企業法務への道(1)
―拙稿の背景に触れつつ―
日本毛織株式会社
取締役 丹 羽 繁 夫
《はじめに》
イタリア・ルネサンスの文化・歴史の叙述で知られる歴史家ヤーコブ・ブルクハルトは、1893年75歳でバーゼル大学歴史学教授を辞したときに、「自分の一生から、知友の心にとどめておいてもらいたい最小限のデータを、歴史家の心をもって選択し」[1]、自伝を執筆した。「NBL」誌石川編集長より「商事法務ポータル」への執筆を奨められたときに私の胸中に去来したのは、ブルクハルトに倣い、これまでに主として同誌に執筆してきた幾多の拙稿の背景に触れつつ、執筆当時の考え方を再確認し、今日的意義を提示することにより、少しでも後進の方々の参考になれば、との思いであった。
《丸山眞男論文「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」との出会い》
私は、1967年4月に京都大学法学部に入学し、1971年3月に卒業した。沖縄返還問題や70年安保闘争により、大学の内外には入学当時から既にざわめきがあった。私自身の当時の関心は、1967年秋の英国通貨ポンドの危機や、1968年5月の旧ソ連軍侵攻による短い「プラハの春」終焉とパリ・カルチェラタンでの学生占拠等に占められていた。京都大学でも、1969年1月に全学が封鎖されたが、封鎖自体は1969年4月以降の開講にはほぼ支障のない程度に収束されていた。封鎖されていた4ヵ月程の間、私は、本部キャンパス内の図書館に通い、時に法学部内の全共闘系の集会に参加する日々であった。
かつて「戦後の進歩的知識人」の代表として多大の評価と尊敬を集めてきた丸山眞男教授が全共闘系の学生により「既成秩序の知識人」として当時激しい批判にさらされたことは、私には、大きな驚きであった。その代表例として、当時東京大学全学共闘会議議長をされていた山本義隆氏による下記の批判がある。
- 「日本の天皇制ファシズムに鋭い批判をあびせてやまない丸山教授は、それを支えた権力の頂点の『無責任体制』と、底辺の『部落共同体』の両極に酷似した構造を持つ東大教授会が、帝国主義国家機構の中に包摂されつつ『大学の自治』の擬制をもつのに極めて有効であったことには全く関心を示さない。『涙の折檻・愛の鞭』と当局の主観に反映される『教育的処分』こそが大学共同体の幻想を守るのに実に巧妙なしきたりの集約的表現であることに対して彼は発言しなかった。」(山本義隆「東京大学――その無責任の底に流れるもの」現代の眼10巻6号(1969年6月号)所収)
しかしながら、戦前から築きあげられてきた彼の思想そのものは、彼自身の毀誉褒貶は別としても、決して簡単に捨象されるべきものではないとの思いから、彼が東京帝国大学法学部助手論文として執筆し、荻生徂徠及び本居宣長の思想に「近代意識」の萌芽とその発展を見出した論文「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」[2]を図書館で熱読した。
この論文を読む契機となったのは、今では正確に思い出すことができないが、60年安保闘争の最中東京都立大学教授を辞された竹内好氏の「思想の価値」を巡る論文ではなかったであろうか。同氏は、日米安保条約改定前年の1959年に『近代日本思想史講座』第7巻(筑摩書房、1959年11月)の一部として執筆された論文「近代の超克」の中で、
- 「『近代の超克』[3]は、事件としては過ぎ去っている。しかし思想としては過ぎ去っていない。・・・日本の近代化とか、近代日本の世界史的位置とか、ともかくわれわれ日本人が将来へ向かって生きていくための目標づくりに欠くことのできない現状認識の重要な項目が、『近代の超克』を理性的に処理していないために、知的探求の対象になりにくいという困難がある。」(276、277頁。頁はこの論文が後に所収された河上徹太郎=竹内好編『近代の超克』冨山房百科文庫23(1979年2月)の頁);
- 「思想からイデオロギーを剥離すること、あるいはイデオロギーから思想を抽出することは、じつに困難であり、ほとんど不可能に近いかもしれない。しかし、思想の次元の体制からの相対的独立を認め、事実としての思想を困難をおかして腑分けするのでないと、埋もれている思想からエネルギーを引き出すことはできない。」(同283頁)
と述べておられる。丸山教授は、前掲書の「あとがき」で、次のように述べておられる。
- 「本書執筆当時(1940年:筆者)の思想的状況を思い起こしうる人は誰でも承認するように、近代の『超克』や『否定』が声高く叫ばれたなかで、明治維新の近代的側面、ひいては徳川社会における近代的要素に注目することは私だけでなく、およそファシズム的歴史学に対する強い抵抗感を意識した人々にとっていわば必死の拠点であった・・・。私が徳川思想史と取り組んだ一つのいわば超学問的動機もここにあったのであって、いかなる盤石のような体制もそれ自身に崩壊の内在的な必然性をもつことを徳川時代について・・・実証することは、当時の環境においてはそれ自体、大げさにいえば魂の救いであった」
ここには、丸山教授の政治学者としての冷静さよりも、むしろ、日本の政治思想史研究に対する熱い思いが切々と述べられており、読者は大袈裟に思われるかもしれないが、前掲論文は、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫、1989年1月改訳版)及びエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(東京創元新社、1951年12月)[4]とともに、当時私の社会科学への関心を啓発してくれた契機となった。
丸山前掲書については、45年後の2014年7月に、私が参加している川崎市民アカデミー[5]の政治・社会ワークショップ(「20世紀前半の日本の政治思想」)でも採り上げられ、都築勉信州大学教授のご指導の下で、丸山教授の論文執筆の動機、これらの論文が意図した分析の対象及びその要旨、論文執筆後丸山教授自身がなされた反省と課題について報告した。また、翌2015年6月にも、1963年4月に執筆された吉本隆明「丸山眞男論」(『柳田国男論・丸山眞男論』(ちくま学芸文庫、2001年9月)所収)による激しい丸山批判について、同ワークショップ(「20世紀後半の日本の政治思想」)で報告した[6]。
[1] 柴田治三郎「歴史家ブルクハルトの人と思想」10頁(『世界の名著45 ブルクハルト イタリア・ルネサンスの文化』(中央公論社、1966年12月)所収)。1860年に刊行された『イタリア・ルネサンスの文化』は、1867年に刊行された『イタリア・ルネサンスの歴史』と対をなす芸術史である。
[2] 当初「国家学会雑誌」に連載された前掲論文は、戦後、丸山眞男『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、1952年12月)に第一論文として、第二論文『近世日本政治思想における「自然」と「作為」―制度観の対立としての―』、第三論文『国民主義の「前期的」形成』とともに所収された。
[3] 「近代の超克」という概念は、「戦争中の日本の知識人をとらえた流行語の一つであった。あるいはマジナイ語の一つであった。・・・『大東亜戦争』と結びついてシンボルの役目を果した」(竹内好前掲書274頁)。雑誌「文學界」は、昭和17年7月に、同誌同人の亀井勝一郎、林房雄、三好達治、中村光夫、河上徹太郎、小林秀雄及び京都学派の哲学者、歴史学者の西谷啓治、下村寅太郎、鈴木成高らにより、「近代の超克」をテーマに座談会を催し、同誌昭和17年9月号、10月号の2回にわたり掲載された。前掲竹内論文は、『竹内好評論集 第3巻 日本とアジア』(筑摩書房、1966年4月)にも収録されている。
[4] フランクフルト学派に属した社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、「プロテスタンティズムは個人をただひとり神に向かわせた・・・。個人は完全に孤独であって、神とか競争者とか、また非人間的な経済力とかいう、優越した力に立ち向かうのである。神に対する個人主義的な関係は、人間の世俗的活動における個人主義的な性格にたいして、心理的準備となった」(フロム前掲書125頁)こと及び「中世社会の崩壊は中産階級に脅威をあたえ、この脅威から無力な孤独感と懐疑の感情が生まれ、この心理的な変化がルッターやカルヴァンの教義の教えをうけいれるのに力があったこと、またこれらの教義が性格的な変化を強化し固定し、こうして発達した性格特性が、・・・もともと経済的政治的変化から生じた資本主義を促進する上に、生産的な力となったこと」(フロム前掲書325頁)を指摘し、マックス・ウェーバーの、資本主義発展の礎となったプロテスタンティズの分析を更に深化させた。
[5] 川崎市民アカデミーについては、http://npoacademy.jp/ を参照されたい。
[6] 吉本隆明氏による丸山前掲書への批判を要すれば、「『日本政治思想史研究』の方法がもっている問題は、一方では、思想史の過程をそのまま思想学説の正・反・合の歴史として独行させながら、一方では通俗史観(前後の脈絡から、ヘーゲルの歴史哲学を指していると思われる:筆者)にわざわいされて、社会と政治の構成そのものと、朱子学的な世界観の整序性を類比させたところにあった。したがって朱子学のもっている、それ自体の矛盾した主体が、いかにして近世社会の総体的イデオロギーとして政治社会の過程にはいってきて、そこでどんな矛盾した主体を形成したかは、まったくといっていいほど考察の外にはずされた。」(吉本前掲書274頁)
これに対して、丸山教授は、既に、第一論文の「むすび」及び同論文執筆の12年後に書かれた前掲書「あとがき」で、「近代意識を内面的な思惟方法の中に探って、必ずしも政治思想における反対者的要素のうちに求めなかったのは何故か・・・。そうした見方(近代意識を反対者的要素のうちに求めるという見方:筆者)は、根底的な思惟様式の変革がその上に立つ政治意識の変革とほぼ併行した欧州近代思想史の観察方法たりえても、そのまま我が国のそれとなしえない。市民的な社会力が封建社会の胎内で順調な成長を遂げることを阻まれた徳川期に於ては、多分に偶然的条件に支配され、根底的な思惟との関連を欠いた政治論に就て近代意識を窺うことは、恣意的な結果に陥らざるをえぬ。」(丸山前掲書183、184頁)、「(徳川時代の:筆者)正統的なイデオロギーの解体過程を裏返せばそのまま近代的イデオロギーの成熟になるという機械的な偏向に陥ってしまった。・・・封建的イデオロギーを内部から解体させる思想的契機を以て直ちに近代意識の表徴とは見做し難い。それはむしろ近代意識の成熟を準備する前提条件とでもいうべきものである。」(丸山前掲書「あとがき」8頁)、と「総括的自己批判」をされている。