◇SH0732◇法のかたち-所有と不法行為 第十六話-7「古代・中世の定住商業における所有権の観念化」 平井 進(2016/07/12)

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法のかたち-所有と不法行為

第十六話 古代・中世の定住商業における所有権の観念化

法学博士 (東北大学)

平 井    進

 

7  都市はいかにして形成されたか

 今まで、占有を伴わない純粋な姿における所有について検討し、それを歴史的に古代オリエント(メソポタミア)までたどって見てきた。世界史において、所有をうかがうことができる最も早い資料が見られるのも、古代オリエントにおいてである。

 前六千年紀頃の北メソポタミアから、スタンプ式の印章が多く見られるようになる。これは、物を収蔵する倉庫の扉や壺・袋の表面に泥を塗り、そこに押して封印する時に用いるものであり、印章はそのことがらに権限をもつ者、一般的にはその所有者が押していた。[1]また、前四千年紀前半(ウルク中期)から物の種類とその数を絵文字で記した粘土片(トークン)を粘土の玉の中に封じたものが出土しており、これは物を送るときの文であったとされる。これは、次いで粘土板文書とその上を転がす円筒印章となり、貿易活動の記録として広汎に見られたものである。[2]

 遠隔地にものを送る時に封泥する機能として、(1) それが通信文である場合は改竄されないようにする、(2) それが物である場合はそれが取替えられないようにする、(3) 物とそれを説明する文である場合は、その物が送り手の意図するとおりのものであることを示すことである。物を遠隔地に移動するときに、移動商人が自ら運ぶ場合、そのように封泥する必要はない。従って、封泥移送は、押印した者の権限において、それを他の者によって運ばせていたことを示しており、そのことは、前四千年紀に占有を伴わない所有の権能(法関係)があったことの最初の姿を示している。

 前五千年紀末の北メソポタミア(ティグリス川上流)のガウラ遺跡では、金[3]やアフガニスタンに産するラビスラズリと、遠方からの粘土と動物意匠の押印などが出土しており[4]、これらの貿易は上記の封泥によって行われていたと見られる。

 これらを含めて、古代オリエントでは世界最古と見られることがらが多いので、ここで貿易を行う都市がどのようにして形成されたかについて検討してみたい。貿易が成立するためには、各地域が「他の地域になく、需要があるもの」を供給できる能力をもつことが前提となる。ここで、次のように思考実験をしてみる。

 一般的に、原材料とその製品の貿易には、(1) 原材料の確保と輸送・保管、(2) 専門家の確保と技術の開発・保持、(3) 製品の送り先への輸送・保管の三つの面がある。これらの活動には、それを記録・保管し、また相手に伝達する管理運営システムが必要であり、それには前述のように文字と通信のシステム、輸送の安全を守る警察力、および所有に関する法が必要である。また、専門家集団を保護し、かつ技術が流出しないようにするために、原材料・製品の保管と共に、防御施設が必要である。このシステムは、その活動が行政であるか、商業であるかを問わず共通である。

 ある集落がこれら一式のシステムをもち、運用する能力を備えていたとするとき、そのシステムが他の技術(金属・土器等)にも同様に適用できるとすると、そこに多くの技術・職種が集まるようになる。さらに、人々が集まること自体、その物品が他の地域にあるものであっても(例えばパン)、その地域での需要に対して生産と市場が成立するようになる。このようにして、多様な人々や機能が集積することにより、その集落は都市化 (urban settlement)する。

 古代の歴史区分として、新石器時代の後は銅、次いで青銅(銅と錫の合金)が指標となるので、ここで銅を精錬する技術について見てみる。冶金の技術が最も早く発達したとされるのは鉱山があるアナトリア(トルコ)とその周辺の地方であり、前八千年紀頃から自然銅が用いられるようになり、前五千年紀頃に鉱石(銅の酸化物等)からの銅の精錬が始まっている。[5]前5300年~前4500年の時期(ウバイド期)において、北メソポタミアでは南メソポタミアとは別に都市化の流れができており、前4200年~前3850年の時期(ウル期並行)において、北メソポタミアで銅生産のための原材料調達等の遠隔地貿易が盛んに行われ、いくつかの集落の都市化が始まっていたとされる。[6]

 前四千年紀の南東アナトリア(ユーフラテス川上流)のハジュネビ遺跡では銅の精錬とその組織が知られており、北の山中から銅鉱石を調達し、それを銅のインゴットにして、メソポタミア方面に輸出し、「通商ネットワーク」を形成していた。同時代のその上流のアルスランテペ遺跡は南アナトリアで最も高度に組織化され、同じくハッセク・フユク遺跡は南メソポタミアとの「通商ネットワーク」の地域の中心であった。

 銅を抽出する冶金技術の発展に関連して、前四千年紀に銀が灰吹法により抽出されるようになる。また、抽出された銅には砒素を含む様々な元素が混ざっていたが、特に錫を混ぜることによって硬い青銅が作られるようになる。これらの複雑高度な冶金技術の開発には、上記の専門家集団がなければ不可能である。良質の錫はイラン~アフガニスタンからのものであり、その調達にはその方面の「通商ネットワーク」が用いられていた(上記のラピスラズリもその方面で産する)。

 ここで述べていることは、「他の地域になく、需要があるもの」をもつことが他の地域との貿易、およびそれに伴う「所有」という法関係を生み、そのような活動が都市を形成するとする仮説である。このようにして都市が形成され、国家が形成されるようになる。

 以上の考察から分かるように、都市の形成において農業は必ずしも必要ではない。むしろ、上記のよう都市を形成するシステムとそれを運営する能力をもつことにより、(従来の灌漑システムが塩害をもたらしたことに対して)大量の水を流して塩害成分の沈殿を少なくする大規模な灌漑事業を可能にする権力システムを形成することができたと見ることも可能であろう。

 ちなみに、古代の倭人はどうであったのか。『漢書』に、楽浪海中に倭人が有り、分かれて百余国と為すとあり(地理志下)、『三国志』に、倭人が帯方東南大海中に在り、山島に依って国邑と為すとある(魏書・倭人)。『三国志』において「大倭」が出るのは、交易の有無を監するという記事においてである。この百余国は、当時の東アジアの沿岸地域において、「他の地域になく、需要があるもの」の海上貿易を行う倭人の「通商ネットワーク」の姿を描いていたようであり(倭国ではなく、倭人の百余国)、国邑を都市と言い換えれば、上記の仮説がそのまま適用できる。

 


[1] 参照、小泉龍人『都市の起源-古代の先進地域=西アジアを掘る』(講談社, 2016)56, 94頁。小林・前掲, 84-86頁。

[2] 参照、D. シュマント=ベッセラ『文字はこうして生まれた』(岩波書店, 2008)。

[3] 金は砂金またはその鉱床から精錬を要さずに得られるので、前八千年紀頃から金製品が見られている。

[4] 参照、小泉・前掲, 95, 176-177頁。

[5] 概説として、次を参照。Hadi Özbal, Ancient Anatolian Metallurgy. http://www.transanatolie.com/english/turkey/Turkey%20PDF/SOMP-05-Research-Ancient%20Metallurg-Ozbal.pdf

[6] Cf. Gil J. Stein, “The Development of Indigenous Social Complexity in Late Chalcolithic Upper Mesopotamia in the 5th-4th Millennia BC – An Initial Assessment,” Origini, 34 (2012).

 

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