◇SH1824◇インタビュー:一渉外弁護士の歩み(4) 木南直樹(2018/05/10)

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インタビュー:一渉外弁護士の歩み(4)

Vanguard Tokyo法律事務所

弁護士 木 南 直 樹

 

 前回(第3回)は、木南直樹弁護士が、米国のジョージタウン大学のロースクールのLL.M.に留学されて、統一商法典(UCC)を学んで、法令のユーザーフレンドリーな分かりやすさに驚きを覚えたことや、卒業後に(まだ外国人弁護士が受験することが珍しかった時代における)NY州司法試験受験の苦労話などをお伺いしました。今回(第4回)は、米国の法律事務所のNYオフィスでの研修時代のお仕事の様子と、日本に帰国されてから、どのような金融法務・渉外法務に携わって行かれるようになったかについてお伺いします。

 (聞き手:西田 章)

 

(問)
 次に、NYでの研修の様子についてお伺いしたいと思います。海外研修では、お客さん扱いされ、時間をもてあます日本人弁護士も少なくないと聞きます。木南先生は、クデールのNYオフィスでは、実働をなされていたのでしょうか。日本人弁護士が携われるような日本企業の案件はあったのでしょうか。

  1.    私は、幸運にも、様々な案件に関与させてもらいました。たとえば、アジアの航空会社が、アメリカの航空機メーカーから航空機をまとめて購入するための航空機ファイナンス案件がありました。日本企業は関わっていませんが、購入した飛行機が日本への航路にも使われるために、日本法が関わってきます。つまり、買主・借入人である航空会社にデフォルトが発生した場合に、どうやって債権者である銀行団が日本で対象物たる航空機を差し押さえるのか、という法律問題を検討しなければなりませんでした。もちろん、クデールのNYオフィスには日本法の文献がありませんので、東京の事務所(田中・高橋)と連絡をとって、リサーチをしたことを覚えています。
  2.    これ以外にも、アメリカの製鉄会社のM&Aなどにも関与させていただくことができたので、研修中に暇をもてあますということはありませんでした。

 

(問)
 研修時のご経験は、その後のキャリアにも役立っていますか。

  1.    私がNYオフィスで研修していた頃に一緒に仕事をした東アジアチームのアメリカ人アソシエイトたちの多くは、その後、クデールを離れて他の法律事務所や企業、国際機関に移り、相応のポストに付いて活躍するようになりました。こうして人脈も広がりました。

 

(問)
 それでは、研修を終えて、日本に戻ってこられてからの仕事の様子をお伺いしたいと思います。留学から戻る時には「ファイナンスロイヤーとして生きていく」という専門分野を固められたのでしょうか。

  1.    はい、留学前、前述のジョージ・シェンク弁護士と東京の金融市場で芽吹き始めていた国際金融業務に携わり、将来は国際金融業務を専門とするファイナンスロイヤーになってみたいという漠然とした希望を抱いて留学に臨みました。クデールのNYオフィスでの研修で航空機ファイナンス案件にも関わったりして、「やっぱりファイナンスロイヤーになろう」というかなり明確な意志をもって帰国しました。
  2.    帰国した時には、田中・高橋では、クデールからアメリカ人のアソシエイトが来ていて、NY法準拠の船舶ファイナンスも取り扱っていました。

 

(問)
 船舶ファイナンスは銀行側の代理人を務めていたのでしょうか。

  1.    はい、ほぼ銀行団の代理人です。稀に、外国の船主の代理する案件もありました。ただ、これら船舶ファイナンスは、主に他の弁護士が担当していましたので、私は手助けする立場でした。

 

(問)
 留学後、木南先生は、どのように依頼者を開拓して来られたのでしょうか。金融機関は、当時から顧問弁護士が定まっており、若手弁護士が新規に参入することが難しいという印象がありますが。

  1.    ひとつの例としては、私の大学時代の友人が国際的に業務展開をする邦銀に勤務していたので、そこの法務室を紹介してもらい、案件の依頼を受けるようになりました。もちろん、最初から大きな案件を依頼してもらえるわけではありません。最初の依頼は、「外資系の顧客に使いたいので、当行で用いている日本語の書式を英訳してもらいたい」というものでした。この依頼に対し、タイムリーに成果物を提出したところ、その内容と仕上げるスピードにとても感謝されました。すぐに次の依頼がありました。これは、日本法のチェックの案件でした。これにもすぐに対応しました。

 

(問)
 レスポンスが早かったことが、銀行からの信頼を得られた理由だったのでしょうか。

  1.    そういう側面はあったと思います。当時、銀行にはたくさんの顧問弁護士はいましたが、国際金融取引の分野では、戦後、準会員のアメリカ人弁護士によって創設された老舗渉外法律事務所の日本人パートナーH先生が日本の弁護士で唯一のバンキング・ロイヤーと言ってもいい存在でした。当時の主な仕事は世銀やアジア開銀など国際金融機関向けの無担保円建てローンのドキュメンテーションでした。ただ、H先生がほぼ独占しており、案件を抱え過ぎていて、一部にレスポンスが遅くなっていた案件もあったようです。銀行側も、フットワークが軽い若手弁護士を求めていたのだと思います。

 

(問)
 時代背景としても、若手弁護士にチャンスを与えるようなものがあったのでしょうか。

  1.    そうですね。1980年代前半に、政府の施策により円建ての金融取引が拡大してゆく過程で、当時、若手だった我々世代の弁護士に機会が回ってきました。
  2.    それまでは、クロスボーダーの金融取引は、国際金融機関向けの円建てローンや円建て外債を除き、ドルベースで行われていましたが、1980年の外為法の改正により、円の国際化が始まりました。それまでは、無担保で円を貸し出せる先は、国際金融機関に限定されていたものを、1982年に、それを外国政府等のソブリンにも広げる規制緩和がありました。その第1号案件が、インドネシア中央銀行向けの無担保円建てローンです。

 

(問)
 そのソブリン向け円建てローンの第1号案件に日本法弁護士として関与されたのですね。

  1.    はい。日本語書式の英訳等でつながり、その後度々ご依頼を頂いていた銀行から呼ばれて、担当の国際営業部の課長の面接を受けました。もちろん、それまでの仕事の窓口だった法務室の推薦ですが、私を面接した担当部の課長が、私が留学前にシェンク弁護士を手伝っていた船舶ファイナンスの案件の担当者であり、同氏と面識があったことも幸いしました。「相当ディマンディングな仕事だぞ!」と脅すような口調で言いながらも、いたずらっぽくにやりとして「君、できるかい?」と尋ねられました。私は、興奮を抑えながら、「やります!」と即答したのを覚えています。

 

(問)
 先例がない中で、どのようにドキュメンテーションを行なったのでしょうか。

  1.    インドネシア中央銀行側には、アメリカ系の法律事務所がリーガルカウンセルに就いていました。同アメリカ系法律事務所は、当時所属弁護士をジャカルタの中銀本店にジェネラル・カウンセルとして出向させるなど、ハウスカウンセル的な存在でした。中銀は、それまでにも何度もドル建てのローンを借り入れています。銀行団の弁護士は変わっても、中銀側は一貫してそのアメリカ系法律事務所を使っていましたから、何度にもわたる交渉で積み上げてきたドキュメンテーションがありました。中銀側は、それをベースすることを要求し、日本法(円建てローンの契約書の準拠法)特有の変更以外は容認しないという姿勢でした。ですから、私の仕事は、その前例のドル建てローンの契約書をコピー&ペーストするところから始まったわけです。先例は、長年の交渉の成果として、考えられる論点ついては一応網羅された契約書ではありましたが、複数の法律事務所の関与による妥協の産物でもあり、契約書全体が整理され首尾一貫したドラフティングとは思えませんでした。

 

(問)
 そのような画期的な第1号案件が、ボスを経由するのではなく、まだ留学帰りから間もない木南先生ご自身に依頼がなされたのでしょうか。

  1.    はい。それでも、帰国後丸2年は経っていました。弁護士登録後8年目になったばかりのころです。前にも話したとおり、この邦銀との関係は友人を通して法務室に紹介されたことがきっかけでしたし、その後の案件の依頼も私に直接ありましたから。依頼者のニーズに適確に対応し、レスポンスが早かったことが、銀行内での評価を高めてくれたのだと思います。
  2.    そして、第1号案件を受任したことで、その後も、同じ銀行から同種案件の依頼が続きました。また、1983年には、生命保険会社も、リードマネージャーとして円建てローンをアレンジすることが許されるようになったので、前述の邦銀の紹介で、生命保険会社がリードマネージャーになった円建てローンの第1号案件についてもご依頼いただくことができました。

 

(問)
 第1号案件を担当したことが大きな信頼とマーケットでの評判につながったのですね。

  1.    円建てローンは、貸出先をさらに拡大し、国際機関、ソブリンに続き、民間企業向けにも解禁されました。色々な民間企業が貸出先として検討されましたが、結果的には、民間企業向けの円建てシンジケート・ローンの第1号案件の貸出先は、アメリカのエンターテインメント系事業者となりました。当時、米ドルの金利が高く、日米の金利には相当の開きがあったので、ロイヤリティ収入など円建ての定期的な収入が期待できるアメリカ企業にとっては、その収入で為替リスクがヘッジできるので、日本で円建ての借入れをするメリットがあり、ニーズがありました。
  2.    この案件では、貸出先であるアメリカ企業の社内弁護士であるジェネラル・カウンセルが交渉相手で、銀行団を代理して、アメリカで本格的な交渉を担当しました。

 

(問)
 依頼者層や案件の幅も広がっていったのでしょうか。

  1.    各種の第1号案件を担当したために、面白い案件の相談が次々と舞い込んできて、大手の銀行や生命保険会社のほとんどから依頼を受けるようになっていました。もちろん、これら金融機関は複数の外部弁護士に並行して依頼していましたが、私自身も、複数の銀行・保険会社の依頼を受けていました。
  2.    また、今では、コンビニエンスストアのフランチャイズチェーンを運営する国内大手企業も、当時は、まだアメリカの企業からライセンスを受けるライセンシーにしかすぎず、そのアメリカのライセンサーは、この日本のライセンシーから安定的にロイヤリテイを受け取る立場にありました。このアメリカのライセンサー企業が、この日本からの安定的な円建てのロイヤリテイ収入を担保にして資金調達する案件にも関与しました。

(続く)

 

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