法のかたち-所有と不法行為
第一話 権利を観念化するとはどのようなことか
法学博士 (東北大学)
平 井 進
2 商業は観念的な権利によって発達する
人々の間で行われていた取引についてみると、古代には各人が所持する物を物理的に交換していたので、そこに権利という概念は必要としなかった。しかし、その交換がより高度な取引(商業)に移行するにあたって、観念的な権利概念が必要となってくる。
ここで次のような例を考えてみよう。中世において、ヴェネチアの商人がアレクサンドリアに船を出して、持参してきた金塊によって現地で香料を購入するとする。この取引は、現物があるところで物理的に行われている。彼が船でヴェネチアに商品を運ぶことにはリスク(海難・海賊等)があるので、その利益はそのリスクに応じている。そこで、危険を辞さない商人たちは、無事に帰港した時には大きな利益を上げるのである。
それでは次に、その決済を簡略化することを考えてみる。ヴェネチアの商人がアレクサンドリアでその地の商人と取引をするにあたり、ヴェネチアの商人がその地にある同じ価値のガラス製品と交換することを約束して、両者がその決済を相殺することにする。この取引は、両者がその商品の引渡しを約束(契約)することによって、現物の受渡しに立会わなくとも可能である(例えば、両者がシチリアにあってもよい)。このような取引の利点は、両者が合意すれば、それぞれの商品がどこにあっても、需給が変動する中で最も良いと考えられる時(商機)に取引を行うことができ、またそれを商機等によって(航海中であっても)例えばアムステルダムの商人に転売することができることである。
このような取引では、取引当事者は購入した商品を実際には占有していないが、相手に対して商品の引渡しを請求する「観念的な権利」が生まれる。このような取引は、商品の引渡しを要さずに取引が認められる都市と洋上における法規範(慣行)があってはじめて可能となるのであり、そのような領域では事実上、「権利を取引する」ことになる。そのような観念的な権利を認める法規範があるところは、従来の土地領有制の上に立つ封建領主が支配していない新たなタイプの海港都市であった。
上記のような相殺では、一方(買方)が金塊を引渡すとして、他方(売方)がその金塊を受取ることを請求できる証書、すなわち手形を発行することが考えられる。この証書の機能は、基本的に「Aは証書をもつBに金塊(金銭)を渡す(支払う)(あるいはAの代わりに指定する者が渡す(支払う)ことを保証する)」ということである。
ここでは、Aは商品を買った者、Bは商品を売った者を想定する。さて、ここで第三者CがBに所定の金を渡すことにより、Bが証書にCが金を受取ることを指定(裏書)して、その証書をCに譲渡し、Cはその証書をもつことによってAに対してBと同様の債権者としての地位をもつことができるとする。このような機能が認められれば、Cが同様にしてその証書をDに譲渡し、それが離れた都市の間でも流通しうることになる。
このように、その証書の信用性を保証する制度があれば、当初の当事者と無関係な者が新たな債権債務関係を作り出し、新たにこれを「証券」として流通させることにより、商業活動は飛躍的に発展する。[1]これらがヨーロッパ中世末期から始まった商業革命である。
このような証券の機能をさらに一般化し、受取人を指定せずに譲渡できるようにすると、いわゆる紙幣となる。この紙幣が金との交換(兌換)を保証せずに信用性をもつとすると、その観念性はきわめて高くなる。このように、今日の我々の経済社会は高度に観念化された請求権(権利)によって成立っている。
なお、世界で最初の紙幣は中国の北宋(11世紀頃)の時代に流通していたとされ、上記の観念性は、洋の東西を問わず発達していたと見られる。宋の後に登場したのがモンゴル(元)であり、その国が太平洋から黒海に及ぶ大通商圏を築くことができた大きな要因として、紙幣を用いた遠隔地交易、すなわちその一定の経済合理性による統治があったと思われる(ちなみに、モンゴルでの紙幣の使用には、ヴェネチア商人であったマルコ・ポーロも驚いている[2])。
さて、北イタリア(ヴェネチア、ジェノヴァ等)やオランダ(アントウェルペン、アムステルダム等)のような海港都市では、経済的な富は圧倒的に貿易によってもたらされ、都市は、海上貿易を確保するための海軍力をもつ。それまで東地中海文明に対して文化的にも経済的にも劣後していたヨーロッパが、本格的に東地中海域に進出するようになるのは、13世紀初に十字軍がヴェネチア海軍によってビザンティン帝国を滅亡させた時期からである。また、ヴェネチアと共に海軍力による商社と銀行の機能を持っていた組織の一つにテンプル騎士団があり、例えばパリから出征する騎士はその金を騎士団に預けてそれをエルサレムで引き出し、また逆にエルサレムで獲得した財宝を金にして郷里の家に送金することができた。[3]
上記の商業活動において発展した法は、もともと古代のフェニキア・ギリシャにおける海上交易によって東地中海で発達していたものである。[4]商人層が構成していたヨーロッパの海港都市では、その法規範はその都市の法制に組込まれる。当時のヨーロッパの大きな富を形成していたこの規範は、また契約の観念性などを含めて、一般的な私法にも入っていくことになる。
[1] ここで述べていることの一般的な解説として、次を参照。R. de Roover, Money, Banking and Credit in Medieval Bruges, Cambridge, Mass., 1948. Idem, L’Evolution de la Letter de Change, XIVe-XVIIIe Siecles, Paris, 1953.
[2] 参照、マルコ・ポーロ、ルスティケッロ・ダ・ピーサ(高田秀樹訳)『世界の記 「東方見聞録」対校訳』(名古屋大学出版会, 2013)§96, 227-230頁。
[3] 例えば1249年に十字軍に参加したフランス国王ルイ9世は、騎士団からキプロス島で金貨を借入れ、フランスでの収入からそれを弁済していた。参照、山瀬善一「中世の国際金融とテンプル騎士団」神戸大学経済学研究年報, 8(1961)95-100頁。
[4] Cf. C.M.Reed, Maritime Traders in the Ancient Greek World, 2003; Eliyahu Ashtor, Levant Trade in the Middle Age, 1984. Edward E. Cohen, Ancient Athenian Maritime Courts, 1973. 古代ギリシャの海上交易について、日本語では次を参照。伊藤貞夫「古典期アテネの海上交易」『古典期のポリス社会』(岩波書店, 1981)。前沢伸行「紀元前5・4世紀のアテナイにおける海上貿易とἔκδοσις」西洋古典学研究25(1977)、同「紀元前4世紀のアテナイの海上貿易」弓削達・伊藤貞夫編『古典古代の社会と国家』(東京大学出版会, 1977)。