◇SH3388◇高校生に対する法教育の試み―契約法の場合(3) 荒川英央/大村敦志(2020/11/17)

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高校生に対する法教育の試み―契約法の場合(3)

学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央

学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志

 

 その1その2までで、本稿の趣旨、授業の概要の紹介、外形的な観察までを終えた。続いて、内容上の観察に移ろう。

 

第3節 内容上の観察――契約法を教えるポイント

(1) パートナーシップ関係をどう位置づけるか

 高校生がパートナーシップ関係について理解するのは難しいと思われる。もっとも今回の参加者に限って言えば、パートナーシップ関係について「理解のある」生徒が少なくなかったように思われるし、セミナーで話題にされたのはパートナーシップ関係の具体的な態様ではなかった。だから、ここではパートナーシップ関係の実態を理解するのが難しいということが問題なのではなく、それを法的に評価しようとする立ち位置を理解するのが難しいように思われるということである(他方で、生徒たちはその立ち位置にそれほど難なく立てたように感じられた部分もあり、実際のところはよく分からないところがある)。

 今回取り上げられた平成16年判決の事実関係の詳細や当事者の主張はひとまずおくとすると、パートナーシップ契約の当事者が望んだのが法律婚や内縁によって生ずる効果を発生させないことだということは、当事者の関係がゼロであることを意味しないのは言うまでもない。むしろパートナーシップの当事者間の関係は婚姻に準ずる(したがって内縁の効果が生ずる)と法的に評価される可能性がなくはないものである。少なくとも当事者はそうした男女関係を、他方しかし法的効果が生ずることのないかたちで、創り出そうと望んだと考えられる。厚みのある継続的男女関係である(「深い・浅い」ということばは、それらがもちうる意味を念頭に置いてあえて避けている(「厚い・薄い」も避けている))。

 とすると問題になるのは、新しい契約で創り出された「このような関係」を解消することないしその契約関係が継続することへの期待を害することをめぐって法的に保護されるべき利益があるかどうかになるはずである。そうであるなら、セミナーでは、訴訟になったのはX側の「気持ちが変わったから」という高校生の発言に基づいて話が進んだが、心変わりしたのはむしろ関係を解消したYの側だと言うこともできそうである。法律婚の男女でなく、自由意思でパートナーシップ関係を結んで暮らしている男女を「友だちと同じような感じで」と評したひとりの高校生のことばだけを鵜呑みにしないとしても、パートナーシップ契約の当事者間の関係をどうイメージするかは、法律に規定が置かれていない無名契約にどのような法的評価を与えるかを左右する重要なことがらになると考えられる。

 セミナーのテーマにそくしてさらに言うと、それは制度とは異なる人格的な関係を創り出そうとする契約を法的にいかに性質付けるかについて高校生がどのように考えるか、彼/女らの思考過程のレベルで少なからず影響力をもつことになるのではないかということである。そうだとすると、具体的に提示されたのが、法的保護の対象にはならないと考えるべき恋愛関係でもなく、婚姻に準ずるものとして法的保護の対象にされてきた内縁に近いでもなく、そうではなくて人間関係の厚みと性質の点では夫婦とほぼ同等と評価されうるような人格的な関係であって、それが制度と対比された契約の文脈に慎重に置き直されたことは、契約の創発性をヴィヴィッドに示す試みになったように思われる(もっとも、同判決をパートナーシップ関係を創り出す契約について争われた典型例として捉えるのが妥当かどうかは検討を要するだろう)。

 視点を変えて表現すると、問題設定の仕方がクリティカルなのではないかと言うほうが分かりやすいかもしれない。問題設定の仕方とは、もっと言ってしまえば、たとえば架空の民法判例集をつくるとして、平成16年判決を内縁の近くに置くか、それとも契約各論の和解の次にもうひとつ項目を立ててそこに置くかということである(契約内容の自由についての521条2項に関わる判例として契約総則の最初に置くことも考えられなくはない)。後者のような編集が実際に許容されるかは別として、後者を選ぶのに近い問題設定の仕方がなされたことが契約の創発性をより際立たせるものとしてふさわしいものだったように思われる(もっともセミナーは内縁の説明から始まったことは記録の通りである)。

 

(2) パートナーシップ関係からの離脱

 以上の延長で、パートナーシップの関係存続についての当事者間の合意についてふれておきたい。これは実際に平成16年判決で判断要素のひとつに挙げられたものだが、事件自体に深く入り込み過ぎない範囲で、契約によって創り出されるかもしれない厚みのある人格的な関係についてもう少し検討してみたいと思う。ここでは、契約によってそうした関係を創り出すことは少なくとも将来的には不可能ではないと仮定して話を進める。

 同判決は、パートナーシップ関係の解消を制限する合意がないことを考慮に入れて、パートナーシップ関係から離脱するのは自由だと当事者が考えていたという前提に立っているように読めなくもない。ここでいったん事件から離れて一般的に言うと、いわゆる自由結合についてはそうした関係を築くのも自由であり、また、それから離脱するのも自由であって、成立・解消の自由をワンセットのものとして捉える傾向をもつ考え方がある。他方で、当該関係からの離脱は自由ではなく、婚姻同等と言えるかは別として、一定程度お互いに関係存続を期待していると捉える考え方が採られることもないわけではない。いわゆる「強いられた内縁」や(見直されてよい)婚姻障害のあるようなカップルの場合はむしろ後者のほうが実態を捉えているかもしれない。

 このことからうかがわれるように、パートナーシップ関係の解消を制限する合意がないことからは、次のように考えることもそれほど不自然でも不合理でもないように思われる。すなわち、当事者がパートナーシップ関係を創り出した時点では、その関係にふさわしく関係解消を制限する方向で(黙示のかたちであれ)合意していたと解する余地もなくはないのではないか。このように解しても、とりたてて目新しい奇異なことでもなければ、許容されないことでもないように思われる。それでも以上のように記したのは、セミナーで話題にされるはずだった問題――契約の一方当事者がもう望まないなら約束は拘束力をもたないのではないか――に関わってのことである。

 パートナーシップ関係を契約・契約法ベースで規律しようとする立場に関しては、まったくのゼロからの足し算をするのではなく、組合法理をモデルにすることがひとつの選択肢として言及されることが少なくない。組合は、当事者をあまりに束縛することを避ける趣旨から、当事者の意思によって契約関係から一方的に離脱することが比較的ひろく認められる契約類型のひとつに数えられる(組合からの脱退(678条))。もっとも、パートナーシップ関係では当事者はふたりで一方当事者の脱退は組合の解散になるとすると、その請求ができるのはやむを得ない事由がある場合に限られることになるかもしれない(組合の解散の請求(683条))。いずれにせよ、組合法理によるとするなら、婚姻と比べてより緩やかな要件で一方当事者の意思によってパートナーシップ関係から離脱できることになるように思われる。組合員の脱退が比較的ひろく認められる趣旨が上記のようなものだとすると、契約関係からの離脱の自由の程度の差は、民法にセットされた標準の組合と、パートナーシップ関係と、婚姻とのあいだでグラデーションを描くだろうと考えられる。

 言い添えておく必要があるのは、繰り返しになるが、セミナーでの対話の流れでは当該事件で心変わりしたのはXのほうであって、ここで検討している話題のきっかけをつくった高校生が疑問を感じたのは、パートナーシップ関係から離脱したYに対して、Yの関係離脱を非難して損害賠償請求することになったXの意思は尊重しなくてよいのか、だったことである。煩瑣な表現になっているが、要するに疑問のベクトルが逆なのである。さきに述べた組合法理で出てくるような、離脱を望むYの意思が尊重されなくてよいのかが直接の問題なのではなかった。

 ここからは推測が交じるが、この生徒が感じた疑問のベースには次のふたつがありうるように感じられた。すなわち、第一に、契約時の意思(「解消は自由」)とは異なるものに変化した当事者の一方の意思(「解消は自由にできない」)も尊重されるべきではないか(こちらは記録しておいたように発言に表れていた)、ということ、第二に、パートナーシップ関係からの離脱はそもそも自由ではないのではないか、ということ。このふたつである。そして、このふたつは並列関係にあるというより、むしろ第二の点が起点になってそこから第一の点が出てくるという関係にあったように思われるのである。第二の点は、高校生の感覚として注目に値すると思われるがこれ以上は立ち入らない。

 このように言い添えたうえで本題に戻りたい。最後にふれた高校生の考え方(感じ方と言うべきか)をふまえると(特に第一の点との関わりで)、「契約は守られなければならない」という原則を問い直すこと、あるいは、その原則から脱け出すことは(契約総則の規定とは別に)可能なのか、可能だとしたら可能なのはなぜか、といった話題も契約・契約法の考え方への理解を深める好材料になりうるのではないかと考えられる(もっとも主催者はもっと別の方向へ話を進めることを想定していたのかもしれない)。

 

(3) 契約の相対効

 契約法の原則のうちもっとも代表的なもののひとつと言える契約自由の原則については主催者から特に念入りに説明され、記録もしておいたのでこれ以上ふれる必要はないだろう(なお締結の自由の部分は521条1項)。ここでは、契約と制度を対比する要素のひとつとして言及された契約の相対効についてふれる。

 契約の相対効・契約の相対性の原則も契約法の基本のひとつとされる。こんにちではこの原則にかかわらず契約実務の実際面からも理論面からも慎重に再検討されるべき側面のひろがりは認められるものの、契約の拘束力は契約当事者間にしか及ばないのが原則である。しかも契約の相対効は「あたりまえのことだから」という理由で日本法では明治民法以来明文の規定がない性質のものに当たる(第三者のためにする契約(537~539条)が、条文にないこの原則が前提にあることを示すものとされる)。

 今回取り上げられたパートナーシップ関係が創発的な契約に基づくものだとすると、そのパートナーシップ契約の内容に「第三者とは性関係をもたない」ことが含まれていたとしても、パートナー以外とは性関係をもたないという契約条項について、契約の相対効から、それが第三者に対して当該条項を破ることを禁じる義務を課すことはできない。このような説明があったことは記録しておいた。

 制度ならば第三者をも拘束できるのに対して、契約にはそこまでの効力は期待できない。

 しかし、これは今回のセミナーに参加した高校生にとってはそうスムーズに納得できるものではなかったように思われる。契約の相対効をめぐって主催者と高校生のあいだで実際に交わされた会話は、第三者との性関係の禁止のほか、新型コロナに関わって注目を集めたマスクの転売禁止を話題にして展開された。性関係と違って、倫理的・道徳的要因が希薄な分、契約の相対効自体のはたらき(はたらきが感得されないことと言うべきか)が明瞭に現れたように思われる。少し長いが再現する。

 

  1. 主催者: 相手方に転売させないというときには、どうすればいいの?
  2. 生徒D: 転売を取締まるのがいいと思います。
  3. 主催者: 取締まる、って、どういうこと?
  4. 生徒D: ええと、たとえば、メルカリなんかを監視して、そういう出品を止めさせるとか。
  5. 主催者: うん、止めさせる前提は?
  6. 生徒D: え? 前提、っていうのは?
  7. 主催者: 世の中一般的にはさ、買った物は転売していいんだよね? で、メルカリで売っちゃいけない、とかって言うんだけど、売らせないためにはどうすればいいの?
  8. 生徒D: え、法を整備するとかですか?
  9. 主催者: 法律で定めりゃあそれはいいけど、国が配るときには「マスクは転売しません」という誓約書にサインしてください、と。で、そういう契約で、マスク2枚もらいました、と。ふたりでつくった約束なんで、ひとりで勝手に変えるわけにいかないよね、という話をしたんですけど、いま言ってるのは、ふたりでつくった約束なんで、ふたりは拘束するけども、他の人には及ばないよね、と。分かりますか?
  10. 生徒E: 契約によって生じた債権は当事者間のみに生ずる相対権みたいなものであって、その、あらゆる人類に適用されるものではない。
  11. 主催者: うん、まあ、そうですね。だから、約束をした相手方を拘束することはできるけれども、それ以上の拘束、ってできませんよね、と。
  12. 生徒D: ええと、あの、国とマスクをもらった人の契約では、その、買い取ったマスクを、えー、その、なんだ、受け取った人が転売をしてそれを買い取った人は、えっと、なんだ、制裁を加えられないっていうか、そういうことができないっていうか、そういうことですか?
  13. 主催者: そうです。そういう意味で、契約は一定の効果をもたらしてくれる。受け取った人に転売はダメだということはできる。そこまでは制度性をもってるんだけれども、じゃあ、もっと望みたい、というふうに考えたときに、当事者で決めてみてもそれは他の人には影響をもたないよね、って。

 

 主催者は契約の相対効をその拘束力に関わる部分まで含めて伝えたかった。しかし、ある意味「答え方」を知っていた生徒Eがいた。おそらく生徒Dは「契約はそういうものだ」と理解しただろう。しかし、「たしかにそういうことになりますね」と納得してはいなかったのではないだろうか。生徒Dの最後の発話(とそこまでの流れ)からはそのような様子がうかがわれよう。これはおそらく法的な考え方を伝える際の問題一般よりもう少し細かな次のような事情によっていたのではないか。第一に、法律に関わる知識が高校生のあいだでバラつきがあること、これにくわえて、第二に、原則を教えることの難しさ、とが重なったことが関わっているだろうということである。第二の事情が表面化するのは、その原則が、考える出発点に近い性質のもので、しかも、説明されればその場で「たしかに……」とは必ずしも納得できやすいものでない場合のように思われる。

 もっとも契約の相対効についての理解は、2020年春のセミナー全体を通して眺めても欠かせないものではなかった。わずかに第3回セミナーで、下請連鎖と入金リンク条項が話題にされた際に高校生との対話がなかなかかみあわなかったところで、契約の相対効のつかみにくさが顔をのぞかせたように感じられた程度だった。ただ、いまふれた第3回セミナーでのやりとりをふまえると、ずっとさきのことかもしれないとはいえ、契約・契約法の理解一般に思いをめぐらせると、契約の相対効は潜在的なひろがりをもってあちこちに顔を出す(たとえば、不動産の二重譲渡のような古典的問題から、契約結合のような現代的問題まで)難題であるように思われる。

(荒川英央)

 

第4節 コメントへのリプライ

 荒川氏によって精密に整理された授業内容と外形・内容双方にわたるコメントを読んで感じたことは多岐にわたるが、ここでは以下の4点にまとめる形で感想を述べておきたい。

 第1点は用語法にかかわる。荒川氏も指摘するように、この授業は全体として「契約」と「制度」とをキー・コンセプトとしている。ところが荒川氏による整理によって私が伝えたかったことが明確化・客観化されてみると、「契約」「制度」は二つの異なる次元において用いられていることに改めて気づく。すなわち、一方では分析対象として「制度」「契約」が措定されているが、他方で分析枠組としての「契約」「制度」という用語が用いられている。この点を明確に意識しないと、「契約は制度か」という問いは混乱を招く。いま対象レベルでの概念を0で、分析レベルでの概念を1で表すとすると、「契約は制度か」という問いは「契約0には制度1の要素を見いだすことができるか」と言い換えられることにある。反対に「制度0にも契約1の側面がある」と述べることもできる。このあたりは制度・契約につき既存のイメージを持っている法学既修者であれば、なんとなく理解できてしまう(できたと思ってしまう)ところであるが、振り返ってみると、生徒たちの困惑は、与えられた少ない情報に基づいて考えさせるにしては情報自体が曖昧であるところに由来するのだろうと理解することができる。

 第2点は分析の方向性にかかわる。ここには両義性が表れているが、それは同一の次元のものである。すなわち、この授業で述べられているカップルの関係の「契約」化は、①「制度から契約へ」(拘束力の緩和)という方向を指しているのか、それとも、②「非契約から契約へ」(拘束力の付与)という方向を指しているのか、という問題である。

 授業の中では、①を強調しつつ②にも言及しており、この点がわかりにくさを生んだと考えられる。荒川氏は、たとえ当事者が①を目指していたとしても契約には②の側面があるので、関係の存続保障はゼロにはならないと考えるべきではないかと示唆している。その際に荒川氏は、契約締結時と解消時における一方当事者の意思の変化に関する生徒の受け止め方に言及しつつ、契約解釈の問題として、当初意思だけを重視するという方法によるのではなく、解消時に現れた当事者の意思をいわば契約時に回収するという方法を提示しているように思われる。

 この指摘自体は興味深いが、より根本的な指摘は、この授業では②が重視され、契約によって社会関係を構成するという側面に注意を促しているように思われるのに、①を強調すると、契約による社会からの離脱がクローズアップされてしまうという背理を突いている点にあるといえる。モデレーターの最初の介入もまたこの点にかかわっているというのが、荒川氏の理解であろう。

 私自身は、パートナーシップ(今季セミナー第1回)に関しては②を踏まえつつも①を押し出す点に重点を置いたが、そうであればむしろ、セミナー第2回で扱った企業の提携交渉をまず取り上げて、②を十分に理解してもらった方がよかったのかもしれない。

 なお、ここであわせて考えるべき問題がもう一つある。それは、最高裁はなぜ荒川氏の指摘するような方向で考えなかったのかという問題である。おそらくは一審以来、当事者の事前の合意にかかわらず準婚理論を適用しない、あるいは、当事者の事前の合意を文字通りに解釈して内縁理論を適用しないという二者択一の形が議論がなされてきたからであろう。この二項対立を抜け出すには、荒川氏が指摘するように、当事者の意思を尊重しつつもより衡平に適う結果をもたらす契約解釈をするか、あるいは、契約内容とは別次元で解消者側に義務を設定し、その義務を尽くしていないとして損害賠償責任を認めるか、という方策があり得たのではないかと思う。荒川氏の示唆する通り、今回の授業の趣旨に照らせば、前者の解決を志向するというのが正攻法かもしれない。しかしながら、最高裁にとってより採用しやすいのは後者の方だったのではないかと思う。具体的には、パートナーシップ関係は損害賠償なしで解消可能ではあるが、解消にあたっては相手方の人格を尊重した形で交渉する必要があるところ、解消者はこの義務を尽くしていない(可能性がある)とすることが考えられよう。

 第3点は問題の絞り方にかかわる。第2点のほかにも、荒川氏が婉曲的に批判している点がいくつかある。一つは、契約の拘束力に関する説明が十分に尽くされていないという点である。この点については、国家的な力ではなく社会的な力との関係で考える必要があるというところまでは説明したが、その先には進めていない。今回のセミナーを通じてこのテーマには何度か触れたものの、「約束」はそれ自体拘束力を持っているという言語行為論的な説明の先の説明には至っていない。これは契約法学のアルファであるとともにオメガである問題であり、簡単には結論を下せないが、いずれ別の機会に検討を深める必要があると改めて痛感した。もう一つは、「制度」性ということで第三者との関係まで議論を拡げる必要はあったのか、という点である。確かに第三者効(対世効)は制度性の一つの指標ではあるが、今回の授業との関係では当事者間の問題に限っても大きな支障はなかったともいえる。そうであれば、いたずらに(特にセミナー初回において)問題を複雑にすることは避けた方がよかったかもしれない。

 第4点は原則の理解の仕方にかかわる。第三者効の対極にある相対効の原則につき、荒川氏はその理解の難しさを指摘する。相対効が原則なのはなぜか、本当に契約の拘束力は相対的なのか、については、約束事や通り一遍の説明ですませる(法学部・法科大学院ではしばしばそうしている)のではなく、より丁寧により原理的に考える必要があるのではないか。「基礎的な考え方」と称する以上、この点をおろそかにするべきではない。荒川氏はそこまでは言わないが、そういう含意を汲み取るべきであろう。

 

 以上のような荒川氏の指摘を受けて、私の最終稿(「法学入門」)の既述は相当程度まで改善されることになろう。私のテクストのなかに引用される生徒たちの発言も、私の論旨に即した形で整理されることになる。しかし、完成物を見ているだけではわからないこと・気づかないことがある。ノイズとも思える余剰な発言の中にシグナルを見い出し、それに触発されて思考の精度を高めていく。本稿はそのようなプロセスを明るみに出そうという試みである。

 

 1回目の授業については以上の通りである。次回・その4では、2回目の授業に移りたい。

(大村敦志)

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