◇SH2349◇証明責任規範を導く制定法に関する一考察――立法論を含めて(6・完) 永島賢也(2019/02/19)

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証明責任規範を導く制定法に関する一考察
―立法論を含めて―

第6回(完)

 

9 証明責任規範と法規不適用の原則

  1. (1) ① 法とは解釈的な概念であり、現に法実務において構成的な解釈がなされてきているとすれば、法の欠缺という事態に対しても解釈的態度で向き合うことができることになる。法か法でないかの判断も法の解釈の一環として可能になるからである。
  2.    ② それでは、当事者によってなされた事実に関する主張が真偽不明に陥り、かつ、証明責任について定める一般的な制定法が見当たらないという事態に直面したとき、我々はこれに対して解釈的態度をとることはできるのであろうか。できるというのが上述のところからの帰結である。
  3.    ③ 確かに証明責任規範を導く一般的な制定法はない。しかしながら、訴訟上の審理には主張が事実に合致しているのか反するのかわからないという事態は不可避的に生じ得る。審理において事実認定を支えるだけの証拠[1]がいつも十分に揃うとは限らないからである。その場合の裁判所の対応としては「わからない」という結論(主文)を出すか、あるいは、事実がわからない以上は裁判をしないという選択もあり得るかもしれない[2]
  4.    ④ しかしながら、裁判を受ける権利が保障された現代社会においては、真偽不明の場合でも裁判を拒否することはできない。そのような場合であっても裁判を可能にする方法が必要になる。その方法は、その事実の存在または不存在を擬制することである。こうして、真偽不明に陥った場合に実体法の適用または不適用を裁判官に指示するという証明責任規範が(法の欠缺に対する)法の(構成的)解釈によって導かれるのである(証明責任規範説)。
     
  5. (2) ① では、同じように法規不適用の原則についてはどうか[3]。法規不適用の原則とは、法律効果発生の要件とされる事実の存在が証明されたときにはじめて実体法が適用されるのであって、その不存在が認められたときはもちろん、真偽不明のときにも適用されない、とするドイツの学説であった(法規不適用説)。この説についても、証明責任規範説と同様、法の欠缺に対する解釈的な態度をとることによって法(規範)と認めて事案に適用することができるのであろうか。
  6.    ② 確かに真偽不明の場合でも裁判を可能にする法技術が必要であるから、そのひとつとして法規不適用説を法の解釈として採用することはできそうである。しかしながら、法の欠缺の範囲は真偽不明の場面であるところ、法規不適用説は、実体法は(法律要件に該当する)事実が証明されたときにはじめて適用されると考えるため、法規を不適用とする範囲が、真偽不明の場面だけでなく確定的に偽と判断できる場面にも及んでおり、実体法が不適用と判断される場面と重なってしまっている。すなわち、真偽不明の場面のみ法の欠缺を埋めれば足りるところ、真偽不明からはみ出して確定的に偽と判断できる場面にも広がっているのである。
  7.    ③ それでもよいと解することもできるかもしれない。しかしながら、実体法があるのにもかかわらず、制定法よりもドイツの学説(ないし我が国の法律要件分類説)の適用を優先させるという事態を、上述の法の解釈的態度から導くのは困難であるか、あるいは相当ではないと思われる。制定法が存在する場面では、制定法が適用されるか、適用できないかを検討すべきであって、特に当該制定法自体に問題[4]がある場合でもないのに、制定法に代えて学説を優先して採用する法的理由はないのではないかと考える。
  8.    ④ 具体的に例をあげれば次のとおりである。売買代金請求訴訟において、売買契約の成立が争点となった事案において、裁判所が審理の結果、贈与であったという心証を得た場合、売買契約はなかったという理由で請求を棄却することができるにもかかわらず、法規不適用説に則って、売買契約が成立した(とまで)はいえないという理由で請求を棄却することは不合理ではないかということである。


 

  1.    ⑤ このように法規不適用の原則には、裁判官の自由に形成すべき心証を制限している面を指摘できる。反対事実(上記ケースでは売買とは相反する「贈与」という事実)が認められる場合でも、証明責任により要証事実が不明である場合と同様に判決理由を記載することになるからである。実際、民事判決起案の手引(平成18年8月の10訂版)でも、要証事実が存在していないと認められる場合であっても、その存否が不明な場合と同一の表現を用いるよう求められている。すなわち「要証事実の不存在や反対事実の存在は立証命題ではないから、これらが認められる場合であっても、原則として、その存否が不明な場合と同一の表現で判示するのが相当である[5]」と記されている。
  2.    ⑥ 本来、証明責任は、自由心証(主義の適用場面)が尽きたところから始まる。要証事実について心証をとることができるのであればそもそも証明責任の出番はない[6]。自由心証主義の範囲内で対処できる事柄を証明責任論によって判断しているとすれば、それは自由心証主義への証明責任論の浸食と言えるであろう。浸食部分は、上述のとおり、確定的に偽と判断できるにもかかわらず、真と(まで)は言えない、と判示させる点にある。この判決理由では、真偽不明に陥ったのか、確定的に偽であると認定されたのか、区別がつかない。そもそも、一般的に、ある実体法の定める要件を充足する事実がないと認められるため同法を適用しないというべきところを、同要件を充足する事実があると(まで)は認められないので同法の適用は認められない、と判示することにどれほどの意義があるのであろうか。実体的な真実には迫れないという諦観からくるある種の裁判所の奥ゆかしさなのかもしれないが、当事者にとっては、真偽不明で敗訴したのか、反対事実が認められて敗訴したのかわからないため、終局判決に対する当事者の評価に与える影響の方が問題のように思われる[7]
  3.    ⑦ 目先を変えてみると、法規不適用の原則のもとでは、証明責任を負わない側の当事者は、判決の理由で完璧に勝訴することはできない、ということが、いわば裁判をする前からわかっていることになる。たとえば、製造物責任を追及されて訴えられた企業は当該製品に「欠陥があったとは認められない」という理由で勝訴することはできても、「欠陥はなかったと認められる」という理由で勝訴することができないことになる。この現実は民事裁判に対する姿勢(動機付け)に影響を与えるであろう。「欠陥はなかった」という判断を取りに行く方が強い動機付けになることは明らかであるからである[8]
  4.    ⑧ なによりも素朴な疑問として、法規不適用の原則が採用されている以上、真偽不明という事態は生じないので、真偽不明に対処するための法技術である証明責任(論)はそもそも不要になるはずである。法規不適用の原則のもとでは、証明されたかされなかったかが区別されれば足り、かつ、証明されたかどうかがわからない(証明不明[9])という事態は起きないからである。真偽不明という事態を消滅させてしまう法規不適用の原則は、本来、真偽不明への対処法である証明責任(論)について語ることはできないはずである。法規不適用の原則が採用されている限り、自由心証が尽きて真偽不明に陥り、証明責任による判断へと移行するという事態が起きないからである。これは、法規不適用の原則がそもそも証明責任(論)という考え方ではないことを示している。仮に、法規不適用の原則が証明責任を含んだ理論であるとすれば、法規不適用の原則のみで証明責任が問題になる事態にも対処できることになり、あえて証明責任(論)を必要としないことになるであろう。実際、ローゼンベルクは、証明責任論は法適用の理論の一部であると述べているのである[10]
  5.    ⑨ また、法規不適用の原則は、証拠(主に書証)の偏在に関する問題に対して無力である。証拠の偏在とは、たとえば公害訴訟など[11]のように、当事者の一方が事実関係について詳しく、かつ、それを裏付ける資料もほぼ独占しているような事件のことをいう。要件事実に該当する具体的な事実が認められたとき、すなわち、主要事実が証明されたときにはじめて実体法が適用されるとすれば、証明がなされない以上、たとえ、それが証拠の偏在に起因するものだとしても、実体法の不適用という結論は揺るがないであろう[12]。実体法の適用を証明されたかどうかにかからせているからである。「証明されていない」にもかかわらず、それを「証明された」とみなすことを法規不適用の原則から導くことは困難であろう。
     
  6. (3) ① では、証拠の偏在に対して、実務はどのような態度をとっているであろうか。
  7.    ② この点、最高裁判所[13]は「立証責任は、本来、原告が負うべきものと解されるが、当該原子炉施設の安全審査に関する資料をすべて被告行政庁の側が保持していることなどの点を考慮すると、被告行政庁の側において、まず、その依拠した前記の具体的審査基準並びに調査審議及び判断の過程等、被告行政庁の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることが事実上推認される」と判示している。
  8.    ③ この判断が、証拠偏在型の訴訟における立証負担の軽減となることは明らかであるが[14]、それ以上のことも述べている。次のとおりである。証明責任は原告にあると認め、そのうえで、安全審査の資料をすべて被告が保持しているという著しい証拠の偏在の状況を認めている。その結果、まず、(証明責任のある原告ではなく)被告の方に、その判断に不合理な点がないことを主張、立証しなければならないと述べている。そして、被告側が主張立証を尽くさずに真偽不明に陥ってしまった場合、本来、原告に証明責任が分配されているにもかかわらず、判断が不合理であったと認められるという結論を採用している。
  9.    ④ このように、最高裁判所は、事案の性質に鑑みて、ある要証事実について真偽不明となった場合のリスクを、証明責任を負担しない当事者へと移転させているのである。したがって、実務は、著しい証拠の偏在が認められる場合には、証明責任を転換するという方向に既に踏み出しているのである。
  10.    ⑤ この最高裁判例の判断を法規不適用の原則ないしこれを採り入れている要件事実論の立場[15]から整合的に説明することは難しいであろう。
  11.    ⑥ そこで、証明責任規範を定立するにあたって、真偽不明に陥った原因が証拠の著しい偏在に起因すると認められるような場合には、当該事件に限り、当該事実に限って、立証責任を転換して、事実の存在または不存在を擬制する、そのような法律の制定が望まれる。証拠の著しい偏在への対応という点が含まれるのであれば、実体法とは別に独立して証明責任規範を導く法律を設ける合理的理由がある。
  12.    ⑦ ところで、証拠の偏在という状況は、たまたま生じてしまった現状ではないと考える。というのは、社会的な活動をしている以上、将来、起きるかもしれないトラブルに備えて準備を怠らないことはむしろ重要なことだからである 。したがって、日頃から備えのある当事者が裁判で勝訴するのはむしろ当然の結果であろう。むしろ、それが合理的であると言える。しかしながら、裁判という場面(法的拘束力のある一般的ルールが個別的な事案に適用される場面)であるからこそ、証拠の偏在による影響を最小限に抑え、真実発見に接近する審理が実現されるべきであると考えることにも相当な理由がある。こうして、価値判断は分かれるであろう。しかしながら、仮にその社会において司法判断が尊重されているとすれば、それは政治力や経済力を排して真実に迫る理に適った判断がなされるからであると考えるのであれば、証拠の偏在、それも著しい偏在に対して対処しないという選択はあり得ないであろう。
  13.    ⑧ 実体法上、要件とされる事実があるときに法律効果が発生し、ないときには発生しない。あるともないとも判断できない場合については沈黙するほかない。ここにいわば法の欠缺という事態が起きているとして、その間隙を埋めるため、上述したような法の解釈というアプローチにより、法規不適用の原則を法と認めてこれを適用し、個々の裁判官のスキルに依存しない、合理的で予見可能性のある証明責任の分配を実現しようとした。しかし、そのことがかえって証拠偏在への対処を個々の裁判官のスキルに依存させてしまったとすれば皮肉な結果と言わざるを得ないであろう。証拠の著しい偏在が認められるケースにおいては、担当裁判官の訴訟運営手法に頼ることなく、その事件に限り、そして、その要証事実に限り、証明責任のない側の当事者に積極的な主張・立証を促し、それが不十分であるため主張事実が真偽不明に陥った場合には、その事実の存在または不存在を擬制して法の適用・不適用を決定できるように、証明責任規範を導く制定法を設けておく必要があり、かつ、それが相当と考える。

 

【まとめ】

  1. 1  わが国には証明責任規範に関し一般的に定めた制定法はない。その立法過程におけるいわゆる法典論争の影響からみても、明確に証明責任規範を不要とする判断のもと、そのような結論となっているのではなさそうである。これは、いわば法の欠缺という事態と言える。それが百数十年も続いてきたことになる。
     
  2. 2 では、一般的に証明責任規範について定める法律は不要なのであろうか。この問題提起については必要であると答えたい。
  3.    この点、法規不適用の原則を導入すれば、証明責任規範(説)は無用のものであると言えるかもしれない。なぜなら、同原則が採用されれば、争点となった主要事実について、それが証明されたかされなかったかが区別できれば足り、真偽不明の陥る心配がなくなるからである。
  4.    しかしながら、上述のとおり、法規不適用の原則は、実体法の適用・不適用が判断可能な場面、すなわち、事実についての主張が偽と判断される場合にも適用されており、真偽不明の場面を明らかに超えてしまっている。
  5.    また、同原則のもとでは、証明責任を負担しない側が判決理由においても完璧に勝つことができないことが裁判をする前から決まっている点も不合理であろう。不法行為で訴えられた被告は、過失があったと(まで)は認められないという迂遠な理由ではなく、積極的に過失はなかったと認められるという理由で勝訴したいのである。
  6.    そして、同原則は、証拠の偏在問題に対して無力である。むしろ、著しい証拠偏在から導かれる司法判断を固定化[16]してしまうおそれがある。具体的な事件において、具体的な事実に関する証拠の偏在状況を考慮することができないからである。高度の蓋然性という証明の水準が要求されるのであればなおさら[17]であろう。
     
  7. 3 そこで、やはり、証拠偏在への対処も含め証明責任規範を導く制定法を創設すべき必要性があり、それが相当と考える。その場合、たとえば、次のような条項が考えられる[18]

     

  8. 民事訴訟法第247条の2[19]
  9.  裁判所は、事実についての主張が真偽不明となったとき、それが証拠の著しい偏在によって生じているという特別の事情が認められない限り 、その事実はなかったものとみなすことができる。ただし、他の法律に証明責任に関する特別の定めがある場合はこの限りでない。

以 上

 



[1] その事実が存在すると認定する場合でも、その事実が不存在であると認定する場合でも。

[2] そのほか、時代が時代であれば、真偽不明への対応策として、裁判をしない、盟神探湯という神判、決闘などもあり得るかもしれない。なお、高橋宏志『重点講義民事訴訟法(上)〔第2版補訂版〕』(有斐閣、2013年)517-518頁参照。

[3] 法規不適用の原則を採り入れている要件事実論についても同様のことが言える。

[4] 憲法違反とされながら改正されていない法律など

[5] 司法研修所編『10訂 民事判決起案の手引』(法曹会、2006年)68頁。

[6] レオ・ローゼンベルク(倉田卓次訳)『ローゼンベルク 証明責任論〔全訂版〕』(判例タイムズ社、1987年)18頁参照。「従って、当事者の主張に争いがない場合、争いはあるがその真否について裁判所が一定の心証――証拠調べの結果得られたにせよ、証拠調べなしに弁論の全趣旨により得られたにせよ――を得た場合には、証明責任の問題は生じる余地がない(通説・判例)」。

[7] 小林秀之『新証拠法〔第2版〕』(弘文堂、2003年)170頁参照。「実務的には反対事実を認定しないほうが、敗訴当事者の納得を得られるし、弁論主義の下で有限の証拠によって処理していることから裁判所の態度として好ましい、との説明がなされるが、そのような小手先の技術で敗訴当事者の納得が得られるとは思えないし、裁判所の事実認定過程を不明瞭にすることにより当事者や上級審に誤解を与える弊害のほうが大きいだろう。」と述べられている。

[8] 争点となった事実の証明責任を負担しない側の当事者に充実した主張立証活動を期待するのであればなおさらケアしなければならない点である。

[9] 通常、このような法律用語はないと思われるが、「真偽不明」に準えたいわば比喩として用いることとする。

[10] ローゼンベルクは、前掲第1回「民法及び民事訴訟法上の証明責任」において「Die Lehre von der Beweislast ist demnach ein Teil der Lehre von der Rechtsanwendung」と「証明責任の理論は、それゆえに、法適用の理論の一部である」と述べている。確かに、図式的に、法規が適用される場面と法規が不適用とされる場面を区別し、真偽不明の場合が後者に含まれるとすれば、証明責任論は(真偽不明への対処法だから)法規が不適用とされる場面の一部となる。しかしながら、客観的には真実であっても証拠が不十分でその証明に失敗してしまうことはあり得ることなので、真偽不明となった場合であっても本来なら法規が適用される領域が残されるはずである。このように考えれば、証明責任論は法規不適用の原則の一部とは言えなくなってくる。それゆえ、証明責任論が法規不適用の原則の一部となるのは、実体法が裁判規範として機能する場面に限られてくるのではないかと思われる。

[11] 製造物責任訴訟や医療訴訟もそうであろう。また、伊方原発の許可処分取消訴訟も証拠偏在型の訴訟類型に当てはまるであろう。

[12] 法規不適用の原則は維持したまま、証明の必要性を他方当事者に移転させる訴訟指揮を行うとか、間接反証の理論に訴えるなど、法規不適用の原則のいわば外側にて、いろいろ配慮することが必要になり得る。同原則の内部では対処法は見当たらないであろう。

[13] 最一判平成4年10月29日民集46巻7号1174頁。

[14] 加藤新太郎『民事事実認定論』(弘文堂、2014年)79頁。

[15] 要件事実論は(おそらく多くの場合)証明責任の所在と主張責任の所在とを一致させているので、なおさらと思われる。

[16] 勝訴するのは常に証拠を持つ側となる。客観的な証拠の偏在状況によって常勝者が決まる。

[17] 証拠が偏在する訴訟において、証拠を所持しない側が十中八九間違いないという高いハードルを乗り越えるのは困難であり、訴訟を提起する前から証拠(特に書証)の偏在状況を観察することによって判決内容が予測できることになる。たとえば企業秘密の持ち出しによる競合企業への責任追及が可能かどうかの判断にも影響を与えるであろう。

[18] この条項はあくまで一般的な規定なので、実体法の解釈により、当該法律要件を充足すべき事実の主張が真偽不明になったとき、その事実はあったものとみなす方がよい場合は、それを妨げるものではない。また、客観的に証拠の著しい偏在があるときでも、たとえば医療機関がみずから診療録を提出するなどして証拠著偏状況をなくした場合は特別の事情が否定されることになる。

[19] 条文の数字は架空のものである。

 

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