◇SH1817◇インタビュー:一渉外弁護士の歩み(2) 木南直樹(2018/05/08)

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インタビュー:一渉外弁護士の歩み(2)

Vanguard Tokyo法律事務所

弁護士 木 南 直 樹

 

 前回(第1回)は、木南直樹弁護士が、東京大学法学部在学時代に、伊藤正己ゼミ(英米法)の先輩から「渉外弁護士」という職業の存在を教えられて、「渉外弁護士」を目指して司法試験を受験された経緯などをお伺いしました。今回(第2回)は、木南弁護士が、司法試験合格後に、米国系のインターナショナル・ローファームと提携していた田中・高橋法律事務所に入所されて、渉外法務の基礎を身に付けていかれた経緯をお伺いします。

 (聞き手:西田 章)

 

(問)
 司法試験に合格されても、裁判官や検察官への志望は湧きませんでしたか?

  1.    司法試験に合格したので、以前から考えていたとおり、クデール・ブラザーズの提携先である、田中・環・西法律事務所を訪問しました。前期修習の時期だったと思います。アポなしの飛込みです。虎ノ門にあった小さなビルの5階を訪ねたところ、「それは上の階です」と言われて、6階に伺ったことを覚えています。その6階部分が田中・環・西法律事務所の渉外部門のオフィスでして、事務所創設者、田中治彦弁護士の子息、田中和彦弁護士(16期)と、同期の高橋勲弁護士(16期)とが執務をされていました。田中・高橋両弁護士とも、「クデール」という情報から同事務所に辿り着いた私の訪問にはとても驚かれていましたが、丁寧に対応して頂き、親切にお話をして下さいました。

 

(問)
 そのまますんなりと採用が決まったのでしょうか?

  1.    当時、田中弁護士と高橋弁護士は、渉外部門を立ち上げたばかりで、新人弁護士の採用はまだ考えていなかったと思います。それでも、「提携関係にあるクデールには、チャーリー・スティーブンスというニューヨーク弁護士がいる。まだ30歳になったばかりの若さだが、クデールでアジアグループを立ち上げ、香港やシンガポールのオフィスも統括しているので、今度、日本に来たら会ってみなさい」と提案してくれました。
  2.    それから、半年くらい経ったころ、高橋弁護士から電話があり、「チャーリー・スティーブンスが今、日本にいるので会ってみないか?」と言われて、その翌日ステイーブンス氏と会うことになりました。

 

(問)
 木南先生は、当時から英会話がお上手だったのでしょうか?

  1.    いえいえ、当時の私の英会話能力は使い物になるようなレベルではありませんでした。渉外弁護士を志していたわけですから多少英会話の勉強はしてはいましたが。一方、チャーリーは、ハーバード・ロースクール卒業後、東大にも留学しており、相当日本語を話せました。はっきりと覚えてはいないのですが、英語、日本語のチャンポンで会話したと思います。

 

(問)
 チャーリー・スティーブンス弁護士と話しをして、採用が決まったのですね?

  1.    私が田中・高橋両弁護士から採用のオファーを頂くのはもう少し後のことです。私の採用に到るまでには次のような背景があったと推察します。
  2.    その時点までの田中・環・西法律事務所とクデール・ブラザーズとの関係は、相互に依頼者・案件を紹介しあうという提携関係でした。それが、当時、クデールのアソシエイトを田中・環・西法律事務所に派遣する話しが持ち上がっていました。そうなると、田中・高橋両弁護士が使用していた6階部分では執務スペースが足りなくなることが予想され、結局は近所の新築ビルに引っ越しをすることになりました。田中・環・西法律事務所の「分室」というわけにもいかず、田中・高橋両弁護士は、同事務所を離れて、田中・高橋法律事務所を新設することになりました。この業務拡大に伴い、陣容の拡充も必要になり、私がアソシエイト弁護士第1号のオファーを頂くことになったわけです。

 

(問)
 渉外業務は、司法研修所では学べない分野だと思いますが、オン・ザ・ジョブ・トレーニングで仕事のやり方を学んだのでしょうか?

  1.    その通りです。振り返れば、新人渉外弁護士としての教育という面では、私はとても幸運だったと思います。当時は、外国通貨の取引には、外為法により厳しく規制されていた時代です。そういう状況の中でも、国際金融業務は船舶ローンとかいわゆるインパクトローン(和製英語――使用目的に制限のない居住者向け外貨建てローン)の業務が外資系商業銀行を中心に少しずつ芽吹き始めていました。当時、邦銀にはまだこの分野のノウハウの蓄積が少なく、東京では外資系の商業銀行が先導し、邦銀が後を追うという状況でした。外資系商業銀行のこれら国際金融業務の展開に照準を合わせる形で、田中・高橋法律事務所はクデールからのアソシエイトを受け入れることになったのです。クデールから、これまで香港でこの分野の業務を手掛けていたジョージ・シェンク弁護士が東京に派遣されてきました。今では、外弁法により、外国の弁護士が日本で活動することが認められていますが、その施行の10年も前の話です。彼は、肩書は田中・高橋法律事務所の「トレーニー」ですが、ニューヨーク・香港ですでに4、5年の実務経験を有するアソシエイトでした。田中・高橋法律事務所では、シェンク弁護士が中心になって、外資系商業銀行が手掛けるローンのドキュメンテーションを受任するようになりました。結局、そのジョージが、私に国際金融業務のイロハを手取り足取り教えてくれることになったのです。

 

(問)
 1年生弁護士の頃から国際金融業務を担当したのですか?

  1.    田中弁護士は訴訟やコーポレートの案件がほとんどで金融には無縁でしたし、金融関係の仕事もされていた高橋弁護士も、顧問先である邦銀をはじめ、すでにご自身の仕事で忙しくされていたので、ジョージには、案件を一緒に手掛けることのできる日本法のリソースは1年生弁護士の私だけしかいなかったんですね(笑)。

 

(問)
 金融業務にすぐに馴染むことができましたか?

  1.    日本法についての問題点を、私がリサーチ、分析したり、契約書中の該当条文を日本法の観点からチェックしたり、日本法について英文でメモを書く、といった作業が中心でしたが、最初は、自分の書いたメモなど、全部、ジョージに書き直されました。残っていたのは、宛名だけでした(笑)。ただ、ジョージの日本法に関する質問に対して、私が下手な英語で回答する。ジョージから「そんな理屈では欧米人には理解できない」と反論されて、私がさらに説明を重ねる、という作業の繰り返しです。今思えば、毎日のようにこんなやりとりをしていたことが私の比較法的発想をするための訓練となり、渉外弁護士としての基本を叩き込まれる絶好の機会だったと思います。本当に根気よく私に付き合ってくれたと、ジョージには今でも深く感謝しています。

 

(問)
 英語力はそのやりとりの中で磨かれたのでしょうか?

  1.    ジョージからは、特に英語のライティングを徹底的に訓練されました。手掛ける案件は、契約準拠法こそニューヨーク州法でも、東京が拠点として行われる金融取引ですから、当然種々の日本法の論点が出てきます。ところが、日本法のリソースが私しかいなかったという事情があったからこそ、私は徹底的な「教育」を受けられたのだと思います。

 

(問)
 田中・高橋では、渉外業務だけを担当されたのでしょうか?

  1.    いえ、田中和彦弁護士は、亡くなられた田中治彦弁護士の顧問先のかなりを引き継いでおられたので、それらの顧問先の純粋国内案件も受任していました。ですから、私も、留学前は、訴訟事件も含めて国内案件もお手伝いさせて頂きました。商品取引の信用取引から生じた顧客への債権の取り立てや、商品取引を担当する従業員による不正事件などもあり、規制法と不祥事が絡む事件の「走り」みたいな事件です。

 

(問)
 田中・高橋には、他にも弁護士がいらっしゃったのでしょうか?

  1.    田中・高橋両弁護士にいろんな案件でご指導頂きました。お二人はお人柄も仕事のやり方も全く違い、いろんな面で大変勉強になりました。
  2.    また、親類事務所にあたる「田中・環・西法律事務所」(事務所名はのちに「環・西」、「西・井関」、「西綜合」と変遷)の大先輩の諸先生方にもいろいろご指導頂きました。裁判官出身の西廸雄弁護士には、ご一緒させて頂いた案件は少なかったものの、厳しく貴重なご指導を頂きました。また、のちに最高裁判所判事になられた環昌一弁護士は、「反対尋問の名人」と呼ばれていた弁護士です。事件をご一緒する機会はありませんでしたが、お話を伺うだけで身が引き締まる思いだったことを覚えています。民事訴訟法の権威であり、司法研修所の所長も務められた鈴木忠一弁護士も客員としていらっしゃいました。鈴木先生には、案件の進め方について、相談に乗って頂いたことを覚えています。なかでも、一番多く案件をご一緒して頂いたのが、裁判官出身の井関浩弁護士です。本当に色々な方々からご指導頂き、実に恵まれた弁護士としてのスタートだったと思います。
  3.    また、その頃、忘年会は両事務所合同で築地(当時)の『藍亭』でやっており、名だたる大先生方の末席に座り、高話を拝聴するのが慣例でした。もちろん、問われない限り、私から発言することはありませんでした。プロフェッショナルとしての姿勢などについてのお話が伺え、大変参考になりました。

 

(問)
 木南先生の後輩にも優秀な弁護士が集まったのでしょうか。

  1.    私の2期下には、渥美博夫弁護士(現在は渥美坂井法律事務所・外国法共同事業)がいます。渥美弁護士は、のちに私と同じ金融分野を専門とするようになりますが、優秀で、当時から顧客の立場に立った姿勢が印象的でした。また、数年後に入って来た、伊佐次啓次弁護士と山下淳弁護士は、その後、クリフォードチャンスの東京オフィスに合流することになります(現在は、ゾンデルホフ&アインゼル法律特許事務所)。また、現在、シティユーワ法律事務所の後藤出弁護士やクリフォードチャンス法律事務所で活躍する岡本雅之弁護士も、私が留学から戻って来た後に、田中・高橋に入所してきました。他にも後輩に多くの俊秀がいました。

 

(問)
 これらメンバーがそのまま事務所に残っていたら、すごい事務所になってそうですね。

  1.    田中・高橋両先生には、本当にお世話になり、良い教育を受けさせて頂いたと思っています。そのお世話になった田中・高橋法律事務所がなくなってしまったことはとても残念です。
  2.    それにはいろいろ原因があったと思います。口幅ったいことを言うようですが、事務所としての永続性や発展性を考えるなら、「誰と、どういう法律事務所を作っていくのか?」という点から発想することが肝要です。当時の田中・高橋のパートナー間にはこの点についてのコンセンサスが欠けていたと思います。

(続く)

 

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