「事業再生の専門家に聞く(前編)」
主演:上田裕康(弁護士・アンダーソン・毛利・友常法律事務所)
共演:伊藤眞(東京大学名誉教授)
企業法務において求められる弁護士業務は、景気に大きな影響を受けて変容していきます。政府・与党がアベノミクス効果による経済成長を謳って来た間、リーガルマーケットでも、M&Aロイヤーやファイナンス・ロイヤーが活躍してきましたが、2020(令和2)年3月26日に内閣府が発表した月例経済報
今回、「事業再生の専門家に聞く」と題するインタビュー企画において、主演をお願いした実務家は、2008年に起きた「リーマン・ショック」という世界的な金融危機において、リーマン・ブラザーズの日本法人の民事再生手続の代理人を務められた上田裕康弁護士です(上田弁護士の略歴につきましては、所属するアンダーソン・毛利・
(なお、伊藤眞教授のご略歴については、商事法務ポータルにおける2018年4月公開のインタビューをご参照下さい。)
本稿では、まずは、上田弁護士が事業再生の専門家としての地位を確立されるまでのご略歴をお伺いした上で、伊藤教授にも共演者としてご参加いただき、「プロが尊敬できる実務家像」について迫っていきたいと思います。
(なお、本インタビューは、2019年12月17日に琥珀宮(パレスホテル東京)にて開催されたものです(聞き手:西田章)。)
<上田裕康弁護士のご略歴>
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本日のインタビューは、4部構成で行わせていただきます。まずは、第1部として、上田先生に、どのようなキャリアを選択してきた結果として、事業再生の専門家としての地位を確立なされたのかをお伺いしたいと思います。その上で、伊藤先生にもご意見を伺いながら、「プロフェッショナルからも尊敬される、『実務家』としての仕事への向き合い方やキャリア選択とはどういうものか?」について考えてみたいと思います(以上、本稿)。
そして、次に、プロフェッショナルからも尊敬される研究者としての在り方についても議論した上で、残された時間で、最近の話題のトピック(コーポレート・ガバナンス論、テクノロジーの進歩及びワークライフバランス)についてもご意見をお伺いしたいと思います。
まずは、上田先生の学生時代に遡ってお話をお伺いさせてください。上田先生は東京大学法学部のご出身ですが、学生時代から法律家を志望されていたのでしょうか。
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私は、奈良市の東大寺学園という高校の出身です。私が在学していた当時は、進学校という感じではありませんでした。ただ、子供時代からお世話になっていた、ホームドクターの先生に憧れて、「医者の仕事はいいなぁ」という思いを漠然と抱いていました。高校の授業では理数系の科目も選択していました。
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なぜ、法学部に進学されたのでしょうか。
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こんなことを言うと「マザコン」と笑われてしまうのですが、母親は、私に役人になって欲しかったようです。「東大に行け」「そして、大蔵省に入れ」とも言われていました(笑)。立身出世ということではなく、社会のためになる仕事ということからそのようなことを言っていたと思います。私も子供心に社会に役に立つ仕事をしたいという気持ちを持つようになり、その言葉を素直に聞き入れて、大学受験では、旧一期校では東京大学の法学部に願書を出して、医学部については、旧二期校の東京医科歯科大学での出願でした。
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医学部志望から、法学部に変えることに抵抗はありませんでしたか。
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憧れていたホームドクターに「ぼくは社会の医者になる」と伝えて、2つの進路の折り合いを付けました(笑)。
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お母様が勧められたとおり、東大法学部に進学して、その願いを実現されたものの、その後は、公務員試験ではなく、司法試験に挑戦されたのですね。
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司法試験と並行して国家公務員試験も受験しました。司法試験には簡単には受からないだろうと予想していたので、大学4年次には、国家公務員試験の就職活動として官庁まわりにも行きました。
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なぜ役人の道を選ばなかったのですか。
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当時、役所には、「成績が超優秀な学生が就職する」というイメージがあり、自分の成績では難しいなと思ったのと、自分の性格からして、「上司に言われたことにそのまま従う」ような仕事は向いていないと思いました(笑)。
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法曹の進路としては、裁判官を考えることはなかったのですか。
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現役で司法試験に合格すると、裁判所からも誘っていただけるのですが、やはり、「役所勤めは自分には向かないだろうな」と思いましたし、「裁判官室で大人しく起案する」という職場の雰囲気は自分に合わないなと裁判所の実務修習を通じて感じました。
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検察官の仕事に対しても惹かれることはなかったのでしょうか。
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社会正義の実現ということでは魅力的な仕事だと思いましたが、刑事事件ばかりを扱うということには抵抗がありました。検察教官からは「法務省民事局への出向もある」と言ってもらえましたが、やはり、自分は自由人としての仕事のほうが向いていると思いましたね。
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弁護士志望に迷いはないとしても、法律事務所の就職先はどのようにして決められたのですか。
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私は、名古屋修習でしたが、当時、名古屋弁護士会(現在の愛知県弁護士会)に野球部があり、修習生も試合に参加していました。そして、大阪弁護士会との試合で、相手方チームの監督をしていたのが、宮﨑乾朗弁護士でした。世間話で「大阪で弁護士をしようと思っています」と口にしたら、宮﨑弁護士から「だったら、うちに来い」と言われて、「ほいじゃ、行きます」と言って就職が決まりました。
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随分とあっけなく就活が終わったのですね。今の修習生のように就職情報を収集して分析する、ということはなかったのですか。
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何も情報収集をせずに決めましたね。決めた後になってから、「宮﨑先生は短気で怖い先生だ」とか「宮﨑先生の事務所はタコ部屋だ」とか「不夜城だ」などと仕事がハードだという噂を耳にしました(笑)。お声がけをいただいたら、「はい、受けます!」と即答して、あとから苦労する、という、私の人生の原点がここにあるのかもしれませんね(笑)。
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入所後の仕事は、噂通りにハードだったのでしょうか。
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事務所が北新地の入口にあったのですが、毎晩日付が変わる頃まで仕事をして、それから、飲みに行く、という充実した生活でしたね(笑)。
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宮﨑先生についての「短気で怖い先生」という評判はどうでしたか。
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イソ弁にとっては、怖い先生でしたね。先生が証人尋問をした際に、想定していた答えから証人の回答が外れてくると、準備を担当した私が睨まれたことが思い出されます(笑)。今振り返れば、貴重な経験で、証人尋問のテクニックにも優れた弁護士で、学ぶところが多い先生でした。人生で起きることには無駄なことはないなと思っています。
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宮﨑先生は、民事介入暴力の専門家として著名ですね。
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暴力団関係者とか整理屋が相手方でも平気で交渉しており、その姿が依頼者からの信頼を集めていました。
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その後、3年経ってから上田先生は大江橋法律事務所に移籍なされていますが、これにはどのようなご縁があったのでしょうか。
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石川正弁護士や宮﨑誠弁護士と、勉強会を通じて知り合いました、まだ「石川・塚本・宮﨑法律事務所」という名前の事務所だった頃のことですが、個性のある優秀な先生方であり、何故か、非常に気が合って、事務所に来ないかとお誘いをいただきました。
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石川先生は、東京大学法学部の助手(行政法専攻)のご経歴をお持ちですね。
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はい。石川正弁護士が渉外関係の仕事をされていて、宮﨑誠弁護士が倒産関係の仕事をされていました。石川正弁護士は東大の助手時代から伊藤眞先生と親しくされており、伊藤先生とお知り合いになれたのも、大江橋法律事務所に移籍したおかげですので、そのご縁には感謝しています。
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5年後に留学に行かれていますが、もともとクロスボーダー案件に取り組みたいという目標があったのでしょうか。
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当時、唯一のアソシエイトだった国谷史朗弁護士が留学して戻ってきたので、次に私が行く、ということになりました。私は、あまり英語が得意ではなく、また、渉外事件についての具体的なイメージがなかったのですが、留学経験をすることには意味があると思って留学をさせていただきました。確かに、全く違った環境で、色々な国から来た人と付き合うということは良い経験でした。
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留学先に英国を選ばれたのに何か理由はあるのでしょうか。
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感覚的なものですね。特にアメリカに行きたいわけでもなかったので、歴史と伝統がある英国を選びました。
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仕事上のニーズからではないのですか。
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石川弁護士が競争法を扱っていましたので、留学に行くに際して、漠然と「競争法を勉強してみたい」とは考えていました。ただ、当時、それほど独禁法の事件が多かったわけではありませんので、留学が仕事に結び付いていたわけではないですね。帰ってからも、ほとんどが国内事件でしたし、事業再生関係の仕事を中心として行うようになると、ますます、英語の関係の仕事からは離れていきました。
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倒産/事業再生の事件に本格的に関わっていくのは、留学から帰国された後になるでしょうか。
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そうですね。留学前にも、破産事件や和議事件には関与していましたが、村本建設(1993年に会社更生手続の開始申立て)の更生管財人代理に選任されたことがターニングポイントになりました。
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当時、ゼネコンが会社更生を利用した先例もなく、ご苦労も大きかったのではないですか。
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苦労はありましたが、あたらしい道を切り拓いていく、というところに、事業再生のやりがいを強く感じました。現場に入り込んで、社員の方々と一緒になって会社を建て直していく。これは社会のために役立つ仕事である、と実感しました。
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「理論が実務を変える場面」伊藤眞ほか編『これからの民事実務と理論――実務に活きる理論と理論を創る実務』(民事法研究会、2019年)244頁以下には、村本建設の更生計画の策定には、理論的にも難しい問題があったとお書きになっていますね。
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更生担保権の扱いには非常に苦労しました。不動産が値下がりしつつある状況だったので、更生担保権として一定の金額を決めてしまうと、その後に担保目的物を処分しても、その金額を支払いきれないリスクが高かったのです。村本建設は膨大な数の不動産を保有していましたので、評価額を固定してしまうと後々の処分ができなくなることが予想されました。
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そこで、「処分価格連動方式」を考え出したのですね。
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はい、担保権については、一旦、財産評定で金額を確定させても、実際に担保物件が評定額よりも安い金額でしか売れなかったら、担保物の評価額と売却代金との差額分を更生債権にする、という計画を作って認可していただきました。
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前例がない扱いを行うことに異論はなかったのですか。
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管財人団で議論して、これしか更生計画を作る方法がないと判断して大阪地裁に相談したところ、大阪地裁は納得して受け入れてくれました。この方式については「違法だ」と批判する意見もあったと聞きましたが、その後、東京地裁の会社更生事件も含めて処分価格連動方式は実務で定着しました。
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その後、大型の事業再生に関与する仕事が続いたのですね。
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はい、大阪地裁では、1998年のコピーの三田工業の会社更生事件の管財人代理や、プリント基盤の設計・製造の富士機工電子の会社更生事件で更生管財人に選任していただきました。東京地裁では、2001年のマイカルの会社更生事件で管財人の瀬戸英雄先生の下管財人団の一員として働かせていただきました。
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事業再生でもっとも大きな案件は、2008年9月リーマンブラザーズの民事再生事件の申立代理人業務になるかと思いますが、これは、どういう経緯で受任されることになったのでしょうか。
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リーマンブラザーズの日本法人からは、サブプライム問題が顕在化する以前から訴訟事件の代理人をお受けしていました。2008年9月に、突如、米国でチャプター11の申立てという事態に発展したので、全世界で弁護士をリテインすることとなり、日本では、もともと訴訟代理人業務を受任していた私と私が当時所属していた大江橋法律事務所が事業再生にも強いということから受任に至ったものです。
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リーマンブラザーズほどの巨大事件の申立代理人業務となると、相当な量の仕事がありそうですね。
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そうですね。当時は、他の事件を受ける余裕はありませんでした。世界に衝撃を与えた事件で、ヨーロッパやアメリカとの交渉、海外に預けてある顧客資産の取り戻しとか、デリバティブの処理の問題とか、国境をまたいで多種多様な問題が存在していましたので、この案件は、クロスボーダーの事業再生案件に取り組む転機ともなり、大変に勉強になりました。また、留学から帰国後、それまでは、マルドメ(まるまるドメスティック、国内事件のことです。)の事件ばかりをしていましたので、久しぶりに英語の事件に関与することになりました。
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還暦を迎えて、「大江橋では、十分に仕事をさせていただいた」という思いがあったので、「卒業させてもらって、あたらしいことに挑戦したかった」という気持ちに尽きますね。
大江橋法律事務所にそのままいると、成長がそこで止まってしまうような気がしましたので、もう少し頑張ってみるかという気持ちで移籍したものです。
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あらたな挑戦のプラットフォームとして、アンダーソン・毛利・友常を選ばれた理由はどこにあるのでしょうか。
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リーマンブラザーズでもそうでしたが、大型の事業再生では、倒産弁護士だけで事件を処理できるわけではなく、ファイナンス等の他分野の専門家と連携してチームで対応しなければなりません。そうなると、大江橋法律事務所以上の規模がありファイナンス業務等の専門性も高い事務所にお世話にならなければ、一流の質を備えた仕事を続けることはできないだろうと考えました。
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ファイナンス業務に強く、金融機関のクライアントが多いことは、債務者側の代理人業務を受ける上で障害にならないでしょうか。
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事業再生案件に限っては、金融機関もコンフリクトが生じることをご了解していただけるので、特に不便は感じていません。
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現在は、どのような業務を中心になされているのでしょうか。
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今は、M&Aの買い手側を代理する仕事の割合が増えました。最近では、ディストレスと呼ばれる、経営が行き詰まった企業を対象とする買収案件の相談が徐々に増えてきている印象も受けます。
それ以外にも、知的財産関連や個人情報関連等もご相談いただくので、今の事務所に移籍したことで、業務の幅は確実に広がっています。成長のためには、環境を変えてみるということにも意味があると思います。
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上田先生と言えば、事業再生の債務者側代理人というイメージが強かったので、少し意外です。世間では、オリンピックが終われば景気が悪化する、という見方もあるので、今後は、債務者側代理人のご相談も増えてくるのかもしれませんが。
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債務者側からの相談は、会社の従業員と一緒になって「どうやって事業の建て直しを図るか?」を真剣に議論することになるので、その緊張した場面にこそ、やりがいを強く感じますね。
景気の悪化を願うことはありませんが、現在の事務所であれば、大型事件にも対応できる基盤があるので、上場企業も含めて、事業再生のご相談には応じさせていただいています。
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現在は、東京オフィスと大阪オフィスを兼務されているのですか。
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はい。たとえば、今週は、月曜日の夜に東京に入って、木曜日の夜まで東京にいる、というようなスケジュールです。
<プロフェッショナルから尊敬される実務家像>
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ここまで、リーガルマーケットにおいて、上田先生が事業再生を専門とする一流の弁護士としての地位を確立なされるまでの経緯を伺ってきましたが、ここで、話題を「プロから尊敬される実務家像とは何か?」について移していきたいと思います。
伊藤先生から見て、上田裕康という弁護士をどのように評価なされているかについて、お聞かせいただけないでしょうか。
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私は研究者なので、「お付き合いしたくない方とも、仕事上、どうしても付き合わなければならない」という場面はありません。事業再生の分野についても、私がお付き合いさせていただいている弁護士の先生方は、それぞれの個性は豊かですが、いずれも優れた実務家であることは共通しています。
上田さんについて言えば、その個性は、先ほどのお話しにも現れていましたが、大胆さ、ですかね。どんな不測の事態が起きたとしても動じない胆力が備わっていると感じます。
また、弁護士である以上は、依頼者の利益のために仕事をするのが基本であるのでしょうが、仕事をしていく上での公平感・正義感というのが際立っていると思います。それが、中立性を求められる管財人職にも合致して、上田さんの主張を説得力あるものとして、依頼者だけでなく、相手方との関係でも信頼関係を築くことに結び付いていると思います。上田さんの世代において傑出した存在であるが故に、大きな案件を受けると、皆が上田さんに付いてくるのでしょうね。
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管財人団のメンバーも、債権カットを交渉する相手方の金融機関も、「上田先生に言われたならば仕方がない」という納得感が生まれるのでしょうね。
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金融機関の皆様は経済合理性ということをとても大切にされていますので、そのように簡単なものではありませんが、そう仰っていただいて改めて考えてみると、私は、金融機関との交渉に苦手意識がまったくないことは事実です。事業再生の世界は、「説得できたら勝ち、説得できなければ負け」というものではありません。「本件をどこに落ち着けるのが一番公平なのか?」かということを考えて、金融機関のご意見も伺いながら、皆さんが納得できる、経済合理性のある結論に向かって交渉しています。
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債務者側代理人であっても、「金融機関に債権カットを呑ませることがゴール」というわけではないのですね。
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結局、全体の大きなビッグ・ピクチャーはこうですね、その結論を実現するために債務者として何をしなければならないのか、また、金融機関には何をお願いするのかという方針を立てるのが一番重要だと思っています。目先の細かいことばかりを主張していると、全体がまとまらない。どうやったら、ステークホルダーの皆さんのご理解とご協力を得て、この事業が再建できるのか?を常に考えながら仕事しています。
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失敗できない難しい案件は精神的にも厳しいのではないですか。
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考え続けて、夜も眠れない日々もあります。特に、管財人を務めている間は、「自分が失敗したら、この事業を潰してしまう、従業員が路頭に迷ってしまう」という資金繰りの切迫感、プレッシャーが大きいです。しかし、それだけに、それを乗り越えて再生させられたときのうれしさも大きくなります。
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「理論が実務を変える場面」には、リーマンブラザーズの民事再生手続に関連する別除権協定の失効に関する事件で、伊藤先生に協力していただいたというエピソードが紹介されていました。これは伊藤先生に(意見書ではなく)訴訟代理人としての協力を求めたのですか。
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そうです。私の弁護士人生でも、最高裁で弁論をできる機会はそうそうあるわけではありません。最高裁で弁論がある、というのは、原判決で負けていても、これを覆すチャンスがある、ということでもあります。最高裁で最も良い弁論をするためには、誰にお願いするべきか、と考えたときに、最初に頭に浮かんだのが、事業再生の分野で大変に長くお付き合いをさせていただいており、また、最も尊敬できる研究者である、伊藤先生でした。
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伊藤先生にも代理人を引き受けることへの支障はなかったのですね。
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まず、上田さん側の法律的な主張が正当なものであるという確信が持てたことが大前提として存在しますが、それを踏まえると、私のように、弁護士業務の経験が乏しい者にとって最高裁で弁論をすることは一生に一度あるかないかの貴重な機会でもありました。
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弁論といっても、上告又は上告受理申立書の理由書を起案する、という書面作成業務ではないのですか。
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最高裁では、「書面の記載のとおり」という陳述ではなく、実質的な内容のある口頭の陳述をすることができました。
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口頭陳述はどのぐらいの時間だったのでしょうか。アドリブなのですか。
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時間は15分ぐらいでしたね。弁論要旨の提出を求められたので提出はしましたが、その通りには読みませんでしたね(笑)。
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原稿を読み上げたのでは、口頭での陳述を得た意味がありませんので、弁論要旨に沿いながらも、壇上の最高裁判事に語りかける気持ちで弁論をしました。
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伊藤先生は、民事訴訟における口頭陳述の形骸化を問題視されていましたね。
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下級審では時間的な制約もありますが、最高裁については、口頭弁論をより活性化する余地があると思います。「傍聴席の当事者や関係者に対するパフォーマンスだ」と言われないためには、裁判所の側でも、事前提出の書面で一応の判断が形成されているとしても、弁論の内容次第では改めて熟考するという姿勢が伝わるようにしていただければ、代理人弁護士の側でもより積極的に対応する動機付けが与えられるのではないでしょうか。
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リーマンブラザーズの事件では、英国でも多数の訴訟が係属し、英国の最高裁でも弁論が行われていますが、英国の最高裁での弁論はテレビでライブ中継されていました。裁判官が当事者に質問をして、各当事者の代理人が口頭で答える、という実質的な弁論が行われています。日本の最高裁の弁論とあまりに違うので、大変に驚きました。
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日本では、実質的な弁論に耐えられる弁護士もまだ少ないかもしれませんね。
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口頭弁論を活性化するためには、弁護士の意識改革を待つのが本道かもしれませんが、裁判所の姿勢の変化が伝わらなければ、これまでのやり方を変える動機付けが与えられません。提出した書面の内容について裁判官から質問されたり、釈明を求められた場合に、代理人弁護士が「追って書面で」と対応したときに「書面の提出は不要です。書面に書いていることについて答えられる範囲で答えていただければ十分です」とまで言われたら、代理人弁護士も口頭での対応を迫られるのではないでしょうか。
先ほど上田さんからイギリスの最高裁の話がありましたが、アメリカの連邦最高裁についても、須藤典明教授(元 東京高裁判事)の論攷や浅香吉幹教授(東京大学)の講演録に紹介があり(須藤典明「連邦最高裁の弁論」判例時報1302号(1989)17頁、浅香吉幹「合衆国最高裁判所の現在―大統領および議会との関係を中心にー」東大法曹会報38号(2019)6頁)、英米を賛美するわけではありませんが、国民の司法に対する信頼を増すためにも、また国際化時代の開かれた司法という意味でも、良いところは学ぶべきであると思います。
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なるほど、弁護士は、より真剣に期日に向き合わなければならなくなりますね。ところで、最高裁での弁論は、伊藤先生、上田先生がそれぞれに弁論をなされたのでしょうか。
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最初に伊藤先生に陳述していただき、その後に私が引き継ぎました。
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最高裁で弁論する、となると、緊張してしまいそうですが。
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いや、まったく緊張しませんでしたね。
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上田さんは、日頃から、事業再生案件で、相手方との交渉とか債権者の説得をする真剣勝負をやっていらっしゃるからですよ(笑)。
もう一つ付け加えるとすれば、裁判所の側についても、判決理由の要旨の告知などについて国民の納得を増すような工夫が求められる時代になっていると思います。須藤典明教授の「民事裁判における判決理由の告知と実践的工夫」春日偉知郎先生古稀祝賀『現代手続法の課題』(信山社、2019年)229頁の中では、「判決理由の要旨を告知しなくてよいとするのは権威主義の残滓ではないか」(同234頁)という指摘がなされています。
(以下、後編に続く。)