援を受けて勉学に復帰し、京北中学に入学したが、極貧の身を削って鉱毒被害窮民を救おうとしている田中の支援を受けることに耐えかねている時、最愛の母イノが急逝した。

 黒澤は、母の死を契機に熟考し、残された家族の養育、家運再興、自力で生活できるようになりたいとの思いで、1905(明治38)年、北海道で事業を興すことを決意し渡道した。

 北海道では、北海タイムス新聞社役員の阿部宇之八(後の札幌区長)の紹介で、宇都宮仙太郎の経営する牧場に牧夫見習いとして就職した。後に黒澤は、宇都宮の説く酪農三得(役人に頭を下げないで良い、ウソをつかないで良い、牛乳が飲めて国民の健康を増進する)にインスピレーションに打たれたと言っている。

 黒澤は、その後、牛乳販売の権利を取得して店を開いたが、徴兵され1906(明治39)年12月に月寒歩兵25連帯に入営した。

 その後、黒澤はキリスト教の洗礼を受け、札幌教会で知り合い生涯の友となった佐藤善七の紹介で、山鼻に土地と家、牛を借り、1909(明治42)年4月、搾乳と牛乳の販売を始めた。

 酪農家として自立した黒澤は、結婚し、規模を拡大、1923(大正12)年には、札幌の山手(南14条西15丁目)に12,000坪の土地を買い求め、サイロや集中暖房付きの住宅を建て、30頭以上の牛を飼う規模に成長していた。

(つづく)



[1] 筆者は、前回紹介した「酪連精神」も黒澤の思想が強く影響していると考える。

[2] 岩倉秀雄「日本酪農の先覚者・黒澤酉蔵の『協同社会主義』と報徳経営」田中宏司ほか編著『二宮尊徳に学ぶ報徳の経営』(同友館、2017)204~216頁

 

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