船舶アレストと戦時徴用訴訟(5)
―商船三井船舶差押え事件に鑑みて―
大阪大学大学院経済学研究科非常勤講師
西 口 博 之
IV.中国との戦時徴用紛争
(1) 紛争の争点(問題点)
今回の商船三井船舶の差押え事件で問題となったのは、本件訴えが対日賠償請求権の放棄を盛り込んだ1972年の日中共同声明に違反するとの問題以外に、裁判中にも争点となった「時効」の問題である。
中国における債権の時効期間については、民法通則第135条で2年と定められており、1970年の東京地裁判決での提訴では、時効を理由に請求が棄却されている。
しかし、1987年1月に施行された中国の民事訴法「民法通則」では、同法の施行後2年以内の提訴に限って、最高人民法院(最高裁)が事実上の時効停止が布告されている。
これは、1988年1月26日最高人民法院「中華人民共和国民法通則」の貫徹執行に関する若干の意見(民法通則意見)により、1987年1月~1988年12月提訴の訴求が可能となったことに基づく[i]。
すなわち、中国政府はこの「意見」のなかで、訴訟時効の計算方法につき、民法通則施行以前に権利の侵害を知るか、知るべきであったものについて、民法通則施行後に人民法院に訴訟を提起する場合の時効期限は、1987年1月1日(民法通則施行日)から起算すると定めた。
更に、訴訟時効規定としては、その後も2008年9月1日「民事事件審理の訴訟時効制度適用の若干問題に関する最高人民法院の規定」[ii]が施行されており、ここでは物権的請求権は訴訟時効にはかからないことに加え、債権的請求権でも投資価値に基づき発生した払い込出資金請求権は時効にかからない(第1条)等、中国国内で会社を設立した際の払い込み出資債務については、訴訟時効により債務がなくなることはないとの規定があり、その請求権は永久に存在することになる。
中国での投資の場合、その撤退についても民事訴訟法第231条で厳しい制限規定があり、注意が必要であるが、何よりも上述した中国の法制度と我が国法制の相違に注目するべきである。
この民法通則意見とは、中国の民事法の通則を定める最高人民法院(我が国における最高裁の存在)による司法解釈で、法的根拠を有する有権解釈として下級の人民法院を拘束する。
この最高人民法院の「意見」或は「規定」は、他の法律分野にもあり、海商法の場合には、例えば、「船舶の衝突に及び接触事件の審理に際する財産の損害賠償に関する最高人民法院の規定」(1995年8月18日実施)、「船舶の衝突に関わる紛争事件の審理に際する若干の問題に関する最高人民法院の規定」(2008年5月23日実施)、「海事賠償責任に関わる紛争事件の審理に関する最高人民法院の若干の規定」(2010年9月15日実施)、「船舶油濁損害賠償事件の審理に関する最高人民法院による若干の規定」(2011年7月1日実施)等がある[iii]。
これらの規定は、我が国の場合は、立法府が作成する「法律」の解釈となる行政府(省・庁)が作成する「法令・省令」に相当し、その解釈が正しくない場合に司法解釈が行われ三権分立が機能しているが、中国の場合には最初から法律解釈に司法判断が先行し、一党独裁で三権分立が定かでない政治体制の下での司法判断ゆえに法の朝令暮改・不公正な判断の懸念が残る。
今回の商船三井船舶の戦時徴用船事件が、商船三井側が40億円を支払ったことで解決したとしても同様のケースの再現がないとも限らず、現に最近の新聞報道によれば、天津での同様ケースの提訴が噂されている[iv]。このケースが上述時効期限の1988年末までの提訴であるかどうかは別にしても、今後新たな司法解釈が出て例外を認めるようなリスクがないわけではない。
(2) 国際ルールに基づく解決
平成26年5月14日の日本経済新聞報道では、我が国政府は13日の閣議で、中国政府が商船三井の船舶を差押さえた問題を巡っての衆議院議員からの質問主意書に対し「現時点で国際司法裁判所(ICJ)に提訴することは考えていない」との答弁書を決定したとのことである。
最近の我が国に対する中国の戦時徴用問題に関する民間企業を巻き込んでの紛争に関しては、もともとは、日中共同声明に関連して個人並びに民間企業に対する責任の存在を明確にしなかったためにその付けが今になって現れてきているに等しいと言える。
この個人請求権については、当時もまたその後も話題になったようだが、尖閣諸島の帰属問題と同様に棚上げとなった様である。しかし、いまここで本件の争点である戦時徴用問題が個人・民間企業の問題であるか否かに加えて国際法上問題があると考えられる中国の法制問題について問題の先送りをするよりも、むしろ国際司法の場で検討してもらうことが我が国にとって望ましいのではなかろうか?
そうでなければ、民間企業としては、今後中国との商取引を推進するにつけ、あるいは中国に投資をして進出するには、あまりにも不安が大きい様に思える。
もっとも、このチャイナ・リスクは、国際商取引のルールとして援用されている契約の中で、過去の個人請求権に係る紛争については免責である旨の規定を確実に規定することで回避できるが、それも力関係或いは熾烈な国際競争のなかでは不可能な場合もある。
[i] 村上幸隆「中国ビジネスQ&A」『JC Economic Journal 2008/12』参照。
[ii] BTMU China Weekly(September 22nd ,2010)並びにJetro北京センター資料(2008年8月21日公布「最高人民法院による民事案件の審理への訴訟時効制度の適用に関する若干の問題についての規定」)を参照。
[iii] 張永賢「中国海商法における最新動向について」『季刊・企業と法創造』第33号(2012年)273以下。森川伸吾「中国の渉外関係法律適用法(国際私法)に関する司法解釈」『国際商事法務』第41巻第3号(2013年)333頁以下。
[iv] 平成26年4月24日Sankei Biz(http://www.sankeibiz.jp)参照。天津市の裁判所に提訴を予定しているのは、1930年代に中国の海運会社「北方航業」で4隻の船舶を日本に徴用され400億円を超える損害があるとのこと。