法のかたち-所有と不法行為
第二話 社会関係性がない所有権概念は法概念たりうるか
法学博士 (東北大学)
平 井 進
1 自由概念と所有概念
第一話で土地・領域支配における「絶対的」な観念性について示したが、そのような観念性が生ずるのは何故であろうか。それが自由の観念と結びついていたと見るとき[1]、次の例が参考になる。14世紀の註釈学派のバルトルスは次のように述べている。
- ドミニウムとは何か。それは、法が禁じていない限り、有体物を完全に処分するius(法関係)である。[2]
(一般にiusは「権利」と訳されているが、後述の理由により採らない。)これは、東ローマのユスティニアヌス帝によって編纂された法的な学説集であるDigesta(533年)の中の自由に関する次の定義と形式的に対応している。
- 自由とは(実力または)法によって禁じられていない限り、各自が自分の気に入ることをなす(自然的)能力のことである。[3]
自由に関して、それを制約するのは法であって、かつ法だけであるとすることは、自由の定義としては意味をもつ。しかし、法概念であるドミニウムに関して、それを制約するのが法であるとすることは、そこで法が何を禁じているのかを明らかにしなければ、法の定義として意味をなさない。実際に問題であるのは、法が禁止している領域である。
バルトルスの時代の北イタリアは、前述のように商業的な発展が始まっていたが、上記のドミニウムの観念性は、第一話で述べた封建的な社会関係に対抗して自由を求める身分的モーメントによる概念であったと見られる。
ドミニウムの「絶対的」な観念が自由の観念と結びついていたとすると、他者の自由はどうなるのであろうか。ローマの法格言には、「他人のものを害さないようにして君自身のものを利用せよ。」[4]というように、人がなしうることが他者との関係で制限されることをいうものがある。このようにして見ると、上記のドミニウムの規定の特徴は、自己の自由について語るが、それによって影響を受けうる他者の自由については語らないという構造であることが分かる。実際には、その他者とは封建関係における上位者のことであり、ドミニウムにおける「法が禁じていない限り」とはそのような関係を指していたと見られる。それ故、ドミニウムの法作用としては、その関係をどうするかが問題である。
[1] 参照、K. クレッシェル(和田卓朗訳)「「ゲルマン的」所有権概念説について」『ゲルマン法の虚像と実像-ドイツ法史の新しい道』(創文社, 1989)281頁。
[2] Bartolus de Sassoferrato, Commentaria in primam Digesti novi partem, Lyon, 1550. Note 4 to D. XLI. 2. 17.
[3] Digesta.1, 5, 4. pr. (Florentius).(括弧内は編纂時に追加されたものとされる。)なお、この文はストア派に由来するとされる。クレッシェル前掲323頁註46。
[4] 参照、柴田光蔵『法律ラテン語の世界-ローマ法へのアプローチ-』(大学教育出版, 1887年)299-300頁。