法のかたち-所有と不法行為
法学博士 (東北大学)
平 井 進
この随想のタイトルの「法のかたち」は、司馬遼太郎『この国のかたち』(文藝春秋, 1986-1996)にヒントを得たものであり、特に人々の暮し・生活と直接的になじみ深い私法規範である所有と不法行為の法をとり上げている。そこにおける問題意識は、時代を越え、地域を越えた社会に存在しうる普遍的な「法のかたち」があるとすれば、それは何かということである。我々がヨーロッパ起源の法概念を扱っている以上、この問題は避けて通ることができない。
この連載でとり上げようとすることがらは、大まかには次のようなところである。
- ⑴ 権利に関して、その地位・作用(請求権)・結果・目的という構造の分析を行い、現行の所有権の規定から請求権が演繹できるかどうかを検討する。
- ⑵ 所有権によって認められる請求権のあり方について考察し、不法行為における規範との関係を検討する。
- ⑶ ヨーロッパ中世以来の伝統であった「私のもの」の状態を維持し回復するという法理、およびカントの実体・因果性・相互作用による法理論について、私法の一般理論の可能性を検討する。
- ⑷ 17世紀イギリスにおいて、「私のもの」を保護することが人間の基本的な権利として認められるに至った歴史について検討する。
以上のようなテーマについて随想を書いていくつもりであるが、先ずは、このような試みについて機会を与えていただいたことに感謝し、できるだけ読みやすくするように心掛けていきたい。
第一話 権利を観念化するとはどのようなことか
1 法的概念とは抽象化すること
法において抽象化された言葉を用いることは、当然のことであると思われるであろう。
例えば、民法第709条「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」という文章において、それぞれの用語(権利・利益・侵害・損害・責任など)は辞書的な意味で抽象化されている。
それでは、次のような例はどうであろうか。
中世ヨーロッパにおいて土地に関するドミニウム(dominium、所有に関する法的権能)は、その地上と地下に無限に及ぶと考えられていた[1]。(一般にドミニウムは「所有権」と訳されているが、後述の理由により採らない。)その当時、大地が球形で回転していることは知られていなかったが、今日から見ると、その理解によれば、ドミニウムは地球の反対側からまったく同じ権利が存在し、かつそれが及ぶ範囲が地球の回転によって宇宙空間を常に移動するということになる。
この「無限」という概念は、上記の辞書的な意味で必要な抽象性ではなく、土地の権利を何らか「絶対的」なものとして見ようとする思考によって観念化されたものである。
無限ではないが、次の例はどうであろうか。
1494年にローマ教会が承認したトルデシリャス(Tordesillas)条約は、スペインとポルトガルがヨーロッパ以外の地球全体を二分して支配することを定めた。この観念性も、領域の支配権を「絶対的」なものとして見るという思考によっている。このような観念的な支配概念がなければ、ヨーロッパがヨーロッパ以外の地域にその支配を拡大していくことを法的に正当化しようとすることはできなかったであろう。
ここで「観念化された権利」ということが何を意味しているのか、ある程度ご理解いただけたかと思う。基本的に、法においてある概念から演繹的な操作を行う場合、その概念は抽象化されているが、それが「辞書的に必要な抽象化」の範囲を越えて、先験的(すなわち恣意的)になされていれば、そのことが問題となる。
[1] 参照、原田慶吉『日本民法典の史的素描』(創文社、1954)104頁。Muzio Pampaloni, Archivio Giuridico, XLVIII, 1892, p. 34を引用。註釈学派の時代(11-13世紀)のものとされる。