法のかたち-所有と不法行為
第七話 イギリスの土地利用関係と地代
法学博士 (東北大学)
平 井 進
2 土地の排他権と地代
いかに必要なものであっても、空気を得ることに人が代金を支払うことがないのは、それを得ることに制約がないからである。土地については、それが無限に開けていないところでは、所有の制が発生ずる。
アダム・スミスは、『諸国民の富』において、土地が私的に所有されるようになると、地主は自分が種を蒔かなかったのに収穫を得ようとし、自然による成果に対してすら地代(rent)を求めると述べている。[1]
人が土地を借りて農業をしようとするときに求めているのは、土地自体の利用価値であるが、それを越えて借手が差し支えないと思う額まで地代が上がるのは、地主が賃貸を拒否できる排他的権限をもっていることによる。これは、第六話の領主の諾否の権限と対応している。資本家の利潤と労働者の賃金はそれぞれの働きによるものであるが、地主の地代は実体的な価値に対するものではなく、そのような価値にアクセスすることを拒否できる権限による。[2]
リカードは、地代について、「土壌の本源的で不滅な力(the original and indestructible powers of the soil)の使用」[3]に関するものであるとするが、農業が利用するのは、土壌以外に太陽光、雨水、地味を肥やす植物・バクテリア等の自然条件のすべてである。一方、土地の所有権の対象は、本質的にそれらのエネルギー・物質・生物等を捨象した所定の位置にある空間(土地図面によって示される)である。それでは、空間以外の実体的な寄与から地代を得させる土地の排他権とは何であろうか。
上記の自らは利用しないが、その土地を他者が利用することを拒否しうる権限は、(既得)権益を守るために定められた伝統的な法制による。ここに、所有権の法作用の重要な側面があり、その社会的な意義は、ロックのいう(労働による)自然法的な考え方によっては正当化されていない。[4]
このような意味で、イギリス法が、所定空間の中で上記の自然条件を用いて独立した価値を生み出す者の仕事を相応に保護する(地主が不当に権益を主張することを制限する)法関係をとってきたことは妥当であった。
ちなみに、第四話で述べたように、イギリスの国土は今日でも国王の「所有」であって、国民はその土地を授封されて占有するという形式をとる(1925年財産法)。しかし、この「所有」権能は観念的なタイトルであって、中世以来、封主としての国王は国民の利用に干渉しておらず[5]、国民は実質的に土地を所有できている。
[1] Cf. Adam Smith, An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, 5th ed., 1789, Book 1, Ch.6, p. 51, Edwin Cannan, ed., 1904. 初版は1776年。
[2] マルクスは、所有権者が利用を拒否できる権限(障壁)によって借手から移転する利潤を「絶対地代」と呼ぶ。参照、カール・マルクス『資本論』第3巻第2分冊(大月書店, 1968)第3巻第6編第45章970, 972, 978, 990頁。また、地代を実体価値をもたない「虚偽の社会的価値」(falscher sozialer Wert)とも呼ぶ。同第39章852頁。
[3] David Ricardo, On the Principles of Political Economy and Taxation, 1817, Ch. 2, p. 49, The Works and Correspondence of David Ricardo, ed., Piero Sraffa, Vol. 1, 1951.
[4] なお、日本において「権利の濫用」という用語が初めて用いられたのは宇奈月温泉の事例であるが(大審院昭和10年10月5日判決民集14巻1965頁)、そこにおける土地の所有権の行使はこのようなものである。
[5] 1066年のノルマン征服以後、封臣が死亡したときにその封土は封主のものに戻り、改めて(その相続人に)授封されていたが、次第に自動的に相続される権利のようになり、1290年の不動産権譲渡法(Quia Emptores)により土地の譲渡における再授封は廃止された。参照、ニール・G・ジョーンズ「単純封土権の成立」立教法学, 88 (2013) 278頁。このことは、土地を第三者に譲渡する可能性に途を開くことになる。