企業法務への道(9)
―拙稿の背景に触れつつ―
日本毛織株式会社
取締役 丹 羽 繁 夫
《J.L.サックス『レンブラントでダーツ遊びとは 文化的遺産と公の権利』[1]》
私が翻訳分担に参加した7冊の書籍のうち背広ゼミでの最後の翻訳となったのは、刺激的なタイトルをもつJ.L.サックス『レンブラントでダーツ遊びとは 文化的遺産と公の権利』である。この書籍の主題は、個人の所有に属するが社会全般にとっても重要となるものの処遇についてである。例えば、「科学的に非常に重要な化石、歴史上重要な文書、令名の高い文筆家の書籍、芸術上の天才の制作品等である。」(前掲翻訳書2頁)世界の指折りの芸術品であっても、それを所有する「風変わりなアメリカの美術収集家が、ある週末のお遊びとして、友人を招いてレンブラントの肖像画を標的にしたダーツ競技を催すことにしたとしても、公の法律にもとることはないし、また私的な束縛による干渉を受けることもない。」(前掲翻訳書1、2頁)しかしながら、社会にとって重要なものが破壊されたり、どこかへ持ち去られたりした場合に、われわれが何かを失ったという感じを持つのは何故だろうか。
本書の筆者は、すぐれた芸術品や科学的成果等について、「正当な私的関心と公的な関心が重なり合っ」(前掲翻訳書17頁)ており、「共同社会が・・・正当な利害関係」(前掲翻訳書368頁)を持っているので、「対象になっているものの所有者には、・・・どのような権限と責任を認めるべきかという」(前掲翻訳書16頁)ことが問われなければならない、と述べている。そして、このような課題の解決には、「その原因となる事柄に対する政府の収用権を認めただけでは解決されない。むしろ、・・・物的な占有ないしは専断的行使の可能なある種のものと、それに対するもっと広汎な社会的要求とのあいだにあるべき関係」(前掲翻訳書16頁)をどのように構築するかにかかっているとし、「所有物に関するルール」(前掲翻訳書369頁)に取って代わるものとして、「社会にとりその歴史的・文芸的・芸術的記録類を保護することの重要性を認識し、重要人物の家族や遺言執行者に対し、文書類やその他の資料をそれらを保存する意思のある機関での利用を認めるよう要求する趣旨のことを、たぶん著作権法あるいは他の適当な立法規定の中に、拘束力のない形の文章で書き入れるという方策」(前掲書369頁)が考えられ、「最高裁は、・・・内密性への要求と司法府への社会一般の理解という必要とが競い合う事態を調整するのに(やがては)線を引けるようにする非拘束的なガイドラインを明確に示す」(前掲書374頁)ことが期待されている、と結んでいる。
私が翻訳を分担した本書第9章「相続人、伝記作家および学者」では、米国の大統領であったウォレン・G・ハーディングが彼の故郷オハイオ州マリオンで百貨店を所有していた実業家の妻キャリー・フィリップスに宛てた「情熱的で、非常に長い恋文」を含む一束の手紙の処遇をめぐる事例が詳細に紹介されている。ハーディング大統領の伝記を執筆する計画を立てていた作家フランシス・ラッセルは、1963年に、フィップス夫人の亡くなる最後の数年間彼女の保護者役であり、これらの手紙を保有していたドン・ウイリアムソンより、これらの手紙を見せられた。ウイリアムソンは、これらの手紙が、ハーディング大統領の事績を顕彰する「ハーディング記念協会」の手に渡れば、間違いなく灰燼に帰するであろうと懸念していた。手紙を見せられたラッセルは、伝記の中でこれらの手紙を広範囲に引用する計画を立てる一方、ウイリアムソンに対して、手紙が「オハイオ州歴史協会」に寄贈され、この教会により安全に保管されることを提案した。その後、手紙は歴史協会に提供されたが、同教会の理事たちは、ラッセルやウイリアムソンの意に反して、アメリカ大統領のイメージを損なうものは何であれ、その公表は差し止められるべきであり、これらの手紙は破棄されるべきである、と考えた。しかしながら、幸運なことに、歴史協会には手紙の所有権がなく、破棄する権限も持っていなかった。
同協会はその後、これらの手紙の名宛人であり所有者であったフィップス夫人の相続財団を設立し、遺言執行人を選任した。執行人は、先の歴史協会への寄贈は何の権限もないまま行われたと主張して、同執行人への手紙の返還を要求した。他方、ハーディング家は訴訟を提起し、手紙の公開はハーディング大統領の相続人に損害を与えると主張し、これらの手紙の「如何なる公表、印刷、複写、展示または如何なる目的のためにせよ使用を禁止する」(前掲翻訳書260頁)緊急差止め命令の申立てを申請した。遺言執行人は、更に、フィップス夫人の娘に、これらの手紙を、ハーディング大統領の甥のジョージ・ハーディングに売却するよう要請し、彼女はその通りに手紙を8000ドルで甥に売却した。この時点で、問題の手紙は地上から消えて再びその姿を現すことはないであろう、と予想された。
しかしながら、ラッセルはこの件を「ニューヨーク・タイムズ」紙に伝え、同紙は、「ハーディングからオハイオ州の実業家の妻への250通の恋文、発見される」との記事を掲載した。記事の掲載は、オハイオ州の裁判所が差止め命令を下す2、3週間前のことであった。ラッセルは、彼が引用しようと計画していた箇所について、ハーディング家は検閲を実施した事実を明らかにするとともに、伝記の中で、わざわざ12ヵ所を空白にして出版したのであった。
1971年に差止め命令をめぐる訴訟は和解で解決され、ハーディング家はこれらの手紙を10万ドルの対価を得て議会図書館に寄贈することに同意し、差止め命令から50年後、ハーディング大統領の死後91年後の2014年7月29日まで公開が禁止され、ジョージ・ハーディングに手紙の出版権が留保されたのである。
本書が出版された1999年当時も、これらの手紙は未公開のままであった。1963年当時手紙の一部を既に読んでいたラッセルは、「ハーディングはキャリーにすべてを語ったのであり、彼の全く遠慮のない感情の吐露が、彼の性格や動機、野望や疑念などに結果的に有力な光をあてることになった」、と述べている。[2]
本書の主題を理解するのは容易ではないが、要すれば、何らかのメディア(媒体)に既に露出されているか又は公開されている文書・資料・制作品等の場合であれば、著作権法等の執行力のある知的財産権法により権利者の保有する対象物が保護される一方、保護される範囲もまたこれらの法律により制限を受ける。例えば、米国の著作権法では、判例法の蓄積を経て、1976年改正法で、「著作権の公正な使用」(Fair Use)という、著作権者の排他的な権利を制限する法理を確立しているのがその一例である。しかしながら、ここでの主題は、保有される又は保護される対象物が何らのメディア(媒体)にも露出されていないか又は公開されていない場合であり、一般大衆は、これらの対象物がどのように処遇されているのか又は今後処遇されるのか、知る由もないところにある。従って、筆者は、これらの対象物を権利者の専断的な処遇から保護し、公的な関心又は共同社会の正当な利害関係を充足するためには、「著作権法あるいは他の適当な立法規定の中に、・・・非拘束的なガイドラインを明確に示す」ことから始めよう、と提案している。本書は1999年に公刊されたが、問題の状況は、残念ながらその後も変わってはいない。
この翻訳は、知的財産権とその権利の制約について、私に、深く考えさせられる契機を提供してくれた。知的財産権訴訟の嵐に巻き込まれることになるのは、2000年1月に長銀を退職し、コナミ株式会社に転職した同年2月以降のことである。
[1] Joseph L. Sax “Playing Darts with A Rembrandt Public and Private Rights in Cultural Treasuries” (The University of Michigan Press, 1999).1986年よりカリフォルニア大学バークレー・ロースクールの教授であったサックス教授は、環境法の専門家であり、特に公益信託理論を開発したことで知られていた。
[2] Francis Russell “The Harding Papers”(31頁)。