弁護士の就職と転職Q&A
Q64「なぜ円満退職が難しいのか?」
西田法律事務所・西田法務研究所代表
弁護士 西 田 章
事務所の移籍とは、「現事務所の退所」と「新事務所への入所」の2つの人事の複合によって成立します。人材紹介業者に期待されているのは、「現事務所でも活躍している候補者を、新事務所に誘うことで、より一層活躍の幅を広げてもらう」という部分にあります(前事務所のボス弁から「あいつが居なくなってくれたおかげで、うちの事務所もようやく粒が揃った」などと言われてしまうと、いずれ新事務所をも「ババ(Joker)を摑まされた」と失望させてしまう展開が予想されます)。そのために、「戦力を奪われてしまう現事務所」との退職交渉は、スムースに進まないこともあります。
1 問題の所在
かつて、法律事務所のアソシエイトの転職のタイミングは「留学からの帰国後に、元の事務所には復帰しない」というのが代表的でした。これには、「留学(NY州弁護士資格の取得が含まれる場合も多い)による市場価値の向上」も寄与していますが(特に、欧米系法律事務所や外国企業が東京オフィスに「英語のできる弁護士」を拡充していた時には)、実務的には、「留学により、手持ち案件がゼロになっているために、現事務所に対し、案件引き継ぎに伴う迷惑をかけずに済むから」という面で「円満に退職しやすい」という事情が影響していました(「復帰してくれたら、案件に入ってもらいたいと期待していたのに」という程度には迷惑をかけるのですが)。
それが、最近では、留学前アソシエイトの転職も増えてきたことにより(その背景には「伝統ある優良事務所ほど、年次が上がるほどに書類選考の門戸が狭くなる」ことや、ジュニア・アソシエイト世代に「ワークライフバランス」を求めた転職が増えてきたことなどが影響しています)、マネジメント側からは「手持ち案件の引き継ぎに責任感を持たない退職者」に対する批判的なコメントを耳にすることも増えてきました。もちろん、アソシエイトにも「職業選択の自由」が認められていることは経営側としても十分に認識しており、合理的な経営側であれば、アソシエイトを過度に拘束することを望んでいるわけではありません。ただ、悩ましいのは、「アソシエイトが頻繁に辞めて入れ替わっている」という事務所のボス弁ほど、「アソシエイトからの退職申告を受けることに慣れている」ために、淡々とその事実を受け止めて、ドライに対応してくれるのに対して、「滅多にアソシエイトが辞めない」という、家族的雰囲気を大事にする事務所のマネジメントほど、アソシエイトから退職申告を受けた後の手続についての経験値に乏しく、「移籍するのが本人のためになるかどうか」という、「そもそも論」にまで遡ったガチンコの議論が求められるために、移籍の適否や退職時期を巡った話し合いが、道徳的な問題や感情論も巻き込んで錯綜してしまうリスクを孕んでいます。
2 対応指針
退職交渉に関する留意点としては、(1)現事務所に退職を了解してもらうための説得の方法、(2)現事務所が移籍に賛同してくれない場合の対応、(3)退職が決まってからの勤務態度の3つが代表例として存在します。
まず、現事務所のマネジメントに退職理由を説明する際には、「なぜ、うちの事務所ではダメなのか?」という質問を受ける場合もありますが、ここで、特定のパートナーの言動を過度に批判することは(少なくとも書面では)思い留まるほうが無難です。それよりも、「新しい事務所でこういうことをやりたい」という理由をメインに据えるほうが望ましい場合が多いです。
ただ、「なぜ、うちの事務所ではダメなのか?」に正面から答えられないと、退職の合理性を理解してもらえないこともあります。「円満退職」が理想ではありますが、それが実現しづらい場合には、次善の策として、「一方的な退職通知」をしなければならないこともあります(慰留されたからといって移籍を思い留まると、将来にわたって「あのときに移籍していたら」という後悔が残る危険があります)。
自分にとって不本意な言動を受けた場合であっても、退職が決まった後の残務処理と引き継ぎにおいては、できる限り、誠実に対応するべきです。「過去の職場での評判」のうち、もっとも、自己の市場価値を毀損するリスクが高いのは(能力に関するものよりも)無責任な勤務態度に対する悪評であることは念頭に置いておかなければなりません。
3 解説
(1) 現事務所に退職を了解してもらうための説得の方法
現事務所に「事務所を辞めることを考えている」と申告した場合には、マネジメントから「いまの仕事・条件にどのような不満があるのか」という点と、「どこに移籍するのか」という質問を受けるのが通例です。アソシエイトの中には、秘密主義的に、移籍先についての情報を開示することに消極的な方もいます。ただ、マネジメントにとって、退職申請が「青天の霹靂」であれば、移籍先も知らされないままに「退職を了承しろ」と言われても納得しがたい部分はあります。
逆に、本音ベースで語るアソシエイトの中には、特定のパートナーの言動について、具体例を交えて解説して、自分がいかに不利益を被ってきたか、又は、自分の希望を反映してもらえなかったかを事細かに解説する方もいます。しかし、特定のパートナーを個人攻撃するような退職理由は、当該パートナーからの反感を買うおそれもありますので、あまりオススメはできません。仮に、マネジメントに対して、そのことを伝えなければ退職理由を理解されないような場合であったとしても、メール等で文書に残る形で申告することは控えた方が望ましいです(マネジメントとしては、当該パートナーに事実確認をして、反論の有無を問い合わせなければならなくなり、泥仕合に発展することも起こり得ます)。
(2) 現事務所が移籍に賛同してくれない場合の対応
これまでにお世話になってきた現事務所に対する礼儀の問題としては、「移籍することにしました」という「事後報告」よりも、進路決定前の「事前相談」をするほうが望ましいと考えられています(仮に、移籍へと心が決まっている場合でも、事前相談の形を取った上で、形式的には、現事務所側の意見を聴取する手続を置くほうが丁寧だと考えられています)。
ただ、「事前相談」を続けている間は、マネジメントとしても、「彼/彼女は、本心では引き留めてもらいたいのではないか?」と考えて、いつまでも慰留を続けなければならないような責務を感じることがあります。さらに、本人が「特定のパートナーを攻撃してはならない」と考えて、退職理由の核心を説明できない場合には、マネジメントからは、退職の本気度を疑われる場合もあります。そのため、「事前相談」は、どこかの段階で打ち切って「親身に相談に乗っていただき、ありがとうございました」「でも、やはり、挑戦してみたい」と、議論を打ち切って、決心した旨をマネジメントに伝えなければなりません。アソシエイトの中には、退職交渉に疲弊してしまい、「退職するためのエネルギー」に枯渇してしまったという理由で残留する方もいますが、「交渉に疲れたから」という理由で移籍を諦めてしまうと、将来にわたって「あの時、移籍していたら、自分の弁護士人生は変わったものになっていたのではないか」という悔いを残してしまう方も残念ながら存在します(もちろん、新たに明確な理由が生じたが故に、慰留を決意することは否定しませんが)。
(3) 退職が決まってからの勤務態度
退職が決まったアソシエイトの中には、現事務所での勤務をあからさまに懈怠する方も稀に見受けられます。本人の目には、「これから働く新しい事務所のほうが重要である」と写ることは分かりますが、弁護士人生はまだまだ続くものであり、様々な岐路があり、その中で「過去の職場の上司から低い評価を受ける」ことは、移籍や案件受任のチャンスを失わせる危険を孕んでいます。
「過去の職場での評価」のうち、「仕事ができない」というコメントは、実はそれほど致命的ではありません。そもそも、そのような発言をするパートナーは少ないですし、具体的案件の内容にも踏み込んで発言されることも稀です。仮に、そのような発言があったとしても、「このパートナーとは相性が合わなかったのかな」と考えてられて終わったり、「その後に成長した」という抗弁が成り立つ余地もあります。それに対して、「勤務態度が悪い」という評判は、本人の人間性にも関わる問題(矯正される余地がないもの)として、これに接した人に対して「再び繰り返されるリスク」を感じさせます。弁護士の仕事は、「仮に100点を目指せない状況であっても、与えられた状況で、なんとか及第点を目指す」という態度が求められる性質のものなので、「気分次第で案件を途中で投げ出してしまう人」は「資質を欠く」とみなされてしまいます。
同じ事務所に復縁する可能性は低くても、再度、移籍を検討することになるシナリオも考えておかなければなりません。(転職活動は現職に秘密裏に進められるために)現職の上司・同僚には照会しにくいときには、「ひとつ前の職場の評判を確認したい」というニーズは強く存在します。高い評価を聞くことはできなくとも、「人間性を否定するようなコメント」をされることがないように、去っていく職場に対しても、できる限りの誠意を尽くす、というのは(道徳的な問題を抜きにした)損得勘定からも合理的な選択です。
以上