ロンドンで活躍する日本人弁護士、Ashurstパートナー岩村浩幸氏に聞く①
Ashurst LLP
弁護士(英国法および米国法) 岩 村 浩 幸
(聞き手)西 田 章
日本の渉外事務所が、欧米のインターナショナル・ローファームとの間に遅れを感じさせられる場面のひとつに、「欧米の一流企業は、日本への投資案件でも、欧米の弁護士を元請けに起用する」という点が挙げられます。欧米の一流企業の経営陣が直接に信頼しているのは、常に欧米のローファームであり、日本の一流事務所も、彼らにとってみれば、「下請けローカル事務所のひとつ」に過ぎません。
少子高齢化で成熟した国内市場には成長余力がない日本企業は、今、次々に、海外進出に取り組んでいます。かつてはインバウンドに注力していた日本の渉外事務所も、今は、日本企業のアウトバウンドを支援しようと業務の拡大を図っていますが、その対象地域は(現地事務所のレベルにばらつきがある)新興国が中心です。
欧米の弁護士が、欧米企業の対日投資等の海外案件に際しても、参謀役を果たしているのと同様に、日本人弁護士が、日本企業の海外進出の司令塔におけるアドバイザーの役割を果たすことはできないのだろうか。そんな問題意識を抱いていたところ、英国ロンドンにおいて、正に、日本企業のリーガルリスクに対応するための参謀役を務めている日本人弁護士が存在することを教えてもらいました。それが、Ashurstロンドンオフィスのパートナーで、ジャパン・プラクティス・チームを率いる、岩村浩幸弁護士(英国法及び米国法)です。
今回から3回にわたって、岩村弁護士が、どのようにして、ロンドンのインターナショナル・ローファームでジャパン・プラクティス・チームを創設するに至ったのか(第1回)、ロンドンのジャパン・プラクティス・チームでどのような業務を担っており、業務拡大中の同チームにおいて、どのような人材が求められているのか(第2回)、そして、ロンドンのジャパン・プラクティス・チームに挑戦する日本人弁護士には、どのようなキャリア展開がありうるのか(第3回)をお尋ねしました(2018年10月15日、商事法務会議室にて)。
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今週、ビジネス週刊誌で「法学部の人気が落ちている」という特集が組まれていました。日本における弁護士資格の価値のありがたみが薄れていますが、ロンドンで、英国法弁護士として活躍されている、岩村先生のキャリアは、若い弁護士に興味があると想像しています。本日は、(1)岩村先生のご略歴を伺った上で、(2)Ashurst法律事務所について、そして、(3)Ashurstのロンドンオフィスをイメージしながら、どのような日本法弁護士であれば、ロンドンで活躍するチャンスが与えられそうかについてお尋ねしたいと思います。
まずは、岩村先生の学生時代の頃のことについてお尋ねしたいのですが、大学時代から、「海外で弁護士として働きたい」という希望が強かったのでしょうか。 - 「弁護士」というのは、全然考えていなかったですね。自分は、茨城県生まれで、中学・高校を茨城県で過ごして、大学は、青山学院大学の国際政治関係の学部に入学して、厚木キャンパスに通っていました。
- 英語はもともとお得意だったのですか。
- いえ、帰国子女ではないし、海外にも行ったことはありませんでしたので、受験用に英語を勉強しただけです。
- 海外生活への興味は強かったのでしょうか。
- そうですね、現役で大学に入学して、「このまま普通に就職するのもつまらないな」と思っていたところに、大学2年生のときに、「ワーキングホリデー」という制度ができたのを知って、「仕事をしながら海外に住めるならば、行ってみたい」と思って、カナダに行くことを決めました。
- ご両親には理解があったのですね。
- 親に内緒で準備を進めました(笑)。休学の手続に親のサインがいるので、そこで打ち明けて、スポーツバッグに、1週間分の着替えと、1週間分のユースホステルだけ予約して出発しました。
- 海外旅行経験はあったのですか。
- それが初めての海外です。大学2年生が終わったところで1年間、カナダに行きました。
- 海外で働くキャリアも視野に入れていたのですね。
- そうですね、当時は、漠然と「外交官になりたい」と思っていました。ただ、カナダで出会った外交官の方から「青学だと、外交官になっても面白いポストに就かせてもらえないから、やめたがほういい」「北米とか英国とかの英語圏は、東大出身のエリートだけしか行けないよ」とアドバイスを受けて、諦めました(笑)。
- カナダから戻られて、大学3年、4年次に何か印象的なことはありましたか。
- 青学の3~4年次に、米国法弁護士資格と米国公認会計士資格を持った、マキロイ・ロバート先生のゼミを取り、マキロイ先生から「米国では、ロースクールに行けば、弁護士になれる」ということを教えてもらいました。ゼミでは特にこれといった研究などはしなかったのですが、その言葉が記憶に残っていて、後の進路選択に影響を与えてくれました。
- 米国留学を考えられたのですね。
- 大学を卒業してすぐに留学する経済的余裕はなかったので、「まずは、働いてお金を貯めて、お金が貯まったら留学したい」と考えました。
- 就職活動をされたのですね。
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はい。給料が高そうで、海外にも行く機会がありそうな会社はどこか……、と考えて、外資系のコンサルティング・ファームである、アクセンチュアから内定をいただきました。
それ以外には、大学3年・4年次は、ほぼボランティアをして日々をすごしていました。 - どのようなボランティアをされていたのですか。
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フィリピンのカオハガンという島があるのですが、そこの島の人のために、資金を集めて、漁業用の網を贈る、というものです。
当時は、ダイナマイト漁が流行っていたのですが、ダイナマイト漁は海を汚すし、漁に携わる人々も怪我をします。それ以外には、観光客に土産物を売る仕事があるのですが、それでは何もスキルが身につきません。そこで、彼らに網を買ってあげて、経済的に自立させてあげるために、日本でファンドをレイズしたり、そのためのニューズレターを書いたり、イベントを開催したり、現地に家を建てるツアーを組んだりしていました。 - 学生時代から企画力に溢れていたのですね。
- そういうわけでもないのですが、フィリピンの子供達が、病院に行けなくて亡くなってしまったりするのを目の当たりにして、「人間って簡単に死んじゃうんだな」と気付いて、「人権関係の仕事をしたい」と思いました。
- 国際機関に行くことは考えなかったのですか。
- それは、その後も考えたことでしたが、まずは、コンサルティング・ファームに入って、貯金をすることを優先しました。
- アクセンチュアでは、どのような仕事をされていたのですか。
- アクセンチュアは、1年目は、東京オフィス勤務でした。本業はシステム開発の会社ですが、私が入ったのは、組織とか人事とかの戦略を立てる部門でした。
- 外資系企業では、日本人に海外勤務の機会はありませんよね。
- それが普通だと思いますが、私が「海外に行きたい」と、ずっと社内で言い続けていたら、当時のボスが「じゃあ、1年間、シカゴに行ってこい」と言ってくれて、2年目は、シカゴの郊外にあるトレーニングセンターで働きました。そこで、WEBベースのトレーニングとかを作ったりしていました。
- それは、日本人が日本語を生かした、日系企業向けのサービスなのですか。
- いえ、日本語の仕事はありませんでしたので、英語ネイティブでないことがディスアドバンテッジの業務でした。一部クライアント向けの業務も下請けもしていましたが、内部向けの開発みたいな仕事を、現地チームの一員として取り組みました。
- それは大変そうですね。シカゴオフィスは1年だけだったのですか。
- はい。翌年に東京オフィスに戻って、組織、人事のコンサル部門での勤務を再開しました。それから2年ほどで、留学1年目の資金を貯めることができました。
- 留学1年目の分だけですか。
- 米国のロースクール3年分の学費と生活費を貯めようと思ったら、あと10年はかかりそうだったので、「行きゃあ、なんとかなるだろう」と思いました。
- アクセンチュアでは、トータルで何年勤められたのでしょうか。
- 4年間ですね。
- アクセンチュアでの経験は、弁護士になってから役に立っていると思いますか。
- 私は、コンサル時代の経験はすごく役に立っていると思っています。「三つ子の魂百まで」ではないですが、アクセンチュアでの「どういう風にロジックを組み立てるか?」を考えて「事実を集めて、そこにメソドロジーを適用してアドバイスをする」という仕事は、基本的に、弁護士業務にも共通していると思います。
- そこで適用するメソドロジーは、法律ではないのですよね。
- はい。でも、法律に縛られる必要もなく、コマーシャルな考え方をする、という意味でも、役に立っていると思います。当時は、そんなことは考えていませんでしたが、今、振り返ってみると、最初にコンサルの仕事を選んだことは、すごく良かったと思います。
- 学生から、いきなり弁護士になった人よりも視野が広くなりそうですね。
- そうは思っていませんが、「日本の一般企業に入っていたら、弁護士に転身しても、考え方にギャップがあって戸惑っていただろうな」とは思います。弁護士になるための、トランジションはスムースでした。
- コンサルの仕事に不満はなかったのですか。
- 不満があるとすれば、それは、「適用するメソドロジーが、アクセンチュアの持っているやり方に過ぎず、それが正しいものかどうかがわからない」という点ですね。クライアントに助言しながらも、「これは合っているのかな?」という不安は常につきまとっていました。その点、法律のほうが、定義上、正否が明らかなので、安心してアドバイスができます。
- でも、コンサルにいらっしゃったならば、ビジネススクールに留学して、MBAを取ってくる方のほうが圧倒的に多数ですよね。
- はい、留学はみんながMBAに行きます。アクセンチュアの人事に「留学に行くので、退職します」と報告した際にも、人事担当者は「ロースクール? 何それ?」という反応でした。
- ビジネススクールに行くことは考えなかったのですか。
- ビジネススクール、ロースクール、その他の専門の修士課程に行く、ということを考えました。ただ、ビジネススクールに行ったら、今、やっている仕事とあまり変わらないかな、と思いました。
- 修士課程というのは、専門は何を考えておられたのでしょうか。
- 先ほども申し上げたとおり、国際機関に行くことにも興味がありました。そこで、国際関係とかのマスターの学位を取りに行く、ということを考えました。実際に、友人には、そういうルートで国連に入った人もいます。ただ、修士課程は、「つぶし」が効かないかもしれないな、と思っていたところに、青学のゼミで、マキロイ先生が米国のロースクールに進んで米国法弁護士になることを奨めていたのを思い出しました。そこで「弁護士ならば、食いっぱぐれはないだろう」「法律の学位を取っておくことは、将来、国際機関に行くためにも無駄にならないだろう」と考えました。
- 岩村先生は、LL.M.1年の留学ではなく、JDに3年行かれていますよね。
- 私は、アンダーグラジュエイトの学位が国際経済学士で、法学士ではないので、LL.M.の入学要件を満たしていません。だから、JDに入学しなければなりませんでした。
- ロースクールはどこに行かれたのですか。
- ブルックリンロースクール、という、トップスクールとは言えませんが、全米で50番以内に入る学校に合格して通いました。
- JDの勉強は、日本人には相当に大変なものなのではないでしょうか。
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1年目は、「絶対に他の生徒よりも勉強するぞ」という覚悟で授業に臨みました。床屋に行く時間を節約するために、バリカンで坊主頭にしました。そして、毎日、ヒゲも剃らずに、朝一で図書館に行って、一番最後まで勉強しよう、と心に決めました。そのため、朝6時~7時に図書館が開くと同時に入って、24時頃に閉まるまで、ずっと図書館で過ごしました。週末もです。
- 授業はついて行くのは大変ではなかったのですか。
- 私は、当時、まだ2年しか海外経験がありませんでしたので、英語も大してできるわけではありませんでした。そのため、授業は一番前の席に座って先生をずっと見て、講義をICレコーダーで録音して、わからない箇所の録音を聞き直す、という作業を、1年間、繰り返しました。
- 成果はあったのでしょうか。
- おかげで、トップ5%、約600人の同期の中で、30番程の成績を収めることができました。
- 周りは、英語ネイティブの米国人学生ばかりですよね。
- そうです、アメリカ人ばかりです。成績には自分でも驚きました。
- 当時から、ロースクール卒業後のキャリアプランは定まっていたのでしょうか。
- いえ、何の当てもありません。当時、現地の米国人弁護士からは「中国語を話せたらよかったのに。日本語ができる弁護士にもう人気はないよ」と言われました。
- 「日本語ができれば、引く手数多」というマキロイ先生の情報は古かったのですね。
- 全然話が違いました(笑)。日本語枠での仕事はなかったですね。
- 就職活動はどのようにされたのでしょうか。
- 米国のロースクールでは、1年目の成績を基に、就職活動をします。そこで、色んなローファームに、履歴書を出して、学校でのオンキャンパスインタビューを受けた後で、次に、ファームを訪問してインタビューを受けました。
- どのローファームのオファーを受けたのでしょうか。
- Shaw Pittmanというローファームです。アクセンチュアでの経験を評価してくれて、テクノロジー関係の業務をやる、ということになりました。
- ブルックリンロースクールを出て、Shaw Pittmanで働いたのですね。
- 私は、クラークシップにも興味があったので、アプライしたところ、ラッキーにも、ニュージャージーの連邦裁判所の判事が、私に1年間のクラークの仕事をくれたので、これを受けました。
- 日本人で、米国の裁判所のクラークは珍しいですね。
- 日本人だけでなく、外国人はほとんどいませんでした。英語も下手だったし、すごく迷惑をかけたと思います。
- クラークの仕事は勉強になりましたか。
- めちゃめちゃ勉強になりました。リサーチをして、判決の下書きをする仕事ですが、私がドラフトを出すと、判事は、毎回、真っ赤に添削して返してくれました。迷惑はかけましたが、おかげで、ライティングの英語はかなり上達しました。面倒を見てくれた判事には感謝しかありません。
- 当時、岩村先生は何歳だったのでしょうか。
- JDを出たのが、2003年、30歳で、クラークを務めていた年に31歳になりました。
- そこまで勉強に打ち込めるのは、そのぐらいの年齢が限界ですかね。
- たしかに、あと5年遅かったら、ちょっと難しかったと思います。
- クラークを終えて、Shaw Pittmanで弁護士として働かれたのですね。これは米国オフィスですよね。
- はい、米国オフィスで働いていたのですが、その頃に、うちの妻が「ロンドンで勉強したい」と言い出しました。妻は、米国の大学を出ていたので、大学院は、米国ではなく、イギリスに行きたかったのです。
- それで、ロンドンオフィスに異動させてもらえたのですか。
- 当時、Shaw Pittmanは、Pillsburyというファームと合併したところで、NYオフィスは仕事よりも、統合業務で大変そうでした。私が、「イギリスに行きたい」と言ったら、「3ヵ月だけならばOK」と承認をしてもらえました。
- 3ヵ月で米国オフィスに戻ったのですか。
- 2005年2月に、まず、3ヵ月の約束でロンドンに行きました。妻は3ヵ月を過ぎてもロンドンに居ますので、私は、ロンドン現地のボスに、延長を依頼しました。すると、ボスからは「イギリスの弁護士資格を取ったならば、ロンドンに留まっても構わない」と言ってくれました。そして、イギリスの弁護士資格を取ることにしました。
- イギリスの弁護士資格は簡単に取れるものなのですか。
- アメリカ法資格を持っていたので、試験を受けて通れば、イギリスの弁護士資格を取得できました。
- 試験を受けたのですね。
- はい。7月に2日間の試験がありましたので、7月までロンドン滞在を延長してもらいました。試験の2日目が、2005年7月7日に予定されていたことはよく覚えています。丁度、ロンドンで爆弾が爆発して、交通機関が全部止まってしまったので。
- 危なかったですね。試験は開催されたのですか。
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私は、サリン事件(1995年3月20日)には東京にいましたし、アメリカ同時多発テロ事件(2001年9月11日)にはニューヨークにいました。どうもテロに巻き込まれやすいようです(苦笑)。
ロンドンの爆弾事件で試験は延期されて、9月になりました。そのため、私のロンドン滞在も延ばしてもらえました。 - 試験の結果はどうだったのでしょうか。
- ラッキーなことに、1回目で合格することができました。事務所には「試験の結果が出るまでロンドンに居させてもらいたい」と頼みました。
- イギリス法資格を取得して、ロンドンオフィスでの勤務を続けられたのですね。
- はい、Pillsburyのロンドンオフィスでしばらく働きましたが、翌年には、Herbert Smithに移籍しました。
- 移籍の理由は何だったのでしょうか。
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Pillsburyには恩義も感じていたのですが、15人ぐらいしかいない小さいオフィスでしたし、仕事内容も米国法がほとんどでした。
この先、ずっとイギリスにいて、イギリス法弁護士として生きていくためには、イギリス系事務所に移ったほうがいいだろうと判断しました。 - ジャパン・プラクティスをするために、ですか。
- いえ、違います。Herbert Smithに入る際は、英国法のテクノロジー分野のアソシエイトとして入所しました。個人情報保護とかは当時から議論がなされていましたし、アウトソーシングとか、ITシステムの開発契約をレビューしたり、IT系のライセンス契約とか、M&Aのデューデリジェス業務とか。そういう業務をメインに5年間、仕事をしていました。
- 日本企業の依頼者をメインにしていたわけではないのですか。
- 当初は、日本企業のクライアントはいなかったですね。ただ、私が、Herbert Smithに移籍して1年目に、日本の自動車メーカーの現地駐在の担当者が「ロンドンにおいて日本語でアドバイスしてくれる弁護士を探している」と言って、私に会いに来てくれました。
- でも、当時は、まだ岩村先生はアソシエイトですよね。
- はい、アソシエイトでした。まだ下っ端でしたので、他の弁護士の力を借りて対応しました。ただ、そのときに、「日本企業に、日本語でリーガルアドバイスを提供する、という類型の仕事があるんだ!」と気付きました。
- それから、日本企業へのマーケティングを初めたのですか。
- マーケティングが主目的ではなかったのですが、当時、日本にいる私の父が体調を崩したので、年に数回、帰国しなければならずに、その際に、「日本でもマーケティングをします」と言って帰国の許可をもらいました。なので、「仕事を取りに行く」というわけではなく、家庭の事情で帰国する次いでに、という程度でした。
- でも、「次いでマーケティング」の効果が出たのですね。
- 実際に日本に帰国して回ると、ぽろぽろと仕事を貰えるようになりました。また、日本の渉外系法律事務所を、Herbert Smithの知財部門に紹介したら、日本の事務所と連携して、日本の製薬会社を代理して、欧州で、特許訴訟を代理するような事件をいくつも受けられるようになりました。
- アソシエイトなのに、スーパースター的な活躍ですね(笑)。
- 確かに、知財部門やコーポレート部門のパートナーから「一緒に日本にマーケティングに行こう」と声をかけられることが増えました(笑)。
- そのまま、Herbert Smithでパートナーに、という話にはならなかったのでしょうか。
- Herbert Smithには5年位いて、パートナー昇進という話も考えてくれ始めたのですが、その頃に、自分をサポートしてくれていたパートナーが続々と辞めてしまったりして、ちょっと環境が変わって来てしまいました。
- 仕事をしづらくなった、ということでしょうか。
- そうですね、少し窮屈になってしまいました。個人的にクライアントと連絡をとるのではなく、連絡先を事務所にすべて提供して、クライアントと会うときも、個人的に会うのではなく、他の弁護士と一緒に回るようにする、とか、会議はすべて英語で話す、とか、ルールが増えてしまいました。
- Herbert Smithでは、ジャパン・プラクティスは作られなかったんですか。
- Herbert Smithは、プラクティスグループ毎の壁は高かったと思います。そのため、私は、テクノロジー部門に所属していたので、その枠を超えた活動をするのは、あまり推奨されていない雰囲気がありました。
- それで、Ashurstに移られたのですね。
- Ashurstに、「自分は、日本企業を全面的にサポートする業務をしたい」と提案してみたら、「面白そうだから、やってみたら」という回答を得られました。
- 当時、Ashurstに、ジャパン・プラクティス・チームはなかったのですか。
- 今のような形のチームはありませんでした。Ashurstは、実は、日本でオフィスを開いた最初の英国系事務所の一つです。東京オフィスでは、政府系金融機関や商社の仕事をしていたのですが、ロンドンオフィスには、日本企業のクライアントはいませんでした。
- アソシエイトとしての採用ですか。それとも、パートナーとしての採用でしょうか。
- パートナーではありません。ただ、アソシエイトというタイトルだとマーケティング上は見栄えが悪いので(笑)、「コンサルタント」というタイトルを貰いました。
- コンサルタントだと、採用手続はどの程度に重たいのでしょうか。
- 実質はアソシエイトなのですが、私の場合は、パートナー10名以上からインタビューを受けました。というのも、当時は、2010年春で、リーマンショックから、まだ間もなかったので、採用が凍結されたまま、誰も雇っていない時期でした。その中での採用でしたので、CEOであるシニア・パートナーからもインタビューを受けましたし、COOであるマネージング・パートナーからのインタビューも受けました。
- それだけ大勢のパートナーとインタビューして、ジャパン・プラクティスの構想は認められたのですね。
- 「うまく行く自信があるならば、やってみれば」という感じで入りました(笑)。
(続く)