◇SH2677◇コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(179)コンプライアンス経営のまとめ⑫ 岩倉秀雄(2019/07/19)

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コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(179)

―コンプライアンス経営のまとめ⑫―

経営倫理実践研究センターフェロー

岩 倉 秀 雄

 

 前回は、全酪連の組織文化改革運動を総括し改善点をまとめた。

 「チャレンジ『新生・全酪』運動」は、①事件を反省しあるべき組織文化を構築する、②明確な理念と行動規範を作成し、専門農協としてのスタンスを確立する、③組織理念と行動規範を浸透させ、今後組織が発展するための礎とする、ことを目指した。

 運動は、「信頼回復」をテーマとする第1ステージと、「21世紀の全酪連の姿を考える」第2ステージに分け、運動の性格を、「若手管理職グループによって発案された草の根的な運動を組織として承認し、生産者代表の会長が運動のトップに立つ」とした。

 第1ステージは、燃えるような熱い職場討議が行われ、平成9年3月、行動宣言を採択して終了したが、第2ステージ、「組織の未来戦略を作るために公式活動に昇格させ、専門性の高いコア・グループが事務局メンバーになって牽引するべき」との筆者の提案が受け入れられず、運動事務局は総務部門に引き継がれたが、成員のコミットメントが得られず消滅した。

 運動の成果は、①組織の自浄作用が評価され、信頼回復・取引再開に役立った、②職員がやればできるという手ごたえを得た、③組織の結束力が維持された、④全酪連の長所・短所、役割、在り方等を一人ひとりが再確認できた、⑤地域との交流等への参加を通して、組織が社会的存在であることを自覚した等で、反省点は、①階層と部門により運動の理解に濃淡があった、②ゼネラルマネージャーや会長以外の役員の巻き込みが弱かった、③事務局が疲弊した、④革新のエネルギーにつなぐ仕掛けが不足した等、であった。

 組織論的に見た運動の改善点は、第1ステージについては、①全階層を巻き込んだ短期・強力な取組み、②密度の濃い情報交換、③抽象的でない職場討議テーマの選定、第2ステージでは、①第1ステージ終了後、時間をおかずに取り組む、②具体性のあるシンボリックなテーマを設定する、③草の根運動を公式のプロジェクトに昇格させ、専門性の高いコアメンバーを運動に専念させる等、であった。

 また、運動を再開する場合には、創造的ミドルによる進化論的革新ではなく、戦略型トップによる革新、②強力なビジョンの構築、③経営トップ層の強力なコミットメント、④高い専門性を持つコア・グループの設定、⑤変革プロセスの管理等、が重要になると思われた。

 今回から、雪印乳業㈱の食中毒事件と牛肉偽装事件についてまとめる。

 

【コンプライアンス経営のまとめ⑫:食中毒事件と牛肉偽装事件①】

 雪印乳業(株)は、北海道の酪農生産者が創業した酪農協同組合をルーツとする企業であり、北海道開拓に深くかかわり我が国酪農の発展とともに成長した。

 2000年6月発生の雪印乳業食中毒事件、2002年1月発覚の雪印食品牛肉偽装事件により解体的出直しを迫られるまで、長く業界No.1だった。

 筆者は、雪印メグミルク(株)社史編纂室で『日本ミルクコミュニティ史』および雪印乳業(株)最後の社史である『雪印乳業史 第7巻』(どちらも第21回優秀社史賞・特別賞を受賞)を共同執筆し、雪印乳業(株)の歴史と2つの事件について研究するとともに、雪印乳業(株)の創業者である黒澤酉蔵の思想と活動について、「日本酪農の先覚者・黒澤酉蔵の『協同社会主義』と報徳経営」田中宏司ほか編著『二宮尊徳に学ぶ「報徳」の経営』(同友館、2017年)を執筆した。

 雪印乳業(株)グループの事件は、広く社会にコンプライアンスの重要性を認識させた事件であるが、今日でも有名大企業(グループ)によるコンプライアンス違反が頻発していることから、同グループの事件を振り返り、コンプライアンス経営には何が必要かを考えることは重要である。

 

1. 雪印乳業の歴史

 雪印乳業(株)は、大正14(1925)年設立の北海道製酪販売組合に始まるが、その母体は、更に遡り、明治30(1897)年頃に設立された宇都宮仙太郎を中心とする札幌の市乳(飲用牛乳)業者による、ビール会社の副産物であるビール粕を共同で購入・分配する「札幌牛乳搾取業組合」(通称4日会)である。

 当時、酪農家の生産物である生乳が煉乳会社に買い叩かれるので、大正6(1917)年、他の酪農家とともに4日会を「札幌酪農組合」に改称し、適正乳価の協定と飼料の共同購入を行なった。[1]

(1) 北海道酪農のはじまりと雪印乳業(株)創業者等の関係 

 明治元年、蝦夷地開拓法が公布され、その翌年、この地は北海道と命名され、開拓使が置かれた。

 明治3年、第3代開拓使次官(後に長官)黒田清隆のもと、初めて北海道農業の基本方針が立てられ、翌年、米国から開拓使顧問ホーレス・ケプロンを招聘、ケプロンは北海道のような寒冷地には稲作は不適当であるとして、畑作有畜農業を提唱した。

 明治8年、ケプロンの推薦により来日したエドウィン・ダンは、翌年、真駒内大規模な牧場を設けて有畜農業普及の基礎を築いた。

 宇都宮仙太郎は、この真駒内種畜場で2年間実習した後、明治20(1887)年に渡米し、3年間ウィスコンシン農業試験場と大学で、世界的に著名なヘンリー、バプコック両博士に師事し、帰国後、札幌郡白石村で米国式の本格的な酪農を開始するとともに、牛乳の販売とバターの製造を行った。

 宇都宮は、明治39(1906)年、再び渡米、ヘンリー博士に再会し、博士の退官記念講演で、農民の団結と高い農業技術力で荒廃したデンマークが再生したことを聞いて感銘を受け、帰国後、デンマーク農法による酪農の重要性を説き、黒澤酉蔵、佐藤善七(雪印乳業(株)初代社長佐藤貢の父)等とデンマーク農業研究会を設立した。

 黒澤酉蔵(雪印乳業(株)創業者の一人、「健土健民」を唱え、酪農学園大学も創設)は、その宇都宮牧場で、酪農を学んだ後に独立し、札幌山手で大規模牧場を持ち30頭以上の乳牛を飼育した。

 大正12年9月、関東大震災が発生、日本経済は多大な打撃を受け、政府は乳製品の輸入関税を撤廃したため、安価良質な乳製品が外国より大量に流入し、煉乳会社は経営不振に陥り原料乳の買取拒否をしたので、北海道酪農は窮地に追い込まれた。

つづく



[1] 組合長は宇都宮仙太郎、専務理事は黒澤酉蔵で、組合員は乳牛飼育者に限られるという“牛屋は牛屋で”を実現した酪農の公認組合の第1陣であった。

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