企業活力を生む経営管理システム
―高い生産性と高い自己浄化能力を共に実現する―
同志社大学法学部
企業法務教育スーパーバイザー
齋 藤 憲 道
第1章 「経営管理システム」の目的と対象
企業の経営管理は、経営理念・経営目標を実現するために行われる。
その管理項目には、経営資源の調達・保有、その有効かつ効率的な利用、顧客満足の実現に係る事項、並びに、従業員等による誤謬や不正の防止・排除に関する事項等が含まれる。これらの項目は、社会・経済の要請が反映されて決まる。
そして、経営管理の仕組みが有効に機能していることを確かめるために、業務の監視・監督・監査が行われる。
本章では、第2次世界大戦後から現在まで、社会・経済が変化する中で、企業がどのような経営管理を求められてきたのか、そして、監査等で何が課題とされたのかを考察する。
第1部 管理をめぐる経営環境の変化
まず、第2次世界大戦後から今日に至るまでを、次の3期に分ける。
- 1. 戦後の経済再建から前回の東京オリンピック直後までの高度経済成長前半期
- 2. 高度経済成長後半期からバブル経済期
- 3. バブル経済崩壊から日本再興戦略の実行(今日)
そして、各期の企業の経営管理の特徴と大きな流れを、次の4つの視点で整理する。
- 1. 経営環境の動向(経済・通商等の外的要因、製品に起因する消費者問題等の内的要因)
- 2. 経営管理の潮流
- 3. 業務の執行に係る法整備(取締役制度、会社運営関係、ガバナンス)
- 4. 監査機関(監査役・会計監査人)の充実
企業は社会の中の生き物であり、社会が変われば、顧客が求める商品・サービスや、内部管理の要求事項が変わる。企業には、それに対応することが求められ、環境に順応できない者は淘汰される。
1.終戦~高度経済成長期前半 1945~1965年(昭和20~40年)
(1) 経営環境の動向
○ 第2次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)から1947年にかけてGHQ(連合国軍総司令部)による経済民主化政策の一環として財閥解体が行われ、現在の日本の産業界の原型ができた。
(注1) 持株整理委員会(HCLC [1])による財閥解体
財閥解体は、HCLCが合計83社[2]を持株会社指定し、その83社と財閥家族[3]が所有する有価証券その他の財産を譲り受け、これを従業員等の個人に譲渡・入札・売出等する方法で行われた[4]。
1947年には「過度経済力集中排除法」が制定され、上記財閥とは別に、規模・独占的市場支配力の観点から18社(一部、財閥指定と重複)を指定して(金融機関は含まれていない)、会社の分割(11社)・保有株式処分(4社)、工場処分(3社)を行い、財閥解体政策が補強された。
1947年(昭和22年)に独占禁止法が制定されて持株会社が規制され、純粋持株会社は禁止された。これによって財閥解体が恒久化された。
(参考) 1997年(平成9年)の独占禁止法改正により、純粋持株会社は、ほぼ全面的に解禁された[5]。
1950年に、日本製鉄が八幡製鉄と富士製鉄に分割された。
(注2) 経済団体の誕生
1946年に経済団体連合会(経団連)[6]、1948年に日本経営者団体連盟(日経連)が発足した。
1954年に日本商工会議所が特別認可法人となった。
1878年(明治11年)に東京・大阪・神戸に設立された商法会議所に続いて、日本各地に商工会議所が設立され、1953年に商工会議所法が制定された。
○ 1948年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)体制が発足し、無差別原則(最恵国待遇、内国民待遇)に基づく「多角的貿易体制」の基礎ができた。(日本は1955年に加入)
- (注) 1951年「サンフランシスコ平和条約」が調印されて太平洋戦争が終結し、日本は国際社会に正式に復帰した。
○ 1951年に電力再編成が行われ、現在の地域別9電力会社(発送配電一貫)体制が発足した。
○ 戦後10年間の復興期を経て「もはや『戦後』ではない[7]」と言われた1956年には、日本の労働集約的な製品の輸出が増えて外貨を獲得できるようになった[8]。
しかし、繊維業界では、米国が日本製品の輸入制限を求めた[9]ことから、日本は「綿製品」の対米輸出自主規制を始めた。
- (注) 1957年の「日米綿製品協定」による輸出自主規制は5年間続いた。この間、香港が日本に代わる生産拠点となり、対米輸出を増やした。1970年前後からは韓国・台湾も日本企業の競争相手になった。
○ 工業生産が活発になった1955年頃から、生命身体を脅かす製品事故や環境汚染が目立つようになり、この対策に取り組む消費者運動が盛んになった。
・ 1967年には、公害対策基本法[10]が4大公害病[11]を踏まえて制定された。
○ 1964年の東京オリンピック開催は、高度経済成長がピークに達した時期である。
(参考) 1962年 日本電気が国産初の大型電子計算機を発表、国産旅客機YS-11試験飛行、国産原子炉が臨界実験成功
1964年 東海道新幹線開通、羽田-浜松町モノレール開通
〔消費者問題〕
1946年 食糧メーデー「米よこせ」大会
1948年 不良マッチ追放主婦大会開催、「暮しの手帖」創刊、主婦連合会(通称:主婦連)結成
1951年 日本生活協同組合連合会結成(1948年制定の「生協法」に基づく)
1955年 ヒ素ミルク中毒事件
森永乳業の粉ミルクにヒ素が混入。被害者約12,000人、死者100人超。
1956年 水俣病を確認(熊本県)
チッソ水俣工場の排水にメチル水銀化合物が含まれ、海水が汚染。近海で採れた魚を食した人が水俣病を発症。1968年に、国が「工場排水が原因」と認め、同社はアセトアルデヒドの生産を中止。
1960年頃から 四日市ぜんそく 大気汚染(亜硫酸ガス等)により、ぜんそく等の患者が多数発生した。
1962年 サリドマイド薬害事件
西ドイツの製薬会社のサリドマイド(睡眠・鎮静剤)を妊娠初期に服用した妊婦から多数の奇形児(特に上肢)が生まれた[12]。日本が販売中止したのは、西ドイツの医師が警告開始後10カ月経ってからであり、この被害が拡大した。(欧州各国では警告後、直ちに販売中止・回収を行った)
1962年 ケネディ大統領「消費者の4つの権利」を宣言
1962年 景品表示法制定(1960年の「ニセ牛缶事件」を受けて立法)
1965年 第2水俣病を確認(新潟県)
阿賀野川流域で有機水銀による水質汚染等が発生し、川魚を食べた人が食物連鎖により発症した。
(2) 経営管理の潮流
○ 1949年に工業標準化法(JIS)が制定され、品質保持に必要な要件が示された。
製品試験と製造品質管理体制[13]を共に備えるものを認証する。(製品にJISマークを付けることができる。)
○ 1950年になると、終戦後の経済混乱期を脱して日本の工業生産が軌道に乗り始め、今日の社会生活の基盤を形成する多くの法律が制定された。
1950年 JAS法、放送法、建築基準法、商品先物取引所法(現、商品先物取引法)
1951年 道路運送車両法
1953年 テレビ放送開始(NHK、民間放送)
○ 経営管理の転換点になったのは、1950年に米国のデミング博士が来日して、日本の経営者・管理者・技術者・研究者等に対して統計的品質管理を紹介したことである。
翌1951年には、統計的品質管理の発展に貢献した個人・企業を理論と実践の両面において表彰する「デミング賞」が創設され、その後の日本の工業製品の品質を世界水準に押し上げる大きな原動力となった。
当初は製造現場のQCサークル活動に取り組んだ企業が多いが、その後、全社的な活動に展開されて、現在では開発・製造・販売等の全社的マネジメントを行うTQM(総合的品質管理)として取り組まれている。
○ 1960年代に入ると、企業の管理業務にコンピュータシステムが導入されるようになった[14]。
- (注) 1960年に日本で情報処理学会が設立された。
1960年代前半は大量の定型データを大型コンピュータで定期的に処理する事務管理業務の合理化が進んだが、プログラミングとオペレーションにコンピュータ技術が必要とされ、特別な教育を受けた者だけが使いこなせる特殊な業務と見られていた。
1960年代後半になると、プログラムの利便性が向上し、経営への貢献が増大する。
○ 会計の面では、この時期に業務の基礎が出来た。
1949年(昭和24年)に「企業会計原則[15]」が策定された。
現在も、決算書類の作成・監査の基準の一つとされる。
- (注) 最終改正は1982年である。1998年以降の「会計ビッグバン[16]」等が反映されず、重要性は低下している。
1962年(昭和37年)に「原価計算基準[17]」が公表された。
同基準は、企業会計原則が求める真実の原価の把握(財務会計の側面)と並んで、原価管理や予算統制に必要な情報を提供し(管理会計の側面)、企業経営に貢献した。
- (注)「原価計算基準」は一度も修正されていない。「原価」はダンピングや移転価格を認定する基礎情報であり、各国の恣意的な計算を許さない透明で公正なグローバル基準の実現が望まれる。
1963年(昭和38年)に「財務諸表等規則[18]」が制定された。
同規則に基づく会計は、「一般に公正妥当と認められる企業会計の慣行(会社法431条)」に従った会計とされる。
[1] 内閣総理大臣が監督する公の機関。Holding Company Liquidity Committeeの略。
[2] 1946年9月6日 第1次指定5社=(株)三井本社、(株)三菱本社、(株)住友本社、(合名)安田保善社、富士産業(株)。1946年12月7日 第2次指定40社。1946年12月28日 第3次指定20社。1947年3月15日 第4次指定2社。1947年9月26日 第5次指定16社。
[3] HCLCが1947年2月20日に、三井、岩崎、住友、安田、中島、野村、浅野、大倉、古河、鮎川の10家族・56名を財閥家族に指定した。
[4] 株式処分先(払込金額ベース)は、従業員38.5%、入札23.3%、売出27.7%、戦時補償特別税物納等10.5%。(持株会社整理委員会編1951年)
[5] 事業支配力が過度に集中する場合は、規制される可能性がある。
[6] 現在の「一般社団法人 日本経済団体連合会(略称:経団連、又は、日本経団連」の母体である。2002年に「日本経営者団体連盟(1948年発足。通称:日経連)」と統合して、現在に至る。
[7] 1956年度(昭和31年度)経済白書
[8] 綿製品(女性用ブラウス等)、合板、洋傘骨、金属洋食器等
[9] 1955年に日本製綿製品の米国向け輸出が急増したのを受けて、米国が「ワンダラー・ブラウス」問題を指摘し、日本の輸出自主規制を求めた。
[10] 事業者、国、地方公共団体、住民の責務を定める。1993年(平成5年)に制定された「環境基本法」に統合され、廃止。
[11] 1960年代後半に、水俣病(熊本県水俣市、メチル水銀)、新潟水俣病(新潟県阿賀野川流域、メチル水銀)、イタイイタイ病(富山県神通川流域、カドミウム)、四日市ぜんそく(三重県四日市市、硫黄酸化物)の患者が起こした4つの裁判で、1971年(新潟)、1972年(富山、三重)、1973年(熊本)に全て患者側が勝訴した。企業に損害賠償が命じられ、責任が厳しく追及された。
[12] 世界で約3,900人、日本で約300人。
[13] 製造設備、検査設備、検査方法、品質管理方法その他品質保持に必要な技術的生産条件をいう。(工業標準化法19条3項)
[14] 1959年に「日本IBM」がスタート(社名変更)し、以後、オンラインシステム・サービスが本格化される。1964年に東京オリンピック・リアルタイム・オンライン競技情報システム、1965年三井銀行のオンライン勘定システム(日本初)、1968年に八幡製鉄の鉄鋼生産管理リアルタイム・オンライン・システム(世界初)、1971年に日本経済新聞社等の日本語対応新聞制作システム等の導入が実現した。(「日本IBM創立から80年の軌跡」より)
[15] 経済安定本部企業会計制度対策調査会 中間報告(昭和24年7月9日)
[16] 1 連結財務諸表原則の見直し(中間連結財務諸表含む)、2 連結キャッシュフロー計算書の作成基準、3 税効果会計に係る会計基準の導入、4 研究開発費等に係る会計基準の導入、5 退職給付に係る会計基準の導入、6 金融商品に係る会計基準の導入
[17] 大蔵省企業会計審議会 中間報告(昭和37年11月8日)
[18] 「財務諸表等の用語、様式及び作成方法に関する規則」(昭和25年証券取引委員会規則第18号)。この規則は、昭和38年11月27日大蔵省令第59号により全部改正された(規則の題名は同じ)。