◇SH3397◇高校生に対する法教育の試み―契約法の場合(5) 荒川英央/大村敦志(2020/11/24)

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高校生に対する法教育の試み―契約法の場合(5)

学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央

学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志

 

第2節 外形的な観察――授業の進め方・生徒の様子など(続き)

(4)に続き、第2回授業の後半である。

 

5 UFJ対住友信託はどちらが“勝った”のか

 後半をはじめるにあたって、モデレーターからの質問について主催者からコメントがなされた。このコメントは今回取り上げられた事件の結果自体を離れ、「契約のまえの小さな約束」の保護の意味を、高校生が確認・実感し、ひいては契約・契約法をどう考えるかにつながる指針・手がかりになったように思われる。モデレーターから提起された問題は「UFJ対住友信託は、結局どちらが“勝った”ことになるのか?」というものである。

 主催者からは、事実としては、最高裁の決定では事件の決着には至っていないこと、最終的には最初に交渉が進んでいた合併・業務提携はうまくいかず、UFJ信託は現・三菱UFJFGの側に組み込まれたこと、これに対して住友信託が和解金の支払いを受けたこと、が確認された。

 そのうえでこの事実についての評価は次のように述べられた。銀行統廃合の点では、「契約のまえの小さな約束」(独占交渉権条項)を破ったUFJグループ側が押し切ったかたちになっている。住友信託は和解金を取れたとはいえ、その額は、第一に住友信託の営業規模からみるとわずかであり、第二に住友信託がUFJ信託を買収したとしたら得られたであろう利益と比べると小さい。

 そうだとすると、住友信託は「勝ったのか?」と考えると、和解金を取れたという意味では勝ったといえなくもないが、その額が小さいという点では実質的には負けたことになるかもしれない。ただし、訴訟での勝ち負けのさきに、この訴訟では実質的に負けたとしても、より大きな文脈で考えたときに負けた側にとって好ましい結果が得られたのであれば勝った評価できることもあるだろう、とのことであった。

 

6 本当の契約のまえの小さな約束の意味・再論

 続けてモデレーターから、なぜ独占交渉権条項の入った約束がされるのか、という問題が提起された。生徒からは、当事者間で本当の契約に向けての期待を高めるためではないか、という指摘が前半での議論を糧にすぐになされた。主催者からはこの指摘の適切さを認めたうえで、さらに理解を深めるべく次のように訊ねた。契約が成立するかどうかは分からないが、成立に向けて交渉することがオープンにされる状況は他にないだろうか。別の生徒から条約を結ぶために首脳会談が行われるケースが挙げられた。これを引き受けて、主催者から契約を結ぶために交渉する約束をすることには、当事者同士の期待を高めるのにくわえて対外的な意味があり、外部からも一方的な交渉離脱には非難が向けられるというかたちで当事者に対して交渉継続に向けた拘束がはたらく。こうして交渉すること自体に契約成立に向けて大きな意味があるときに、そのまえの小さな約束がされるのではないか、と補足説明がくわえられた。

 

7 期待と信頼を生む約束・コトバ・態度

 ここから前半の話題に直接する話題が再開された。まず主催者から、約束だけでなく、一定のコトバや態度もまた信頼を生じさせる場合がある、という方向に話が展開された。具体的には「家庭教師の○○、30点アップ」というコトバは、それが契約の内容になるとすると30点アップしなければ契約違反ということになるだろうし、そこまでは契約の内容にはならないとしても、一定程度点数がアップしなければ信頼を裏切られたと感じられるだろう。このように信頼を生じさせるケースは他にはないだろうか、と問いかけられた。

 主催者の発話によるわずかな状況の変動に応じて、生徒からは、過去の大学合格実績を見せられたら期待する、学校の教師から「このぐらいの成績であれば合格する」と言われたらそれ以上に期待する、といったことが挙げられた。このやりとりを受けて、モデレーターは第1回で生徒から出された問い、すなわち、「契約と似た性質をもつ他の制度はあるのか?」という問題と関連づけて次のような問題提起を試みた。いま話題になっていることから考えるべきなのは、通常の契約ではない契約のようなものがあるということなのか、契約ではないと思われるものも実は契約であるということなのか、さらには契約以外のなにかから守られなければならないものが生ずるということなのか、というのである。

 契約と約束の区別はたびたび論じられてきた。主催者はまさにモデレーターが問題にした微妙な点を話題にしたい旨を告げたうえで、次のようにフレームを設定してみせた。“100%の契約”と評価される約束がされれば契約の効力が保証され、裁判に訴えるなどしてそれを実現することができる。このように実現は強制できなくても、損害賠償請求は認められるような、いわば“50%の約束”のようなものも話題にしてきた。“50%の約束”も法的な保護を受けられるという意味では契約と呼ぶことができるとして、そのさきにはもはや契約とは呼べないものの保護されるものがありうる。そう考えて契約性を緩めていくと、契約はあるところで契約ではないものと連続していると言えそうである。とすると、契約と契約以前を分けるのはなぜなのか、どのような基準でそれを分けるのか、といった問題を考えてもらいたい、という。そしていわゆる「隣人訴訟」が話題に導入された。

 

8 隣人訴訟を素材に

 隣人訴訟の事実関係は次のように解説された。近所付き合いのあるP・Q夫婦にそれぞれ子どもがいた。子ども同士がQの家の近くで遊んでいるときに、P側が買い物に子どもを連れて行こうとしたが、子どもはいやがった。そこでQ側は「おいてったらよい」のようなことを言い、それに対してP側は「よろしく頼む」のようなことを言い、Q側は「大丈夫でしょう」のような答えをした。そしてP側は子どもを「託して」買い物に行き、そのあいだにPの子どもは溜池で溺死。PからQに対して損害賠償請求訴訟が起こされた。

 続いて主催者は、なにを理由に損害賠償請求をすることが考えられるか、と問いかけた。生徒が「監督不行き届きみたいな感じ」と答えたところ、主催者になぜQ側は監督しなければならないかと重ねて問われ、「小さな子どもを安全な状態に置いておく『大人としての正しい行動』についての認識があるから」と答えた。主宰者が、その理由だと別の大人Rも近くにいたとするとRにも損害賠償請求できることになりそうだと言うのに対して、生徒はRにはできなそうと言う。QとRの違いを問われた生徒は、P・Q間には「一種の契約」があったのでは、と契約を持ち出した。主催者は、もともとの発想にはもうひとつの理由も含まれていたようだとして問いを重ねたが、他の生徒からも別の理由は出てこなかった。

 主催者は、先述のP・Q間のやりとりがどのように法的に評価されたかを次のように解説していった。P側の「よろしく頼む」が準委任契約の申込みだとしても、Q側の「大丈夫でしょう」はそれに対する承諾とは認定されなかった。しかし、Q側が「おいてったらよい」と言い、P側に子どもをみることを頼まれて「大丈夫でしょう」と答えたことによって、P側に信頼を生じさせ、その信頼を損なったことに対するQ側の責任が認められた、と。他方で、主催者の解釈では、Q側の「大丈夫でしょう」を暗黙の承諾と認定して、準委任契約の成立を認めることも不可能ではなかった、とも付け加えられた。

 主催者は隣人訴訟によって、契約と契約以前のまさにギリギリの、境界線は引き難い境界地帯を示してみせたのだと思われる。そして、裁判で、P・Q間に約束がなかったとしても、QがPに抱かせた期待が保護されうることが示されたように、たとえば恋愛でも、結婚に向けて付き合うことになり一定の態度によって相手方に期待が生じたとしたら、その期待は保護されなければならないことになるのではないか、とのことであった。まさに微妙な例だったためか、引っ掛かりを感じた生徒から投げかけられた疑問をきっかけに、契約と非契約の境目を考えるもうひとつの問題が話題にされた。

 

9 隣人訴訟・その2
   契約と契約以前をどう分けるのか

 以下は隣人訴訟で契約の成立が認められなかったことに違和感を感じた生徒の発話からはじまった対話である。

 

  1. 生徒H: あの、契約のところで、口約束も契約に含まれますよね?
  2. 主催者: うん。
  3. 生徒H: それで、その、Pと、Pが子どもをQに預ける、っていうのも、その、Qが承諾して行ったんだから、それは契約になるんじゃないんですか?
  4. 主催者: はい、ええ。[民法学では]口約束でも契約って成り立つ、っていうふうに考えてる、と。で、それはそういうふうに考えてるし、そういうふうに教えられているだろう、と思います。
  5.    […中略…]
  6. 主催者: ただ、[P側の「よろしく頼む」という申込みに対して、Q側は]「大丈夫でしょう」という、――なんていうのかな――、自分が「たぶん大丈夫だろう」というふうに思ってる、と言ってるだけ、で、「申込みに対する承諾じゃないんだ」というふうに考えると、「これは契約じゃないよね」という話になるんだろう、と思います。

 

 この説明で生徒は一応納得したようだが、主催者はもうひとつ問題を取り出して見せた。

 

  1. 主催者: で、H君の疑問については、もうひとつ話があって、「じゃあ、『大丈夫でしょう』じゃなくて、『はい、分りました』というふうに言ったら、それで契約は成立するのだろうか」ということなんですけれども。たとえば、売買契約……――、まあ、中国からマスクを買う、と。5,000万円で大量のマスクを買う、というときに、それ、口約束で契約成立する、っていうふうに考えていいんでしょうか?
  2. 生徒H: それはさすがにあれなんじゃないですか。
  3. 主催者: なんで?
  4. 生徒H: え、その、あまりにも多額の、その、――なんだろう――、その、申込み、あー、まあ、純粋に言えば、あの、カネが動く、大量のカネが動いているから。

 

 主催者は生徒Hにその通りだと言いつつ、ただ口約束でも契約は成立すると考える以上、この場合は「契約が成立していない」と言うための理由が必要だという。別の生徒とのやりとりでこの売買契約を成立させる手順を確認しつつ、取引の金額が大きい場合のように、口約束では契約が成立したと評価できない理由として、「そういう場合、ふつう口約束だけで契約が成立した、というふうに思わないよね」、「われわれはそうは考えてないでしょ」という社会通念による判断枠組みを提示した。そのうえで、このように考えてくると、契約と契約以前を分けて考えようとしても、1本の明確な線が引けるかは難しいし、かりに引いてもその両側はそれほど違わないかもしれない、とのことであった。

 

10 Q2:約束はいつ契約になるのか?

 契約では、意思が重要な役割を果たす。これに対し、ここまで契約によらずに義務を生むものとして期待がクローズアップされてきた。モデレーターから、ここで言う期待について、主観的に抱かれた期待が重要なのか、あるいは、客観的に期待が抱かれるような状況が重要なのかという問題が提起された。主催者はこれを「なぜ期待が義務を生むのか?」という問いとして捉え直したうえで、事前に示されていた目次のQ2と関連づけて、契約が義務を生じさせるということと、契約でないなにかが義務を生じさせるということとは、どう違うのかを考えて欲しい旨が述べられた。具体的にはマンションに住んでいて、隣の部屋の騒音が非常に大きいというケースを想定してみて欲しいという。このとき、なにも契約がなくても、夜になったら一定以上の音を出さないことは社会的に期待してよいだろうし、それ以上に騒音が大きければ損害賠償請求ができることになるだろう。いま話題にしているのはそうした期待である、とのことであった。

 さらに、モデレーターからは、いまの説明は客観主義寄りと思われるが、現代社会ではそうした客観主義的な期待は想定・維持しえないのではないか、との指摘がなされた。主催者はその問題を認めつつ、分析的にレベルを分けて、状況の抽象性・具体性と期待を抱く人の一般性・個別性に応じて考える必要はあるが、少なくとも裁判官は仮設的に特定の状況に置かれた通常の人の義務を想定せざるをえないだろう(同じマンションでも、夜10:30はもう静かにすべきだという人も、10:30ならまだ大丈夫な音量だという人もいるかもしれないが)。契約がなければ、そのように事後的に仮設された義務に照らして義務違反には損害賠償が認められることになる。これに対して、「このマンションでは夜10:00以降は一定以上の音を出さない」といった契約があれば、その明確なルールに基づいて損害賠償が請求できることになる、とのことであった。

 

11 契約から派生する社会規範

 続けて大学入試のリスニングの際の試験会場近隣の騒音問題も話題にされた。これについても、主催者からマンションの騒音問題と同様との説明がなされたところ、生徒から疑問が出た。主催者は、試験会場の大学から町内会に対して、リスニングのときには「静かにして欲しい」という依頼があり、町内会が(近隣訴訟のように)「大丈夫でしょう」と答えたら、一定程度静かにすることが期待されるだろう、と説明。これに対して、生徒は次のような疑問を示した。町内会に入っていない人の声は入っていないのに、そうした人たちに対しても静かにすることを期待できるのか、というのである。

 これに対しては主催者は次のように二段階に分けて答えた。まず町内会を当事者とした契約が結ばれたとすると町内会は義務を負うが、住民すべてが契約による義務は負うわけではない。かりに、町内会と大学のあいだの契約がたとえば回覧板で知らされたとしても、個々人が同意したことにはならないのでやはり変わらない。しかし、そのさきに町内会と大学のあいだの契約を知っていることから生ずる、契約とは別の社会規範が発生すると考えることはできるだろう。この契約からいわば派生する社会規範に、契約当事者以外も拘束されるという事態も、契約がある場合と契約がない場合の違いだろう、とのことであった。

 

【振り返りと総括】

 セミナー第2回で話題にされてきたことを振り返りつつ、全体を総括するような説明が行われた。まず民法の条文に即した確認・解説がなされた。契約に基づく義務の場合、原則として、義務の内容について履行の強制ができるとともに、その履行がなされないときには損害賠償の請求ができる。他方、契約ではなく社会通念に基づく義務の場合、これは不法行為の問題となり、損害賠償請求しか認められない。

 次いで、これを今回検討してきた契約と契約以前の対比という文脈で捉え直すと次のように言える。契約ならば、義務の内容が明確になり、かつ、その内容を――損害賠償ではないかたちで――積極的に実現することができる。ここで約束は契約になる。これに対して、契約以前ならばどうか。損害賠償請求ができることはあるものの、そこまでにとどまる。なんらかの約束によって義務の内容を明確にできることはあるとはいえ、その義務を積極的に実現することができない以上、それは契約性のとぼしい約束と評価せざるをえない。

 関連して、UFJ対住友信託のケースについて補足的なコメントが加えられた。独占交渉権条項はあったとはいえ、それは合併・業務提携の本契約を結ぶ義務を両当事者に課すものではなかった。そして住友信託は結局わずかな和解金しか取れなかった。事前に違約金を定めておけば額は違ったかもしれない(この点は生徒からも指摘があった)。このようなケースでは相手方には重い制裁・違約金条項を入れ、逆に自分の側には責任制限条項を入れることによって、契約性を高めることができるだろう。これは当事者間で自分たちの関係を規律する、いわば第二段目の契約と言うことができるだろう。

 なお、すでにふれた約束・コトバ・態度が期待を生むという話題や隣人訴訟に関しては、わずかとはいえ契約性が認められる余地があった。契約性はほぼゼロと評価しうる領野についても次のように考えられる。たとえば、いじめや児童虐待のケースで、教師や児相の職員が通常なら認知できないような場合でも、被害者からなんらかの働きかけを受けていれば、その先行行為やそれに基づく関係によって義務を負う場合もあるだろう。

 最後に、第1回と関連づけて、契約・契約法を見通す展望が示された。第1回では制度と契約の対比という文脈を設定して、契約によって既存の制度から離脱して自由を確保する、という方向で考えた。今回の契約と契約以前の対比という文脈では、契約以前でも義務が生ずることはあるが、契約によってこそ、その義務の内容を明確化し実現できるものに変えることが可能になる、とのことであった。

 

【高校生が法律問題を考える:法律家が法律問題を考える】

――第2回セミナーの概要は以上の通りであるが、休憩時間中に生徒のひとりから法律家の考え方について質問が出された。セミナーの流れのなかに位置づけることは難しいが、記録に残すほうがよいと思われるため、ここでまとめておきたい。なお、以下で話題になる、法律家である主催者の考えと高校生の「直感」との距離の問題は、今回、契約と契約以前のあいだで連続することがらに対してどの程度保護されるべきかをめぐって、主催者と高校生のあいだで交わされた対話がある程度の範囲に収斂したところに現れたように思われる。

 生徒からの質問に対しては以下に記すように主催者からコメントがなされていった。ただ、主催者との対話をふくめ、そこには他の方向へもひろがりうる豊かな多義性が含まれているように思われる。そのため、できるだけ生徒の発話はそのままのかたちにとどめることにした(この意図に反しない限りで、発話はここまで以上に整形してある)。

 もともとはチャットに書き込まれた質問は次の通りである。

 

  1. 生徒K: 法律家は、自分の奥底から湧き上がる直感から善か悪かを定め、それを補強する法律的な理由を後から考えていくのでしょうか。それとも、法律の知識をもとに論理を積み重ねていき、最終的に善か悪かを判断するのでしょうか。

 

 主催者は、なぜこのようなことに疑問を思うのかをもう少し敷衍して欲しいと求めた。

 

  1. 主催者: 私は、質問の意味よく分かりますけど、――K君、どうしてそういうことが疑問に思うの? ちょっとそれを説明してくれると、疑問に思ってくれてることの意味がよりよく分かる、と思うんだけど。
  2. 生徒K: 疑問に思ってる理由ですか? 最初の出発点といえば、僕がニュースとか見て「これはどうなんだろうな?」って思うとき、やっぱり最初は、なんか直感、というか、最初になにか結論が頭のなかにあって。じゃあ、それはなんなんだろう、って思って。ほかの新聞とかに出てる意見とかを見てみてみるんですけど、自分の意見に近いやつとかは、自分と思考回路も似たような人間が書いているのが多いから、けっこう頭にスッと入ってきて、別にそこまで疑問には思わないんですけど。たとえば、自分とは違う意見の人がいると、それが社説だったりすると、最初から「これ違うんじゃねえか?」っていう懐疑的な視点で入ってしまうので、もうその時点で、なかなか。たしかに、ときどき、その意見に説得されて、「最初の直感違ったね。こうかもな」ってこともあるんですけど、でもやっぱり最初の直感がそのまま、見た社説によって補強される、ということが多いわけなんですよね。で、それがホントに、もし法律家に将来なるうえで、「これは正しいことなんだろうか?」って、思ったんですよ。

 

 これを受けて、主催者は「このように思われる」、というかたちで順々に次のようにコメントしていった。ここには、法律問題について考える考え方と社会問題一般について考える考え方を、対比して考えていることが現れている。そして、なにか問題について考えるときに、①知識や価値観を総合的に動員して考えたときにどう感じるか、と、②分析的に考えたときにどうなるか、このふたつが同じではないということ、また、そのふたつが一致しない場合があることが述べられているのだろう。このことは法律家が考えるときも同じだろう。ここまでがさしあたりの答えだが、そのさきに考えなければならないさまざまな問題がひろがっている。いまの発言には、ルールに従って問題を考えるということがどういうことなのか、に関わる根本的な問題が含まれていると言えるだろう。

 さきに「なぜこのようなことに疑問を思うのか」を訊いたことと関わるが、今回のセミナーの進め方――「皆さんどう思うか?」、「それはどうしてか?」といった問いかけに応えてもらうスタイル――そのものが妥当な話の進め方なのか、という問題もある。

 ここでひとつ言っておきたいことがある。それは、法律家の直感と法律家以外の直感はそれほど違わない、という考え方があるということ。法律学の知識を学習すればするほど「直感」が後退してしまうことがある。それは皆さんが法学を身に付けて法を使って社会と関係をもつときにはあまり望ましいこととはいえないのではないかと思っている、とのことであった。

 

 以上で外形的な考察は終わりである。(6)では内容的な考察に進みたい。

(荒川英央)

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