企業法務への道(21)
―拙稿の背景に触れつつ―
日本毛織株式会社
取締役 丹 羽 繁 夫
《競走馬の名前についてのパブリシティ権をめぐる判決の検討》
ゲームソフト内で使用された競走馬の名前についてのパブリシティ権をめぐる判例について、私には、2度にわたりNBL誌「Topics」欄に執筆の機会が与えられた。「競走馬の名前についてのパブリシティ権」(NBL746号(2002.10.1))及び「競走馬の名称についてのパブリシティ権をめぐる最判平16・2・13」(NBL780号(2004.3.1)であり、事案の詳細については、これらの拙稿に譲りたい。
競走馬の名前についてのパブリシティ権をめぐる訴訟は、名古屋高判平成13年3月8日(判タ1071号294頁、以下この稿で「名古屋高判」という)及び東京高判平成14年9月12日(判時1809号140頁、以下この稿で「東京高判」という)の2つのルートで争われてきたが、最終的に、最二小判平成16年2月13日(民集58巻2号311頁)は、前者の上告審において、競走馬の名前について無体財産権を認めた名古屋高判の判断を覆し、競走馬の所有者である一審原告らに対して排他的な使用を認めることができないとして、彼らの上告を棄却した。
競走馬の名前についてのパブリシティ権をめぐり、名古屋地判平成12年1月19日(判タ1070号233頁、以下この稿で「名古屋地判」という)・名古屋高判と東京地判平成13年8月27日(判時1758号3頁、以下この稿で「東京地判」という)・東京高判の判断が分かれた背景については、結局のところ、名前・肖像等が持つパブリシティ価値を、人格権の一部として捉えるのか、又は、人格権とは分離した、一個の独立した経済的利益ないし価値として捉えるか、という考え方の相違がある。東京地判及び東京高判は、パブリシティ権のリーディング判決とされてきた東京高判平成3年9月26日(判時1400号3頁、「おニャン子クラブ」の氏名・肖像侵害訴訟事件判決)に依拠し、パブリシティ価値をあくまでも人格権の枠内で捉えたのに対し、名古屋地判・名古屋高判は、人格権を離れて一個の独立した経済的価値として捉えられるのであれば、パブリシティ価値を有するものを人格権を有する著名人に限定する必要はないと考えたのである。
前掲最高裁判決は、人にしろ物にしろ、それらのパブリシティ権の法的性格を明確にできる機会であったにもかかわらず、名古屋地判及び東京地判が提起した人格権との関係に踏み込まないで下された判断であったので、私は、拙稿の中で、以下の2つの疑問を提起した。
第一の疑問は、「競走馬の名称等の使用につき、法令等の根拠もなく競走馬の所有者に対し排他的な使用権等を認めることは相当」ではないとした判決理由中の判断についてである。「人のパブリシティ権」についても、東京地判昭和51年6月29日(判時817号23頁、英国の子役俳優マーク・レスターの氏名・肖像侵害訴訟事件判決)以来裁判例の蓄積を通して形成されてきたものであることを考えると、前掲最高裁判決が別途の「法令等の根拠」を求めることは、裁判所自らによる判例法を形成する権限を否定することにつながりはしないか、と懸念した。
第二に、前掲最高裁判決も競走馬の名称等が有する顧客吸引力を認めているが、そこには果たして守られるべき法益はないのか、という疑問である。名古屋地判は、競走馬の名称等のパブリシティ価値について、「飽くまでも物自体の名称等によって生ずるのであり、所有権と離れて観念することはできない」と述べたが、名古屋高判は、「競走馬が死亡したとしても、その馬名にかかる顧客吸引力が存続している限りパブリシティ権は消滅することなく存続し続けることはありうる」と注目すべき分析をしている。このような分析を踏まえると、「物のパブリシティ権」についても、物の所有権とは独立の、その物の有する顧客吸引力を中格とする又は当該顧客吸引力から派生する財産的な権利として構成することは、それ程無理のある構成ではないのではないかと考えたのである。