コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(95)
―雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑤―
経営倫理実践研究センターフェロー
岩 倉 秀 雄
前回は、北海道酪農の基礎を築いた人々と雪印乳業(株)の前身組織との関係について述べた。北海道酪農の基礎は、エドウィン・ダンとその薫陶を受けた町村金弥と長男の敬貴、雪印乳業(株)の前身の酪農組合の創業に関わった宇都宮仙太郎、黒澤酉蔵、佐藤善七等や北海道庁長官宮尾舜治が、北海道を「日本のデンマーク」にしようとして様々な研究・努力を行ったことにより作られた。
道庁の第2期北海道拓殖計画の畜産対策には、「牛馬百万頭増殖計画」が盛り込まれ、北海道の酪農は大いに盛り上がっていた。
しかし、大正12年9月、関東大震災が発生し、政府が乳製品の輸入関税を撤廃したので、安価良質な煉乳や脱脂粉乳、バターが外国より大量に流入し、我が国の煉乳会社は経営不振に陥り原料乳の買取拒否を行ったので、受取拒否をされた生乳は捨てざるを得ず、北海道酪農は窮地に追い込まれた。
今回は、窮地に陥った北海道の酪農民が、雪印乳業(株)の前身となる「有限責任北海道製酪販売組合」を設立した事情を考察する。
【雪印乳業(株)グループの事件を組織論的に考察する⑤:雪印乳業(株)のルーツ】
2. 有限責任北海道製酪販売組合の設立
大正末期、北海道には大日本煉乳、極東煉乳、明治煉乳、森永煉乳、新田煉乳と言う5つの煉乳会社があり、生乳が不足する時には、生産者を巻き込んで生乳の争奪戦を行い、製品が売れなくなると受乳を拒否した。
酪農民は煉乳会社に従属し、受け入れ拒否をされた生乳は捨てざるを得ない状況が続いた。
牛馬百万頭増殖計画が立案され、組合主義を基調とするデンマーク農業に対する認識が高まったことから、宇都宮等は産業組合主義を唱え、「農民の生産したものは農民自らの手で加工販売するべきだ」という運動を展開した。
このような、背景の下、関東大震災により北海道酪農が窮地に陥ったことが引き金になり、宇都宮、黒澤、佐藤等は、大正14(1925)年5月17日、不退転の決意で、酪農民による牛乳処理組織である「有限責任北海道製酪販売組合」(組合長宇都宮、専務理事黒澤、常務理事佐藤ら)を立ち上げた。これが雪印乳業(株)の前身である。[1](雪印乳業株式会社編『雪印乳業史 第一巻』(雪印乳業株式会社、1960年)31頁)
3. 保証責任北海道製酪販売組合連合会(酪連)に組織変更
北海道製酪販売組合は、その後、組合に加入するものが増えて組織が拡大し、新工場を建設するに至って農林省や道庁から全道を網羅した法人組織の連合体とするようにとの指導があったことから、各市町村に呼びかけ25の基礎組合が結成されたので、これをもとに大正15(1926)年3月28日創立総会を開催し、保証責任北海道製酪販売組合連合会(以下、酪連)に組織変更した。
なお、酪連創業の理念は、牛乳の生産者である農民と酪連の役職員が一体となって、協同友愛、相互扶助の精神に基づき、北方農業、寒地農業を確立し、農民の安定を図り、牛乳・乳製品を豊富に生産し、国民の栄養改善と体位の向上に貢献する者同士として協力し、北海道を日本のデンマークにしようとすることにあった。[2](雪印乳業株式会社編『雪印乳業史 第一巻』(雪印乳業株式会社、1960年)277頁他)
酪連の基礎がようやく確立したのは、昭和8(1933)年、全道の原料乳統制、製造分業協定が成立してからである。翌年には全道酪農地帯の随所に、製酪所が整備され、同年、バターの生産量は全国の75%を占めた。一方、それにさかのぼる昭和3(1928)年6月からはアイスクリームの生産を開始し、昭和8(1933)年にはチーズの本格的製造に入り、東京・大阪出張所を充実し、主要都市に販売拠点を設けた。
海外輸出についても注目し、昭和2(1927)年大連、上海へバターの輸出を始め、昭和10(1935)年には世界一のロンドン市場への輸出を果たした。
昭和10年の工場数は17、ミルクプラントは1、集乳工場は55であった。
昭和12(1937)年7月7日、日華事変が勃発するに至って、酪連事業もまた軍需品生産に傾斜せざるを得なくなり、生乳増産に緊急対策を実施するとともに、昭和14(1939)年3月、酪農事業調整法[3]の公布によって、酪連は統制団体の一翼を担うことになり、製造面ではカゼイン[4]と乳糖の大増産を続けた。
[1] 経営の専門家が投げ出した製酪事業に取り組むにあたって、生産者は3つの意見に分かれた。①何としても生産者が自力で難局を乗り切ろう、②乳業界が混乱する(反対)、③会社のやり口も悪いが、事業に失敗すれば今以上に不利になる(中間)
[2] この考え方は、非営利組織の生産者団体である酪連の精神的支柱として「酪連精神」と呼ばれ、事業運営の精神的根幹とされた。(雪印乳業史第1巻、277~278頁)
[3] 非常時体制に入り、わが国の経済は次第に統制経済に移行したが、酪農分野では昭和14年3月24日、法律第27号で「酪農業調整法」が公布(8月25日より施行)され、酪連が自主的に行なっていた北海道の牛乳統制も、この法律により全国統制下に入った。趣旨としては、「酪農の堅実な発達を促すために、酪農家を保護すると同時に、乳業者も安定させ、牛乳取引を公正妥当に行なわせることを狙いとした。乳製品については、国策に順応するように必要製品を適正に按分製造させ、バター・煉乳・ラクトロイド・カゼインなどを原料とする工業品の輸出増進を図り、カゼイン・乳糖の輸入に頼らず国産化することを目指した。
[4] カゼインは、製紙・塗料・農薬・可塑加工用各方面に用いられたが、酪連が製造に成功するまで、大半を輸入に頼っていた。航空機の接着剤として使われ軍事上重要な材料であった。