◇SH0254◇銀行員30年、弁護士20年 第10回「あるメッキ工のこと」 浜中善彦(2015/03/13)

法学教育そのほか未分類

銀行員30年、弁護士20年

第10回 あるメッキ工のこと

 
弁護士 浜 中 善 彦
 
 

 4回目の転勤で、企画部付きで株式会社富士ナショナルシティ・コンサルティング(FNCC)に出向になり、30代前半の約4年3か月コンサルタント経験をした。同社は、当時の富士銀行とシティバンクの合弁の経営コンサルティング会社として設立され、当時、日経新聞に、初の民間大型経営コンサルティング会社誕生と大きく報道された。
 

 同社社員は、日本能率協会、日本生産性本部出身のコンサルタントのほか、アメリカ人コンサルタントなどからなる約30人の会社であった。富士銀行からは、社長、業務部長のほか、コンサルタント1名が出向していた。私の前任の初代コンサルタントは、公認会計士試験合格者であった。
 

 同社は、コンサルタントについてはクラスター制をとっており、4人1組で11クラスターでマーケティングと業績責任を負い、会社に対して管理費等の負担を負うグループ採算性をとっていた。私は大藤クラスターに在籍し、マーケティングと経営計画、財務等を担当した。クラスター長の大藤氏は元一部上場企業の課長当時、業績悪化のためリストラを実施する際の責任者を務め、それが一段落したので、自らは責任をとって退職し、経営コンサルタントになったということであった。他の2人は、日本生産性本部出身のシステムエンジニアであった。
 

 大藤クラスターは、主として人事制度の設計とシステム設計がメインのグループであった。システム設計はもっぱらシステムエンジニア2人が担当した。私は、担当の事業計画作成のほか、人事制度設計のための社員インタビューには欠かさず同席した。人事制度設計の場合、社内の人事・賃金規定の調査のほか、トップから一般社員までかなりの人数の社員に対して個別にインタビューをして、会社経営に対する意見や人事や賃金についての各人の希望や意見を聞くのである。いずれの社員もそれぞれの意見や感想をいうほか、たいていは、自らの処遇については不満を述べるのが通例であった。
 

 しかし、当時の星電器製造(現ホシデン)のあるメッキ工の場合だけは違っていた。年のころは50代前後だったと記憶する。染料で汚れた工員服を着た一般社員であった。痩せて顔色もよくなく、両手にも染料が染みついていた。彼の場合は、いくら聞いても会社に対する不満をいわないのである。
 彼は次のようにいったのである。 
 私は古橋さん(当時社長)がリヤカーを引いていた社員12人ほどの時代から古橋さんの下で仕事をしてきました。私の仕事はメッキです。だから、毎朝起きたら、その日の天気によって、材料の調合をどうしたら一番仕上りがいいかを考えます。私たち家族4人は、贅沢はできませんが、これまでちゃんと生活してこれました。私は、古橋さんにはいい星がついていると思います。今後もずっと古橋さんについていくつもりです。
 私は、これまでのインタビューでこれほど感銘を受けたことはなかった。私の人生観を変えるほどの、見事な人生観だと今でも忘れられない。
 
以上
 
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