◇SH3588◇中学生に対する法教育の試み―不法行為法の場合(2) 荒川英央/大村敦志(2021/04/20)

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中学生に対する法教育の試み―不法行為法の場合(2)

学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央

学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志

 

第2節 外形的な観察――授業の進め方・生徒の様子など(続き)

(1)に続き、第1回授業の後半である。

 

5 前提になっている事実と論評のあいだの関係

 後半は、前半の最後に生徒の質問から出た次の問いを考えることから再開された。前提になる事実さえ真実だと言えれば、論理的にオカシイ論評をしてもいいのか? である。生徒たちからさまざまな意見が出されたので、それをひろいながら対話の流れをみていく。

 

  1. 生徒E:あまりに論理が飛躍した――たとえば「Eは生物のテストで2回連続最下位をとった」っていう事実はあるんですけど、だからといって、「これからもずっととり続けるだろう」っていう、ぶっ飛んだ意見は、もはや「論評・意見の域」をぶっ飛んで単なる誹謗中傷に近いものになってて、「人身攻撃に及ぶなど」の「など」の部分に含まれるんじゃないか、とは思いますね。

 

 だから名誉毀損が成り立つ。判例の判断枠組みを維持しても、論理が飛躍しすぎる場合は「人身攻撃など」の要件で処理できるという。これに対し、次の生徒の発話では事実と論評の推論の確かさに焦点が当てられていく。

 

  1. 生徒F:論評に至るまでの過程に確かな因果が認められない限りは、「根拠となっている」と言い切れないんじゃないかな、と思います。[E君の]今までのテストの結果っていうのは確かに事実で。それを根拠に今度からのテストの成績をどうにか言うののあいだに、確かな因果があると思いました。

 

 だから名誉毀損は成り立たない。主催者が生徒EとFの発話で論評のなかみが違うこと(Eが言ったのは「ずっと最下位をとり続けるだろう」、Fが言ったのは「今度からもダメだろう」)を指摘すると、生徒たちの考えは「ずっとダメ」は論理が飛躍しすぎだが、「次もたぶんダメ」にはある程度の確かさを認める、といったあたりに収斂した。

 主催者は、厳密に言えばどちらの論評も確かではないのではないか、としたうえで次のように問いを立て直した。だからといって、なにも論評できないことになるのだろうか? 論評できるとしても、合理的な論評が積極的に求められるのか、それとも、不合理すぎる論評はダメなのか? このどちらの考え方を採るかで世界・社会のありよう、言論のありようは違ってくると思える、という。

 

  1. 生徒G:積極的に合理性を認めようとした場合って、合理性を裁判所や国のような大きな力が判断した場合って、それってどんどん実質的に言論統制であったり思想誘導につながってきてしまうんじゃないか、と。であるからして、あまりにも不合理なものだけを名誉毀損と認めるべきだと思います。

 

 主催者はこれをひとつの考え方として認めたうえで、反論を促した。

 

  1. 生徒H:どっかの権力が決めることが思想統制になる、というのは、それだったら不合理に対しても同じことで。だから、それは合理的でなければいけないって言ったときも、不合理的だったらアウトって言ったときも、それは同じことなんじゃないかな、って。

 

 さらに発言を促す主催者の呼びかけに応じて、事実と論評のあいだの関係について、合理性にしろ不合理性にしろ、それをあまり問わない発話もあった。

 

  1. 生徒I:僕はある程度因果関係が薄くても大丈夫だ、と思ってて。それは、仮に論評の前提としている事実から意見が乖離していても、ある程度、言論の自由という観点で、自分の言いたいことを言ってもいいのかな、と思います。

 

 ここで主催者は議論にワクをはめることを提案する。言論の自由だけから出発すると、なにを言っても構わないことになりがちである。そこで、ここでは言論の自由自体とプライバシー侵害はいったん括弧に入れて、名誉毀損にならないかを考えようというのである。それでも生徒Iの意見は変わらなかった。

 

  1. 生徒I:[E君が]名誉を毀損されてるとまでは言えないのかな、と思います。

 

 ただし、「ある程度つながりがみえるのであれば」という条件は付された。別の生徒の次の発言から、話題は名誉毀損の責任を免れる要件のうち、公共利害性・公益目的性を視野に入れたものにひろがっていった。

 

  1. 生徒J:E君の生物の話だと、3回連続で最下位とったで、それで不利益を被る人がいるかってのもけっこう問題になると思うんですけど。

 

 ただこの生徒は、E君の生物の成績は公共性・公益性とは関わらないと言う。主催者はそうだとすると、その段階で名誉毀損が成り立ってしまうと指摘し、仮に生徒Eが将来厚生労働大臣になったとしたら公共性と関わるかもしれないが、どうだろうか? と訊ねた。

 

  1. 生徒J:でも、それもなんか時効みたいな感じで、たとえばE君が50歳くらいで厚生労働大臣になってて、30年以上も前のことだから今はもう違うとなったら、名誉毀損になる、と思うんですけど。

 

 この生徒の発話の趣旨を明らかにするため主催者は次のように問いを定式化してみせた。名誉毀損が成立すると言うとき、30年以上過去のE君の生物の成績からE厚生労働大臣の政治家としての能力を推論することがおかしいのか、E君の過去の成績は公共に関することがらではないということなのか、どちらだろうか? 生徒Jが思考を進めた結果は、この場合名誉毀損が成り立つのは推論がおかしいからということに帰着した。

 生徒の一連の発話を受けて、モデレーターから次の点に注意が促された。判決が公共利害性・公益目的性を問題とするときの書き方は、「その行為が」公共性・公益性と関わるかとなっている。論評が前提としている事実と「その行為」は別のものなのではないか、と。

 

6 判決を前提にした「賢い」記者の振る舞い

 主催者はモデレーターの指摘を次のように引き取りたいと述べて生徒たちにこう訊ねた。最高裁判決をとりあえず所与にすると、そういうルールが形成されたことを前提に、記者なら名誉毀損で責任を負うことを避けるように行動する。安全なのは事実を出すだけで推論はしないで名誉毀損を免れることになりそうだが、ルールがそういう方向を示しているとすると、それは皆さんにとってよい世界だろうか? という問題がある。「賢い」記者なら、どう書けばいいだろうか? しかも、公共性に関わるかたちで、と。

 生徒たちの発言は、「E厚生労働大臣は新型コロナがウィルスか細菌か知らない等、現在の事実を摘示する」、「中学時代の成績と大人の知性は相関するという科学的論拠も同時に示す」といったものだった。これらについては、主催者は、どれももともと手元にあった事実だけから、許容される推論によって論評に達していることにならないのではないかと述べ、問題のきっかけをつくったモデレーター自身による回答を求めた。

 しかし、モデレーターは考えを進めても「賢い」記者にはなれていないと認めてしまう。敷衍するとこうであった。かなり確実なことしか言えないとすれば、遠い過去の事実を現在の評論につなぐことはできない。そうすると、過去の事実を摘示する行為自体が公共の利益に関わっていることが要請されることになるが、やはり過去のことは過去のことだとするとその要請を満たせない気がする、と。

 主催者が考える「賢い」記者はこう書くという。「これは現在のE厚生大臣の資質に関わる資料であるかもしれない、と。で、読者に判断は委ねられる」。「というのはダメなのかな」と主催者はモデレーターに訊ねたが、必ずしもモデレーターを説得できたとは言えないように見受けられた。

 生徒たちは主催者とモデレーターのやり取りからはやや取り残された観があった。主催者は、前提としている事実から飛躍した論評に話題を戻し、前半に出た生徒の発話を想起して次のように問いかけた。B君が言っていたように、明らかに飛躍した論評なら「みんなウソだと分かって、名誉そのものも傷つくことがなくて、問題にもならない」かもしれない。そうすると、推論は本当らしいほうが罪が大きいということはないだろうか? そこから何か、事実摘示型と論評型について考えられることはないだろうか? こうした点も考えて欲しいとしたうえで、少なくともほかにひとつは話題があるのでそちらに移っていきたいとされた。

 

1)事実~中程度にオカシイ推論への態度

 まず、主催者は次のような区分けを示して問題を整理した。まず、証拠で存否が決まるような事実(①)。これにはだまされやすいので、事実摘示型なら摘示された事実、論評型なら論評が前提としている事実が本当かどうかをチェックする必要がある。すぐ前で話題になった、明らかにオカシイ、皆がウソだと分かる推論によるもの(③)はチェックするまでもない。そうすると中程度にオカシイ推論によるもの(②)にどういう態度を取るかが問題になる。ここにも、普通の人には分からないかもしれないが、こういう推論はしてはいけないというもの(②’)と、こういう推論するのは仕方がないというもの(②″)がある。②’を野放しにしていいのだろうか? これがひとつめの問題であるとされた。

 次に、実際にどこで線を引けばよいだろうか? がふたつめの問題とされた。推論も確かなことしか言えないとすれば、厳密に考えると、E君は生物2回最下位から次の3回目もダメだろう、も言えないことになる。そうなると、言えることは相当限られる。皆さんのなかには、今は法学セミナーに来ているが、理科系や歴史学などのほかの分野に進む人もいるかもしれない。そうした分野で事実を扱うことになるかもしれないが、ここには事実をどのように扱うかに共通の問題が含まれている。ここで、言論の自由市場がオカシイものを駆逐するという立場を採れば自由市場に任せておけばいいことになる。そうではなく、言論市場が本当に機能するかは分からないという立場を採って、あいまいな根拠のことは言ってはいけないという枠をかけるのか。こうした問題が関わってくるとされた。

 

2)拡げられた論評の領域への態度

 この話の延長線上で考えたいこととして、次のような問いかけがなされた。今回の最高裁判決では、事実/論評という区別がされて、「著作権侵害がある」という言明は論評だと判断されたが――これは名誉毀損の責任があまり厳しく問われない領域を拡げる一面をもつ――、こちらはいいのだろうか? この問いかけに対する生徒の反応はさまざまだった。

 

  1. 生徒K:法的な見解――裁判所が出した判決とかが論評だとしたら、罰則とか、判決によって下されるような責任を決めるような、裁判所の権力というか、その存在感がだいぶ薄くなってしまうのではないか、っていう問題があると思います。

 

 これを受けて主催者は問いを次のように再定式化した。判決が確定したら当事者間ではその判決が効力をもつ。ただ、その先に問題があり、今回の最高裁判決の考え方では、判決が言っているのとは違うことを言ってもよい、という前提が採られたと思われる。K君の考え方は、確定判決が行った事実認定は事実として扱うということだと思われるが、その先にあるこの点はどうか? 生徒Kは判決を覆すような意見がたくさん出たら裁判所の権威に関わるので、判決が出た以上は厳格に強さを認めるべきなのでないか、と応えた。主催者はこれをひとつの考え方として認めたうえで、判決と違うことを言い続けたら問題になるような例を具体的に考えて欲しい、と求めた。別の生徒の発話から次のように対話が続いていった。

 

  1. 生徒L:刑事訴訟のときに、私は犯罪者ではありません、とかって言えるのではないかと思います。裁判はこういう証拠からこう言ってるけど、自分はそうは思わない、みたいな。
  2. 主催者:それ、ずっと言い続けちゃダメなのかな?
  3. 生徒L:言い続けられる――不当だって言う権利はあると思います。ただ、刑事訴訟の場合には、強制的に刑務所に送られたりとかは[避けられないと思う]。

 

 判決と違うことを言っていいという立場から具体例が挙げられ、しかし刑務所には入れられてしまう、という。主催者はこれとは違う意味合いでオカシイことに目を向けるよう促す。

 

  1. 主催者:それはそうだよね。捕まったとしても、でも、不当だと言い続けることはできるかもしれないんだけども、その結果、おかしいことが生じる場合、ないかな?
  2. 生徒M:妻が夫の浮気を見つけたとして、で、浮気が認められると離婚はできるじゃないですか。で、離婚したときに、夫が「あれは裁判所がそう言っているだけで自分はそんなことしていない、だから認めるんじゃねえ」って言い続けた場合は問題が起きると思いますね。
  3. 主催者:不貞があったということは裁判では確定されるわけなんですけども、――なにを言い続けるの? 制度について確認をすると、離婚判決が出ると離婚っていう効果が生じちゃうんですよ。
  4. 生徒M:あ、そっかぁ。
  5. 主催者:だけど、元に戻らなくても、離婚判決が認めたこととは違うことを主張したかったりしない? M君としては。M君の言い分は、「そっちの浮気でしょ」と。「オレも浮気したけど、そっちがさきでしょ」とかさ。あちらのせいだということを、しきりに書くわけです。それはいいのかな?
  6. 生徒M:裁判所の判決が意見にすぎないとか、そういうのが認められるのであれば、問題はそんなにないんじゃないかな、と思いますね。

 

 はじめは「判決と違うことを言い続けたら問題が起きる」と言っていた生徒Mは、主催者との対話で「問題はない」という立場に変わってしまった。ここで主催者は次のような例でいわば逆へ揺さぶった。を車で轢いた、それは「事実」。が死んだ、これも「事実」。検察は殺人を主張したが、裁判では故意が認定されず、過失致死だと法的に「評価」され、確定。しかしの遺族は「あれは殺人だ」と言い続ける。

 ここでも主催者と生徒の対話をみていく。なお、生徒Nの最初の応えは即答だった。

 

  1. 主催者:過失致死で刑に服した人が、ずっとお前は殺人だって言われ続けるの、なんとなくいけないような気もするんだけれども、それはいいのかな?
  2. 生徒N:はい。たぶん言い続ける権利はあると思うんですけど、轢いた側が裁判所に、轢かれた側が「あれは殺人だ」って書いた本とかブログとかを削除するように要請したら、たぶん消されると思うんですよね。
  3. 主催者:で、名誉毀損で訴えても、それは認められないの?
  4. 生徒N:――名誉毀損? たぶん、もう判決が確定していた場合は、その判例にしたがってというか、――それに反するのを書いたとしても、それを削除するように、書かれた側が言ったら、たぶんそれは通るので、権利はあっても意味がない、みたいな感じになると思います。
  5. 主催者:「たぶん通るので」っていうふうに言っているのは、そうすると、その場合に使われる基準は名誉毀損の場合の基準とは違うっていうこと?
  6. 生徒N:うーん、あの、……裁判所が……――
  7. 主催者:ちょっと、N君、ごめんね、この本が出版されている状態は名誉毀損になるので、この本を出版を止めさせて欲しい、という訴訟が起こされたときに、N君の感じで言うと、それは通るのかな?
  8. 生徒N:たぶん、名誉毀損以前に、裁判所が、その本を出版することを続けてもいいって認めちゃうと、裁判所はその判例は間違っていた、と間接的に認めるようになってしまうような気がするんですけど。その判決自体を覆す訴訟が起きない限りは、たぶん認めざるをえない感じになるだろうな、って。

 

 対話のすれ違いが、とくに後半部分ではあらわになるようにも思えるのだが(この点はあとでふれる)、主催者は、最後の発話をさきの生徒Kの考えに近い可能性を指摘し、今回のゴーマニズム宣言事件と関わらせつつ、そう考えると次のようにならないかと問いかけた。著作権侵害訴訟では上杉側が勝ち、著作権侵害はないとされた。他方、著作権侵害があるという前提で小林の漫画は書かれた。それが上杉に対する名誉毀損になるので、上杉が出版差止めを請求したら、著作権侵害はないとした前の判決に従って、名誉毀損の成立を認めるという方向にならないか、というのである。

 生徒Nが「分からなくなった」というのを引き継いで次のような発言があった。

 

  1. 生徒O:裁判所の判決も論評として扱われてるわけで、その論評を根拠にすることができないから、名誉毀損が成り立っていないんです――と思うんですよ。
  2. 主催者:でもさ、この[ゴーマニズム宣言事件の]判決を前提にするからそうなってんだよね? で、今の、N君のような考え方に立つと、むしろ、この判決の考え方が適当でないんで、前の判決で確定した著作権の所在は、事実と同じように扱うべきだっていうふうな方向になるんじゃないかと思うんだけども、O君はそういうふうに考えないで、現在の判決の立場をそのまま維持したほうがいいっていう、そういうことかな?
  3. 生徒O:そうですね……――うーん? やっぱり僕も考えがまとまってなかったみたいです。

 

 発話を続けられなくなった生徒たちの考えの跡をたどりながら、モデレーターが次のように整理してみせた。生徒たちは前の判決を前提にするという点では共通なのだが、著作権侵害があるか、と、名誉毀損が成り立つか、は別の問題と考えたのではないか、と。

 モデレーターによる整理を主催者は法律論として認めつつ、生徒たちに訊ねてみたかったのは次のことだと改めて述べた。前の判決でつくられた状態が当事者の利益になっていて、それを承知しつつ、前の判決とは違う法的な見解を述べることが無制限に認められていいのか? 過失致死の判決が確定し刑に服した人に対して、――もっと言えば、無罪になった人に対して――、いつまでも「お前は人殺しだ」と言い続けていいのだろうか? と訊いてみたかったのだ、と。しかも、後半の初めに話題にした推論の適切さとは別の問題として。主催者はモデレーターにこの点についての見解を求めた。モデレーターは、「その前に」と断ったうえで、故意を問題にすると事実の存否の問題とも考えられうるので、議論するには過失があったかを問題にするほうがいいのではないかと提案された。この「故意は事実」という扱いが起点になり、主催者は別の話題に話しを進めた。

 

7 事実と論評・再考

 殺人罪が成立するには故意が必要である。この故意は、今、ここで話題にしているところの、事実なのか、論評なのかという問題があるのではないか? 故意は、小林の絵が上杉の本に出ていたという事実と同じように認定される事実なのだろうか? と、主催者は敷衍してみせた。を轢いたという話をしたが、(ここで故意から契約にテーマが変わる)という人は契約を守らない人だと主張するのは、これは事実を指摘しているのか、それとも、法的な評価を述べているのか、――司法研修所の教え方は括弧に入れて――、考えてみるとよく分からない。

 皆さんは契約の成立は事実だと思うかもしれないが、契約の成立は、小林の絵が上杉の本に複製されていたということと同じかたちで認定できるものではない。が「なにかを売る」と発言し、が「それに対して代金を払う」と発言した、このことを捉えて契約が成立したというのだが、存在するのは、が「これを売る」と発言したこと、が「それを買う」と発言したこと、それだけと考えることもできる。そうすると、それらの事実が存することを、「契約が成立した」と評価し、「契約が成立した」という事実があったと裁判所が認定するのだから、「契約の成立」はそのような評価であり、事実そのものではない、と見ることもできる。

 このように考えていって今回の最高裁判決を振り返ると、判例は事実摘示型と論評型と言っているが、事実摘示型の範囲は非常に狭いものになってしまう、という問題があるのではないか、とされた。続いてモデレーターからは次のような補足説明があった。を轢き殺したという事例では、の車がに当たった、が死亡した、というのがもっとも「事実っぽさ」があるが、それすら証拠によって決することができることなのかというと、どんどん境界はあいまいになってくるのではないか、と。

 主催者はさらに、事実と思われているものも事実以外のものに支えられているという関係を述べたうえで、こう考えたとき、今回取り上げた事件の著作権侵害訴訟について、事実レベルといえるのはなんだろうかと訊ねた。生徒の応答は次の通り。

 

  1. 生徒P:小林さんという人が出版している漫画があって、その漫画の一部のコマと、上杉さんの本に登場している漫画のコマを重ね合わせたら、同じだった、っていうのは限りなく事実だと思います。

 

 これをもとにさらに主催者は事実レベルを狭めていく。漫画のコマの絵柄が重なっただけでは複製とすらいえない(銀行窓口での預金引き出しで、銀行側にある届出印の印影と払戻請求書の印影が重なっても、それは複製ではない)。少なくともほかに小林の漫画の先行性、その漫画を小林が書いたことに加え、著作権制度という法的仕組みによって小林が著作者とされ、その漫画が小林の著作権の対象と認められていることが前提になっている。最高裁判決はそうした法的な評価にさらされた事実と論評の枠組みを使って事実摘示型と論評型の二分法を立てている。しかし、その枠組みを取り払うと、非常に事実性の高いものから非常に評価性の高いものへのグラデーションが現れることになる。そうだとすると、二分法で考え、論評型として一括して判断することで妥当な結果はえられるのだろうか? という問題もあるかもしれない。「著作物」・「詐欺」のほか「親子」・不法行為の要件とされる「因果関係」といった例についても同様に解説され理解が促されていくことになる。

 そのうえで、判決で法的な見解が事実の領域ではなく論評の領域に置かれたことは、論評については、言論市場での議論等に委ねればよいということを前提に、名誉毀損が成立する領域を狭める方向でルールが形成されたことを意味している。このような事情をふまえて、この枠組みがよいのかどうか、それから事実と評論の区分はそれほど自明なのだろうか、といったことを話題にしてきた。そして、このことは次回セミナーにもつながっていく、とされた。

 

 ――以上の対話のあと、質疑応答が続いた。次回セミナーに関わるもの、不法行為法の理解に関わるものをピックアップして記録しておく。

 

Q1 ゴーマニズム宣言事件がもとになって生じた新たな論争の具体例はあるのか?

 生徒から、裁判の判決というのは論評だとした今回の判決がもとになって新しい論争を生んだ例はあるのだろうか? という質問が出された。主催者からどのような場合を想定しているのかを問われて、生徒は次のように質問を言い換えた。

 

  1. 生徒Q:裁判の判決が事実であるから、この判決は妥当じゃない、とかっていう訴えが出た、ってことはあるんですかね?
  2. 主催者:事実でないから、この判決は妥当でない、という訴えが出た、と[ここまでゆっくり発話]。――名誉毀損について判断するに当たって、判決が事実であるか事実でないかってことについて判断しますよね。その判断について後で争われるってことがありますか、って、こういう趣旨?
  3. 生徒Q:そうですね。
  4. 主催者:法律論は最終的に判決が確定したとしてもなお議論の余地が残ってる、というのが今日の話だとすると、事実については最高裁で確定したら、それは事実ですか? と。それについて違うことを言うというようなことが、実際上ありますか? っていう、そういうこと?

 

 生徒の最初の発話は、事実と論評の境界があいまいだという話題の理解をもとに、判決のかたちで示された法的な見解はやはり論評ではなく事実だという立場から訴訟が起こされたことは実際にあるか、を訊ねたようにも見受けられる。また、それに続く主催者の発話の冒頭の一文は生徒の質問のリフレインなのだが、この段階でズレが生じたようにも思われる。ただ、いずれにせよ、上のやり取りから、主催者による最後の定式化にもとづいて応答がされた。

 モデレーターからは次のような例はありそうだとされた。パワハラがあったとして訴えを起こされ勝訴した。しかし、パワハラの事実を認定された上司が、それは裁判所が勝手に言っているだけだとして、名誉毀損で訴える。このとき前の裁判所の事実認定に、後の裁判所は形式的には拘束されない、とのことだった。

 主催者からは次のような解説があった。前の訴訟で事実認定がされれば、その判決を前提にして仮にそれが真実ではなくても真実だと思うのに相当な理由があるということで言論が行われることはあるだろう。この点は、名誉毀損について重要な問題を含んでいる。実際には名誉毀損では真実性ではなく真実相当性という証明の難易度が低い要件で免責されるから。

 ただ、上の質問のもともとの関心は、直接には今回の事件のようなかたちで話題を呼んだような事件はあったかどうかに関わるように思わる。そうだとすると質問にきちんと応えられていない(すぐに具体的な事件が思い浮かばないのはなぜなのかも分からないところがある)。そこで、次回に持ち越すことにされた。

 

Q2 事実の境界線は、今、どのあたりに引かれているのか?

 生徒からは、事実と論評の境界はあいまいなことは分かったが、それでも評価抜きの事実はあるように思える。今は、どのあたりまでが事実とされているのか? も問われた。

 主催者は、法の世界では認識や評価に支えられているものも相当程度事実と考えられているだろうという見立てを示し、また、その基準を明確に示すことは非常に難しいと述べた後、次のように裁判制度との関わりで解説を加えた。事実かどうかを区別する基準が意味をもつ別の場面がある。最高裁は法律審とされており、事実認定はできず原審の法的な判断の是非をチェックし、事実審とされている下級裁判所が事実認定を行うことになっている。このような仕組みになっているので、法の世界では、事実審(下級裁)の担当領域と法律審(最高裁)の担当領域が、事実問題と法律問題の分かれ目と一応は言える。

 こうした点を専門とするモデレーターにもう一歩進んだ解説が求められた。それによると、契約は事実問題だとするとそれは事実審の担当領域ということになるが、契約の成立につながる発言は事実でも、その発言にどういう意思があったかは裁判官が構成してみせるので、そこを捉えると法的な判断が入る余地がある、とのことだった。そこを取り出すと法律問題として最高裁が判断できることになる。

 主催者は、今のモデレーターとのやり取りは質問者をまた困惑させる要素が入っているとして、改めて、事実と法のあいだに一本の線が引かれているわけではなく、事実と法はオーバーラップしている部分があるということになるかもしれない、と述べた。

 

 以上で外形的な考察は終わりである。(3)では内容的な考察に進みたい。

(荒川英央)

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