弁護士の就職と転職Q&A
Q61「退職希望者をどこまで引き留めるべきか?」
西田法律事務所・西田法務研究所代表
弁護士 西 田 章
人材紹介業は、転職を斡旋することで採用側に紹介手数料を請求するビジネスモデルです。ただ、他事務所の事情を知り、若手弁護士の本音を聞く機会が多いことから、「うちのアソシエイトが転職すると言い出したのが、思い留まらせる方法はないか?」という相談を受けることもあります。退職を切り出しても、その決断に迷いが見られる場合には、「退職希望者の目をどこに向けさせるか?」の工夫次第で退職意思を撤回させることをできる場合もあります。ただ、「転職の機会を奪ってしまって良いのか?」という疑問を抱かされる事例も散見されます。
1 問題の所在
パートナーは、アソシエイトから「退職したい」という申告を受けると、その脳内では、2つの立場から、どう返答すべきかの思考回路が動き出します。ひとつは「弁護士業界で長く生きてきた先輩として後輩にいかに助言すべきか?」という思考回路であり、もうひとつは「事務所の管理職として部下の退職申請にどう対処すべきか?」という思考回路です。両回路の調和を図るためには、パートナーの側にも時間を要するために、(その場で退職申請を受理せずに)「今度、飲みに行ってゆっくり話そう」という「息継ぎ」を得て、対策を練ることになります。
伝統的には、「弁護士は最後は自分で食い扶持を稼がなければならない自営業者である」という思想が強かったために、「本人が決めたことを止めるべきでない」として「先輩としての助言」思考が優っていました。ここでは、「自分が退職希望者の立場だったら、どうするだろう?」という基準での検討がなされていました。そのため、「うちを辞めてどこに行くつもりなのか?」を聞き出した上で、「うちに残った場合と転職した場合とでどちらにチャンスがあるか?」を真剣に議論することになります。その結果、引き留めるべき立場にあったはずのパートナーのほうから「確かに、転職したほうがいい。俺だってそっちに行きたい」と認められた事例や、「その事務所に行かれるのが一番痛いけど、そこならば止められない」といって許された事例もあれば、逆に「そこである必要がどこにあるのか? 単に逃げているだけではないか?」と言い返されて、慰留された事例もあります(その後に引き止めたパートナーのほうが先に事務所を辞めてしまう、ということもあります)。
ただ、近時は、「管理職としての対処」思考で対策を検討する傾向が強まっています。「担当していた案件を誰に引き継がせるか」という直接的な人繰りの問題に加えて、ジュニアパートナーは、自らがシニアパートナーへの昇進審査を控えているために、「管理下にあるアソシエイトが辞める」ということに対する自分の評価への減点を恐れがちですし、シニアパートナーは、「他のアソシエイトへの波及効果」を懸念しがちです。
2 対応指針
アソシエイトからの退職の申告に対して、退職がもたらす事務所側の不利益(マンパワー不足等)を強調して道義的な非難を向けることで、転職を一時的に思い留まらせた事例もありますが、「先輩としての助言」の範囲に外れるような言動を取るべきではありません。
現在進行形の問題が給与水準ではなく、労働環境である場合には、それを解消するために、「相性が悪いパートナーと組ませない」「希望する種類の案件を配転する」といった環境改善にも引き留め効果は認められますが、理想を言えば、「その場限り」ではなく、「中長期的にもキャリアとして成立しうる」ことまで示してあげるべきです(例えば、「企業への出向」は、激務緩和にはつながっても、パートナートラックから外れることも意味する場合があります。また、「パートナーにならずともカウンセルという道もある」という提案には、「本人よりも若い修習期の弁護士がパートナーに昇進するようになったら仕事を振ってもらえなくなるリスク」も存在します)。
「転職予定先についてのネガティブ情報」については、具体的な問題点(クライアント筋の悪さや弁護過誤等)を把握しているならば、指摘してあげるべきですが、安易な印象論から「落ち目の事務所であり、留学帰りでも行ける」「留学すればまた違う景色が見えてくる」等の無責任なコメントは避けるべきです(家族的な雰囲気を大事にする事務所は、年次の上がった応募者を門前払いするため、事実に反する場合があります)。
3 解説
(1) 現在進行形の問題の解消措置
アソシエイトが給与アップを求めて転職先を確保してきた場合には、引き留めるならば、ボーナスや昇給を与える必要があります。そうではなく、アソシエイトの不満が、労働環境や業務内容にある場合には、最近は、所属事務所側から「企業に出向しないか?」とか「グループを変えたらどうか?」という提案がなされることが増えています。本人のニーズに合った異動先が見付かり、受入先であたたかく迎え入れてもらえるならば、入所以来のキャリアの連続性も保ちつつ、本人のストレスを緩和することができます。
ただ、「企業への出向」や「グループ変更」を受けたアソシエイトに、所属事務所内でのパートナー選考審査上、不利に扱われるリスクがあるならば、それを告知しないことは不誠実です(一般的には、ひとつのグループで順調にパートナーからの信頼を築き上げて来た同期よりも一歩遅れることが通例です。パートナートラックから外れたとしても、「いずれはインハウスに転向したい」というアソシエイトであれば、「企業出向」を提案するのは本人にも有意義ですが、本人が「将来は訴訟弁護士になりたい」というような方向性を新たに設定している場合には、再出発を遅らせる不利益を与えることも考慮しておかなければなりません)。
(2) 現職に残留した場合のシナリオ予測
中小の事務所であれば、退職を申告してきたアソシエイトに対して、「君にはぜひパートナーになって一緒に事務所を盛り立てて行ってもらいたい」という期待をストレートに伝えて慰留することで、将来におけるパートナー昇進を内定することもあります。
他方、多数のパートナーとそれ以上の数のアソシエイトを抱える大規模事務所においては、一部のパートナーだけで重要な人事をコミットすることもできなければ、他のアソシエイトを差し置いて、ひとりだけ「えこひいき」することもできません。そのため、「当事務所でパートナーになることがいかに名誉なことか」「仮にパートナーにならなくても、カウンセルとして残ることも可能である」といった制度説明に終始することになります。
本人が「この事務所でパートナーになれるものならば、本当はそれがベストシナリオである」という価値観を抱いており、パートナーとしても、そのシナリオに実現可能性を感じているならば、「一時的に弱気になったアソシエイト」に自信を取り戻させてあげるための時間を与えてあげるのは「先輩としての助言」としても合理的です。しかし、パートナーの立場から見て、実は、現職でこのまま業務を続けていても、本人をパートナーに引き上げるシナリオを描けていないならば、「退職時期が遅れることが本人の選択肢の幅を狭めるリスク」を生じさせる責任も意識しなければなりません(例えば、「不祥事調査のヒアリングを担当していても、案件を取れるパートナーにはなれない」「この分野はパートナーが足りているので、60期代後半までパートナー枠が回らないだろう」というような見通しがある場合)。
(3) 転職予定先に関するネガティブ情報
退職が合理的かどうかは、現職におけるシナリオと、転職予定先におけるシナリオのどちらが魅力的か(本人のキャリアプランに合致しているか)によって相対的に定まります。そのため、「転職予定先に修行場としての問題がないかどうか?」は、「先輩としての助言」としても、入手している情報は提供してあげるほうが親切です(私自身も、事務所の退職者等からの情報で、「クライアント筋が悪い」とか「懲戒請求を受けている」とか「法的根拠がないことを知りながらも、和解金目的で嫌がらせの訴訟を提起している」とか「給与の未払いが生じている」などの事実を知っていた場合にはそれを伝えるようにしています)。しかし、転職予定先についての具体的な情報があるわけでもないのに、徒らに、本人に不安を煽るようなネガティブ・キャンペーンを行うことは、「先輩としての助言」の範囲からは外れます。特に、「今行かなくても、留学から戻ってからでもいつでも行ける」などのコメントは、事実に反することがあります(事務所毎に「年次毎に求められる経験の種類」が異なりますので、留学から戻ることが市場価値を高めるとは限りません。例えば、家族的な雰囲気を大事にする事務所であれば、「まだ当事務所の文化に馴染ませることができる」と思われるジュニアの年次の候補者しか採用を検討してもらえないこともあります)。
以上