◇SH2341◇証明責任規範を導く制定法に関する一考察――立法論を含めて(4) 永島賢也(2019/02/15)

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証明責任規範を導く制定法に関する一考察
―立法論を含めて―

第4回

 

 

7 「法とは何か」という観点からの考察

  1. (6) ① では、そもそも法の欠缺とはどのような事態を指すのか。法の欠缺の捉え方ないし法の欠缺への対処の仕方から法規不適用の原則を法と捉える糸口が掴めないかが問題になる。
  2.    ② 法の欠缺とは、事件が裁判所に提起されたのに、適用すべき法規範が既存の法源、とくに制定法の中に見出せない場合を指す。法解釈学上の専門用語である[1]
  3.    ③ たとえば「法」という言葉の意味を決め、裁判官や弁護士等法曹関係者では皆「法」という言葉を同じ意味で使用しているとすれば[2]、いわば、その裏返し[3]として、法の欠缺という事態を説明できるであろう。たとえば、法とは制定法のことを指すとその意味が決められたとすればどうであろうか。その場合、国会において何年何月何日に可決されたという事実が確認[4]できれば、それが法であると言える。こうして、たとえば議会の議事録を探索することによって、法と法でないものが区別できることになる。
  4.    ④ もし、法を制定法に限れば法曹関係者において法の意味は一致するであろう。その反面として法ではないものも明確化される。しかし、そうなると、制定法は網羅的にあらゆる場面を規定することは不可能であるから、どうしても適用すべき法が見つからないという事態、すなわち法の欠缺が不可避的に生じることになるであろう。法を制定法に限定する場合、法の欠缺への対処の仕方も決めておかなければならない。法の欠缺に対して、裁判所はどのように対処すべきなのであろうか。
     
  5. (7) ① 裁判所では具体的事実に法を適用して紛争の解決を図っている。すなわち、法(規範)を大前提とし、認定された事実を小前提として、事実を法の要件にあてはめる[5]という法的三段論法によって結論(判決)を導き出している。法の欠缺、すなわち、ここでは制定法の欠缺が認められる場合、この三段論法の大前提にあたる法(規範)という論拠の裏付けに欠けることになる。そうなると、法規範(の存在ないし妥当性)を正当化できないことになりそうである。
  6.    ② このような場合、裁判所は法による裁判をあきらめて当事者間の紛争解決の方を優先すべきなのであろうか[6]。それとも、端的に司法による裁量的な法創造を行い、これを事実に適用してやはり法的三段論法の形で判決をすべきなのであろうか。
  7.    ③ 無権代理人の責任を追及されている被告が本人の追認を得たという事実を主張したが、それが証明されたとは言えず、逆に、そのような追認を得なかったとも言い切れない、そのような状況に陥ったとき、民法117条は無権代理人の責任が発生するとも発生しないとも定めておらず[7]、一般的(包括的)な証明責任の規定もないので、裁判所は結論を出すのが不可能な状態に追い込まれる。ここで、裁判所が、当事者間の紛争解決を優先して、とにかく何らかの結論を出す[8]のは、法による裁判という日本国憲法の要求する法秩序に反してしまう[9]ことにもなり得るであろう。
  8.    ④ そこで、裁判所は、実体法はその法律効果を法律要件に該当する事実の真偽不明(証明されない)の場合には適用されないという法規不適用の原則を創造し、これを適用して被告の責任を肯定するということを認めざるを得ないように思われる。しかしながら、司法裁判所が法を創造することを認めることは、やはり日本国憲法の要求する秩序(立法・司法・行政の三権分立構造)に反するおそれがあるであろう。また、法規不適用の原則を定める制定法はないので、結局、法でないものを適用して紛争を解決しているのではないかという疑いを払拭できないであろう。
  9.    ⑤ やはり、法とは何かという問題につき、法を制定法に限るとすると不都合な結果が生じてしまうようである。それが法なのか、法でないのかの判定のテスト[10]は、もう少し緩い規準を採用しなければならない。
     
  10. (8) ① 判定のテストを緩めるとはどういうことか。法と法でないものとの区別に、制定法かそうでないかという基準以外に(制定法も含まれる他の)基準を求めるということである。たとえば、法と法でないものとの区別に、議会によって可決されたという社会的な事実以外にも、たとえば、その社会の構成員がそういうものとして従っている慣行(慣例)[11]があれば、それも含めるということはできるであろうか。これを肯定すると、社会のメンバーの多くが受け容れている原理・原則があれば、これも判定のテストをパスして法(規範)として取り込まれるかもしれない。学説であってもいわば通説として広く受容されている(という社会的事実がある)のであれば、それを法として適用することが可能になり得る。そうだとすれば、法規不適用の原則(やこれを前提とする法律要件分類説)も法的三段論法の大前提を構成する原理として採用され、具体的事実への適用が許される余地が生まれてくる。
  11.    ② しかしながら、ある学説が通説として受け容れられているかどうかについては、大いに議論になり得るであろう。もとより、少数説やひとり説などを法規範として正当化することは困難と思われるが、他方、通説か、多数説か、有力説かなどの区別も微妙[12]であるか、あるいはほとんど不可能な判断となるであろう[13]
  12.    ③ また、議会による議決という明確な規準を失うので、法という用語の意味ないし法の概念について裁判官その他の法曹関係者の間にも不一致[14]が生じるおそれがある。判定のテストの規準を緩めると何が法であるかについて共通の認識が得られないおそれが出てくる。
  13.    ④ しかし、そもそも、法的な判断、法的な論争、法的な思考がなされる、その前提となる条件として、まず、何が法なのかという点について共通の認識があることが必要なのであろうか。法という意味を定義しなくとも、法的議論は可能なのかどうかが問題になる。
     
  14. (9) ① 法と法でないものの区別について必ずしも規準が一致していない者の間でも法的議論は可能なのであろうか。
  15.    ② おそらく可能である。なぜなら、我々は法に対して解釈的態度をとるからである。法の解釈には、それが法なのかどうかも含みうる。法とは何か、法とは制定法に限られるのか、それともそれ以上のものなのかも法の解釈としてなされうる。上述した事情判決の法理を適用した判決は、法の解釈としてなされながらも現に在る法は何なのか(事情判決の法理なるものは法なのか)についても語っている。
  16.    ③ たとえば、「書籍」という言葉について考えてみよう。ある図書館に書籍は何冊あるか、という問いに対して、通常、その結論は一致するであろう。しかし、パンフレットのような1枚紙を二つ折りしたものは書籍なのか、という問題が起きるかもしれない。その場合、人によって書籍の数は一致しないことになりそうである。それでも、最終的に、書籍とは何か、その意味に合意が成立すれば、書籍の冊数という結論は一致することになるであろう。
  17.    ④ 問題は、法も、この「書籍」と同じように定義を共有して結論を一致させようとする企てなのか、という点にある。おそらくそうではないと思われる。
  18.    ⑤ たとえば、書籍の出版を禁止する法律が制定されたとする[15]。すると、すぐに出版禁止の対象となる「書籍」とは何かについて解釈がなされ論争が起きるだろう。そのほか、出版とは何か、禁止とは何か、についても同様に議論となるであろう。人は、それが法であると知ると、とたんに解釈的な態度をとるのである。
  19.    ⑥ ここでは同じ「書籍」という言葉が使用されているが、上述の図書館の冊数計上の場面とは明らかに異なる態度で接していることがわかる。図書館の例では「書籍」の意味を一致させることによって解決できそうな問題であるが、出版禁止の例では「書籍」の意味を一致させること自体に意義を見出すことができない。たとえ外観的には「書籍」の意味について論争しているように見えたとしても、実際は国家の権力をいかにコントロールするかという観点(目的)から解釈が企てられているからである[16]。こうして、法とは解釈であって、解釈行為によって媒介されることなしに法の意味は知られ得ないと考えられるのである。


[1] 平野仁彦ほか『法哲学』(有斐閣、2010年)228頁。

[2] たとえば、法律家が、職務上、日常的に「法」とか、あるいは「法規範」とか呼んでいるものが、その文脈上、あるいは、慣行上、どのような意味で使われているか、という視点で考察することで、「法」という用語が意味する(法)概念を明らかにすることができるのではないか、ということである。

[3] 「法とは何か」という問いの裏返しとして、法ではないものが言語の使い方(意味の確定)によって明らかになるということになる。

[4] 平成◯年法律第○号のように確認できれば

[5] 包摂ではなく例化と考える。永島賢也『争点整理と要件事実』(青林書院、2017年)44頁。

[6] それが法に基づくものかどうかは別として、とにかく目の前の紛争を解決するということに専念すべきなのか。

[7] ちなみに、被告が自己の代理権の存在を主張したときは、それが真偽不明になったとしても、民法117条の適用により、無権代理人の責任を負うことになる。この場合、個別の証明責任規範が適用されるケースにあたる。

[8] いわば裸の裁判、ないし、裸の紛争解決。

[9] 裁判官の権限行使の正統性が危うくなる。

[10] 判定テストにパスしたものの総体が法規範ということになるであろう。

[11] 慣行や慣例も社会的事実を構成するものである。

[12] 価値判断と切り離せないであろう。

[13] 通説を作る人と言われるような研究者がいる社会では可能であるかもしれないが、現在の我が国においては、それは無理であろう。

[14] それが法(規範)なのかどうかについて、見解の相違が生じてしまうおそれが大きくなる。

[15] ここでは違憲かどうかは問題にしない。

[16] たとえば、放送法64条の「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」という規定の「受信設備を設置した」という用語の意味についても、それが携帯電話を携帯することを含むかが争いになるとすれば、法についての解釈的態度が表れている例と言えるであろう。

 

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