◇SH3594◇中学生に対する法教育の試み―不法行為法の場合(5) 荒川英央/大村敦志(2021/04/23)

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中学生に対する法教育の試み―不法行為法の場合(5)

学習院大学法学研究科博士後期課程
荒 川 英 央

学習院大学法務研究科教授
大 村 敦 志

 

第2節 外形的な観察――授業の進め方・生徒の様子など(続き)

(4)の最後に生徒から出された疑問を受けて始まった、第2回授業の後半である。

 

5 法律上保護される著作者の利益とそれに対する侵害

 主催者は次のように問題を整理した。公立図書館の職員として不適切な行為と、著作物によってその思想、意見等を公衆に伝達する著作者の利益がどのように結びつくのか。使用者責任の715条を適用するには、職員の行為が不法行為法の基本条文である709条の不法行為であることが前提になると考えられている。これは形式的な基準で、より直接的には、最高裁の言う、「著作者が著作物によってその思想、意見等を公衆に伝達する利益」が法律上保護される利益に当たるか、それが不当に損なわれたと言えるかが問題になる、とされた。

 

1)著作者の思想の自由・表現の自由

 最高裁が微妙な表現で著作者の思想の自由・表現の自由に言及していることをふまえ、主催者はまず、除籍で思想の自由・表現の自由が侵害されていると言えるか、を問題にした。

 

  1. 生徒P:人がなにか意見を発信するとき、本という手段は有効なので、発信する手段が自分の知らないところで不当に失われてる、と考えると、自分の意見を周りに発信し、表現してひろげてく、そういうのを侵害してる、というのは十分言えると思います。

 

 直截に思想の自由・表現の自由の侵害を認める発言のように見受けられる。

 

2)著作者の人格的利益

 これを受けて、主催者は問題を次のように分節していった。

 

  1. 主催者:国が出版禁止するというようなのは、それは、表現の自由を侵害しているっていうことになりますよね? だけど、図書館が本を買ってくれないのは、表現の自由を侵害しているわけじゃないよね?
  2. 生徒P:そうですね。
  3. 主催者:うん。そうすると、本を買わなければ、別によかったんだよね? 買って、除籍したからいけないんだよね?
  4. 生徒P:まあ、そうですね。
  5. 主催者:買わないのは別に言論の自由を侵害していることにはならない、と。で、除籍すること自体は言論の自由を侵害することにならない場合もありますよね? 本件では、何が悪いのかね?
  6. 生徒P:いちばん簡単に目に見えるところでいえば、規則に違反して除籍したっていうのが、最初に「悪い」と見える部分だと思います。

 

 主催者はこの発話の最初の慎重な部分に着目して、一歩踏み込んでルール違反と職員の意図を分けて次のように整理して対話を進めた。

 

  1. 主催者:単にルール違反だったら、それで人格的な利益が侵害されるっていうふうに考えられるのか、あるいは、単に悪意があれば、それで人格的利益が侵害されるっていうふうに考えられるのか、あるいは、両方重なって、悪意に基づいて、ルールに従わずに処理するというのが、人格的利益を侵害してるというのにつながるのか。どうでしょうね?
  2. 生徒P:片っぽだけじゃないと思うんですね。本人に悪意があっても規則に従って処分しているのであればとくに何も言われることはないでしょうし。逆に、規則には従わなかったけど、悪意はないってどういう状態なんだろう……。
  3. 主催者:さっきの、ほら、間違って処――……
  4. 生徒P:間違って処分したとか、そういうことか。間違って、ってなると、やっぱ処分は下るんだろうし。規則に従ってないのは、もうそれ、単体にアウトになりうるけど、悪意があるっていうのは、それ単体でアウトというわけではない、という結論になりました。
  5. 主催者:そうすると、規則に従っていないとアウトで、悪意があるのでもっとアウトっていう、そういうことかな?
  6. 生徒P:「もっと」、かどうかは分かりませんけども、悪意があるというのだけではなく、それに規則違反も加わってアウトになるんじゃないかな、って。

 

 ルール違反が重視され、職員の意図については微妙、といったところだろうか。生徒Pはこの後「間違って本を数万冊廃棄したら、処分は受けるだろう」と述べていくことになるのだが、図書館職員と市の関係を念頭に置く度合いが次第に高まっていくようにも見受けられた。他方、別の生徒は図書館職員と著作者との関係を念頭に次のように言う。

 

  1. 生徒Q:僕は、逆にルールよりも悪意のほうが関係があるんじゃないかな、と思います。
  2. 主催者:ルールはそれほど重要ではない、と。
  3. 生徒Q:ルールに違反していようがいまいが、著作者には関係がないと思います。
  4. 主催者:なるほど。今、「著作者には」っていうふうに留保してくれたんだけど、そのことの意味は?
  5. 生徒Q:というのは、船橋市のなかで、職員が処分をされるのは当然だと思います。ルール違反なので。ただ、著作者にとってみれば、司書が処分されようとされまいと関係ないんじゃないかな、と思います。

 

 職員と船橋市との関係と、職員と著作者との関係を分析的に分けている点が注目に値するように思われる。もうひとりルール違反のほうを重視する生徒がなぜそう考えたか、その前提と思われるものは次の発話にある。

 

  1. 生徒R:たとえば図書館がもともと買わなかった場合は、それは、誰の責任でもないわけじゃないですか。今回のような事件で、誰かが不当に処分してしまった場合は、その侵害が誰かによって起こされた、っていう、その「誰か」が生まれてしまうので、問題が起きてしまったって考えています。

 

 図書館が本を購入することでそれは図書館の蔵書になり、以後は船橋市のルールに従った取り扱いがなされる。いわばここではじめてルール違反が想定されるようになる、という。重要なのは、この発話が主催者が話題をさらに展開していくきっかけになった点である。

 

6 図書を購入すること、図書が除籍されないこと

 主催者の考えでは、参加者たちが(おそらく裁判所も)前提としていたように思われたことが、問い直されていく。さきほどの発話を受けて次のように言う。

 

  1. 主催者:買わないのは、しかし、図書館の職員が買わないから図書館に入んないんだよね。その意味では、「図書館に自分の本を買われる権利」があるとすると、――もしあるとすると――、それは、発注を出さなかった図書館員がそれを侵害してることにならない?
  2. 生徒R:図書館は本来世の中にあるすべての本を掲示して公平に扱うべきですけれども、予算の都合であったり、場所の都合であったりで、展示できる本には限りがあると思うので。
  3. 主催者:R君も、買うほう、完全に自由なわけじゃない[と言った]よね? だけど、さっきの、除籍のほうも、場所の制約もあるから除籍の必要が生じますよね、っていうことだったと思うんですけど、そこにある差は何なのかな?

 

 ここから主催者は次のように購入する段階のルールについての思考実験へと向かう。

 

  1. 主催者:図書館では、収集について、なにかルールみたいなものがあるかもしれませんよね。[筑駒の図書室に]ルールあるとしたら、どんなルールでしょうね?
  2. 生徒S:R18禁止。
  3. 主催者:そういうものは買ってはいけないみたいなのはある、と。[逆に]買うルールがあるにもかかわらず、ルールが適切に適用されないで、恣意的に、――さっきの、悪意に基づいて運用されちゃうってことはないかな?
  4. 生徒S:ルール的なので言うと、雑誌的なものを購入するとか、たぶん、あると思うんですよ。毎月時刻表が更新されていくのを見る、であったり。それがいきなり、パタッとなん月か分だけ抜けたりしたら、何かしら、なかであったんだろうな、って思うと思いますね。
  5. 主催者:必ず時刻表を買ってるからというので、筑駒の鉄道マニアの人は安心していたら、「7月分はないぜ」みたいなことになると、それは困りますよね、っていうことはあるけれども、時刻表の発売者に対して、なんか、その利益を侵害してるっていうことになるかっていうと、どうなんだろうね?

 

 この発話の趣旨は次のように再定式化され、対話が続いた。

 

  1. 主催者:[利用者から]「つくる会」の本を買ってください、という希望が出ている。それにもかかわらず、担当の司書が「この本は私はよくない本だと思うので、だから買いません」というふうな判断をしたとしたら、それは、最高裁が言ってるような、利益を侵害してることになるんだろうか?
  2. 生徒T:本を買うか買わないか選ぶっていうのは、目的があると思うんですよ。学校だったら、生徒に読ませるために。で、船橋市だったら、市民が読むために。そこが制約があるのはいいと思うんですけど、その目的とは別に、不適切だからダメっていうふうにレッテルづけをすることは問題だと思います。
  3. 主催者:そうすると、買う段階でもこの本は不適切だ、ということで意図的に除外してる、ということが明らかになると、著者の人格的利益が損なわれているっていう、そういう話に?
  4. 生徒T:はい、正当な理由がなければ、侵害になる、と思うんです。
  5. 主催者:[購入と除籍とで]どういう差があるのかっていうところを、多少議論が必要か、と思いますけれども、段階的な差があるとしても、恣意的に規則に従わないかたちで購入しないということになると、著者の利益を侵害してるというふうに評価される可能性はあるだろう、と。

 

 主催者が問題が残っていると指摘した購入段階と除籍段階の差についてはあとでふれられるが、どちらの段階でも著作者の人格的利益の侵害になると考えた生徒もいたわけである。

 

7 著作者の人格的利益がなにによって侵害されたかの検討のあとで

 以上の検討をふまえて、主催者は前半の最後に疑問を示した生徒に対して、疑問が解消されたかどうかを確認した。

 

  1. 生徒O:ルールの侵害が直接関係あるのか、っていうの、まだちょっとよく分かんない。ほかの、悪意とかそういう要因があるにしても、ルール自体――誰かが設定したルールが、自分たちで犯したことによって、第三者が不利益をこうむるのかな? みたいな感じです。

 

 疑問は解消されていなかった。主催者はほかの生徒たちに説明してみるよう求めた。

 

  1. 生徒U:たとえ誰か著者に関係なく設定されたルールだとしても、そのルールの目的が、図書館における公平性を守るために設定されるルールだとして、そのルールが侵害されたってことは、すなわち公平性が欠かれたっていうことで、その公平性が欠かれることによって、著者が公平に著作物を人びとに見てもらう権利が侵害されたっていう構図が成り立っているんじゃないでしょうか。
  2. 主催者:うん。そうすると、ルール違反自体が著者の利益侵害というのを直接導いてるわけではない、っていう、そういうことかな?
  3. 生徒U:はい。ルールの守るべきものが、ルール違反によって侵害されたことによって、それが損なわれてしまった。
  4. 主催者:うん、なるほど。そうすると、ルール違反があったとしても著者の利益が侵害されないという場合もあることになるのかな?
  5. 生徒U:ルール次第だと思います。

 

 主催者はZoom画面で生徒Oがうなずいていることを確認し、これで納得できたか訊ねた。

 

  1. 生徒O:はい。つまり、船橋市のルールが公平性の担保という目的にあるがゆえに[著作者と]関係あって、それが、たとえば、図書館の安定のためにとかだったら、また別問題みたいな感じですかね。
  2. 主催者:U君、今のはどうですかね? そういうこと?
  3. 生徒U:はい、そうだと思います。

 

 生徒Oは自分の理解と生徒Uの理解が同じであることの確認を求め、その確認がえられたことで納得できたようである。実は、ルール違反は著作者には関係ないという見解だった生徒Qと生徒Oは同じ生徒である。とすると、この段階で主催者と生徒の対話のなかで法命題が立てられた、ように見受けられた。

 

8 最高裁判決の考え方・差戻審の結果

 主催者は、法律上保護される著作者の利益とそれに対する侵害について、最高裁判決ではどのような考え方がとられたかを再度確認した。(4)で記録したことと同様の部分を繰り返すことはしない。図書館法などから図書館職員の職務上の義務が導かれている点が言及されたこと(船橋市の図書館の除籍基準について直接の言及がない点は、別途モデレーターから補足されることになる)、セミナーで話題にした図書の購入段階については論じられていない点が確認されたことだけ記録しておく。

 また、差戻審について次のような解説があった。差戻審で損害賠償請求が認められた限度では著作者側の「勝ち」と評価できる。他方、慰謝料は1人あたりわずか3千円しか認められなかった、とも言える。ただ、損害賠償請求が認められたことによって図書館職員の行為が適切でなかったことは示された、とのことだった。

 

9 平等取扱い原則・先行行為・行為態様

 その後、事前に配布された資料で検討事項に挙げられたもので、セミナーでは話題にならなかった点のいくつかに話が進められ、次のように簡潔に説明されていった。

 平等取扱い原則について:「つくる会」に関係する著作者は差別を受けた。ほかの著作者の図書であれば除籍されないのに、「つくる会」に関係する著作者の図書に対する職員の否定的評価によって、公立図書館という公共の場で廃棄の対象にされた。この点では、ほかと同じように扱われるべきであるにもかかわらず、そのように扱われなかったことが、著作者の利益の侵害と評価されたと考えることもできるのではないか。前回も話題になった公共というテーマは、今回は公共の場では平等取扱いが要請されるというもうひとつの現れ方をしたのではないか、とのことだった。

 先行行為について:「つくる会」に関係する著作者の図書を公立図書館が購入するという先行行為があった。購入しなければその図書との関係は生じなかったのだが、購入した以上は図書館に収蔵され続けるのが標準状態で、やむをえないときに除籍になる。そうであるはずなのに、恣意的に除籍対象にされたことは、図書館職員の義務違反、あるいは、違法な行為と評価され、そのことを通じて著作者の利益を侵害しているという評価を導いたのではないか、とのことだった。

 行為態様について:今回の事件を船橋焚書事件と呼ぶ人もいる。裁判所の認定からするとこれは比喩だが、かりに本当に図書が公然と燃やされたとしよう。それはその図書について「これは否定的評価に値するものだ」とことさらに示すかたちでの廃棄とみることもできる。行為態様次第では、行為自体が著作者の人格的利益を損なう度合いが段階的に高まっていき、不法行為責任が認められる度合いが高まっていくとも考えられる、とのことだった。

 この点、ナチス時代のドイツで特定の本が燃やされたとき、それは人格権と関わらせて考えられていたのか、という生徒の質問から次のことが話題になった。現在の日本法で、図書の除籍に際して著作者の人格的利益への配慮を義務づける明文の規定はないだろう。ここに今回の判決が現れたことによって、最高裁の言う、著作物によってその思想・意見などを公衆に伝達する著作者の利益が法の世界に登場することになった、とのことだった。

 

10 最高裁判決の考え方への疑問/に秘められた可能性

 モデレーターから、図書館職員の職務上の義務違反と著作者の人格的利益への侵害とのつながりについて改めて次のように疑問が示された。O君の疑問は本当に解消されたのかを蒸し返してみたい。最高裁判決は、関連法令から図書館職員の職務上の義務を導いているが、その義務はどこまでたどっても著作者に対するものにはなっていない。とすると、著作者の人格的利益の侵害があると言うためには、最高裁の言う、図書館職員の職務上の義務とは別の義務を観念することが必要なのではないか、とのことであった。

 主催者はここには難しい問題がいくつもあり、モデレーターの見解はそのとおりだと認めつつ、次のように述べた。まず主催者自身の考えでは、義務違反に対する制裁あるいは否定的な評価が、不法行為責任を生じさせている面が多分にあるのではないかと思われる。今回の事件ではそれが顕著に表れた。ただ、日本の不法行為法では損害の発生が要件とされているので、それを認める必要がある。不法行為法は、一方で行為者の行為を非難する性質をもち、他方で被害者の損害を賠償する性質ももっている。侵害行為と被害者の損害のつながりが、いわば一直線で見いだされる限りでは問題が顕在化することはない。従来の事件はこの意味での一直線のつながりが見出せるものが多かった。ところが、その一直線が十分には見出されない事件が起きるようになっている。このことは不法行為法についての従来の考え方を問い直す要素を含んでいる。それは、後のセミナーで扱う国立マンション事件で別のかたちで現れるので、そこで議論したい、とのことだった。

 

11 裁判官の領分と法学教授の領分

 事実と法の分かれ目が現在どのあたりにあるかという前回質問が出た問題に関連して、次のような話題に時間が割かれた。事実と法の分かれ目がどこかは難しいと言ったが、だからといって放置してよいわけではない。この点、裁判官は、事件ごとになにが事実でなにが法かを考える。そこではその事件について適切なルールを導くことに主眼があり、ほかの事件と整合性のある基準を取り出すことが第一に考えられているわけでは必ずしもない。

 他方、法学教授は事件を解決しない。そうではなく、たとえば事実と法の分かれ目を学生に対して説明する立場にある。そこでは基準の明文化――基準ならそれを言語化し、よりよい基準をつくりだすことが重要な仕事のひとつになる。別の例を挙げてみる。時効の援用ができる当事者の範囲がひろがっているという現象がある(145条)。ではどこまでが当事者に含まれるのか。法学教授は(も)、いわゆる債権法改正に向けた作業のなかで、基準を言語化したかった。明確な基準の明文化をはかりたいと考えた。しかし、それは難しく、うまくいかなかった。結果的には、当事者の一部を列挙して、「その他……正当な利益を有する者」というところで我慢・妥協することになった、とのことだった。

 

【法的推論について・再考】

 最後に、今回冒頭で示された法的推論についての図式的な対比について、2回のセミナーを終えた段階でもう一度解説された。両者の対比を繰り返すことはこの記録ではしない。付け加えられた点には次のようなものがあった。法適用の仕方についての対比は、概念法学と自由法学に関連付けられることもある。前者はトップダウン・ルール駆動型・法命題の大前提は所与といった表現で、後者はボトムアップ・事実駆動型・法命題の大前提は所造といった表現で特徴づけることもできる。この対比は単なる対比というより次のような時間の次元を含んでいる。19世紀には法的な思考は前者のように考えられていたが、20世紀前半になって実際には後者のような考え方が行われているのではないか、と指摘されるようになった。また、法律家は、人によって、事件によって、時代によって、この対比の両極のどこかで思考している、とのことであった。

 

 以上で外形的な考察は終わりである。(6)では内容的な考察に進みたい。

(荒川英央)

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