◇SH2683◇コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(180)コンプライアンス経営のまとめ⑬ 岩倉秀雄(2019/07/23)

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コンプライアンス経営とCSR経営の組織論的考察(180)

―コンプライアンス経営のまとめ⑬―

経営倫理実践研究センターフェロー

岩 倉 秀 雄

 

 前回は、雪印乳業㈱の母体が北海道開拓と関連が深い点をまとめた。

 雪印乳業(株)は、北海道の酪農生産者が創業した酪農協同組合をルーツとする社会的企業であり、北海道開拓に深くかかわり、我国酪農の発展とともに成長した。

 筆者は、コンプライアンスを組織文化に浸透・定着させることの重要性とそのための方法を様々な視点から考察してきたが、シャインが指摘するように、組織文化は組織が成功するにつれて形成された価値観であることから、組織文化を知るためにはその組織の歴史を知る必要がある。

 筆者の問題認識は、創業時に社会性の高い組織文化を持った雪印乳業(株)が、2度も同じ食中毒事件を発生させ、1度目の対応は「危機管理の手本」と言われ、2回目の対応は「失敗の代表例」と言われ解体的出直しを迫られたのはなぜかという点にあるが、それは、今日成功している大企業にも示唆を与えると考える。

 雪印乳業(株)の設立は、北海道酪農の父と呼ばれる宇都宮仙太郎の設立した「札幌牛乳搾取業組合」(通称4日会)を母体とした「有限責任北海道製酪販売組合」である。

 宇都宮は、北海道開拓時に黒田清隆が招聘したホーレス・ケプロンの推薦で来道したエドウィン・ダンの真駒内牧場で実習し、ウイスコンシン大学に留学後に独立、黒澤酉蔵は、宇都宮牧場の牧童から出発して牧場を成功させた。

 宇都宮、黒澤、佐藤善七(佐藤貢の父)等は、農民の団結と高い農業技術力で荒廃したデンマークが再生したことを知り、デンマーク農業研究会を設立、第16代北海道庁長官宮尾瞬治に進言してデンマークに調査員を派遣するとともに、同国から農業者を招聘する等、「北海道を日本のデンマークに」するための活動をしていた。(大正12年『丁抹(デンマーク)の農業』を刊行)

 今回は、雪印乳業(株)の創業時から基盤形成時についてまとめる。

 

【コンプライアンス経営のまとめ⑬:食中毒事件と牛肉偽装事件②】

1. 有限責任北海道製酪販売組合の設立

 大正12年9月、関東大震災が発生製品の輸入関税撤廃により煉乳会社は経営不振に陥り原料乳の買取拒否をしたので、北海道酪農は窮地に追い込まれた。

 宇都宮、黒澤、佐藤等は、これをきっかけに、大正14(1925)年5月不退転の決意で、酪農民による牛乳処理組織「有限責任北海道製酪販売組合」(組合長宇都宮、専務理事黒澤、常務理事佐藤ら)を立ち上げた。[1]

 その後、組織が拡大し新工場を建設するに至り、大正15(1926)年3月、全道規模の保証責任北海道製酪販売組合連合会(以下、酪連)に組織変更した。

 酪連創業の理念は「酪連精神」と呼ばれ、「牛乳の生産者である農民と酪連の役職員が一体となって、協同友愛、相互扶助の精神に基づき、北方農業、寒地農業を確立、農民の安定を図り、牛乳・乳製品を豊富に生産し、国民の栄養改善と体位の向上に貢献する者同士として協力し、北海道を日本のデンマークにしようとする」ことにあった。

 昭和12(1937)年7月、日華事変が勃発、事業は軍需品生産に傾斜せざるを得なくなり、昭和14(1939)年3月、酪農事業調整法[2]の公布により、酪連は統制団体としてカゼイン航空機の接着剤に使われる)と乳糖の大増産を続けた。

 

2. 国策会社(株)北海道興農公社に変更

 酪連は、昭和16(1941)年4月1日、時の北海道長官戸塚九一郎の指示により明治製菓、極東煉乳、森永煉乳と協議し、有限会社北海道興農公社(後に株式会社に変更、以下、公社)となった。

 酪連は事業の一切を公社に委譲し、組織の形態は組合組織から会社組織に移行した。(株主は、北海道農業会、農林中央金庫、北海道庁、北海道拓殖銀行、明治乳業、森永乳業の6者)

 

3. 酪連の発展的解消と新北連誕生

 戦時体制が進むにつれ、農業団体統合の意見が強まり、昭和17(1942)年2月、酪連及び保証責任北海道信用購買販売組合連合会(以下、北連)が合併し保証責任北海道信用購買販売利用組合連合会(現、ホクレン)が発足した。

 

4. 北海道酪農協同(株)(北酪社)に社名変更

 戦後、昭和21(1946)年、北海道の酪農をどうするか、戦時中のような経営形態で良いのか、という批判の声が各地から相次いで起こり、公社は同年12月、定款を変更、北海道酪農協同株式会社(以下「北酪社」)となった。

 こうして北酪社が体制を整え、乳幼児の主食煉粉乳を最重点に生産し、前途に曙光の見えた矢先、昭和23(1948)年2月22日、過度経済力集中排除法の指定を受け、昭和25年6月10日、雪印乳業株式会社と北海道バター株式会社(後のクロバー乳業株式会社)に分割された。[3]

 

5. 自由競争下の再出発と再合併

 販売統制から一転して、自由競争に突入した乳業界の変革期に、両社は独自の道を歩み、雪印乳業(株)は、量産体制を整備して急激な原料乳増産・事業規模拡大の方針に沿い道内工場を増強すると共に、道外工場網の拡大を図った。

 クロバー乳業(株)は、発足時、事業分量の縮小と知名度の低さ、経済情勢の激変等により、多くの問題を抱えていたが、クロバー印の新商標のもとに、関西市場に不動の基盤を作った。

 そして、昭和33年11月1日、雪印乳業(株)とクロバー乳業(株)合併し、新生雪印乳業(株)(佐藤貢社長)となったが、合併前の昭和30年3月、八雲工場脱脂粉乳食中毒事件が発生した。

つづく



[1] 経営の専門家が投げ出した製酪事業に取り組むにあたって、生産者は3つの意見に分かれた。①何としても生産者が自力で難局を乗り切ろう、②乳業界が混乱する(反対)、③会社のやり口も悪いが、事業に失敗すれば今以上に不利になる(中間)

[2] 非常時体制に入り、わが国の経済は統制経済に移行、酪農分野では昭和14年3月「酪農業調整法」が公布(8月25日より施行)され、酪連が自主的に行なっていた北海道の牛乳統制も、全国統制下に入った

[3] 北酪社は、北見・清水・釧路・雪裡・幌呂・太田・旭川・名寄の8工場及び大阪支店をもって存続、社名を北海道バター(社長 三井武光)とし、今金・遠軽の2工場はそれぞれ明治乳業、森永乳業に売却、残りの32工場および東京・名古屋・福岡の3支店を分離して雪印乳業(株)(社長 佐藤貢)とした。

 

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