企業法務への道(7)
―拙稿の背景に触れつつ―
日本毛織株式会社
監査役 丹 羽 繁 夫
《17年後のニューヨーク駐在》
私は、「幻の引受業務構想」から17年後の1989年4月に、企画部ニューヨーク駐在として派遣された。大野木克信企画部長(当時、その後頭取に就任された)から申し渡されたアサインメント[1]は、1980年代後半以降証券引受業務への進出を検討していた、J.P. Morgan[2]及びBankers Trust[3]について、彼らの戦略と人材育成を含めた組織作りに係わる情報収集であった。
連邦準備理事会は、89年1月に、J.P. Morganからの証券子会社を通した社債引受業務の申請を、28項目にわたるファイア・ウォールを付して認可した。私は、これらのファイア・ウォールの下で、銀行子会社と証券子会社との間で、人的な仕切りがどのように行われ、同一の法人顧客に対してどのようにリレーションを展開しようとしているかに、情報収集の焦点を絞ることとした。その後、J.P. Morgan及びBankers Trustともに、幾度かの試行錯誤を経て、私が帰任した93年5月の時点では、市場のグローバル化、リスクマネージメントの複雑化・高度化及び法人顧客からの多様なニーズに迫られてMorgan Stanleyが85年に導入していた”functional reporting line”[4]に範をとり、柔軟な組織を作り、証券業務を展開しようとしていた。例えば、社債・株式の引受部門は組織図上証券子会社に属していたが、これらの部門のレポーティング・ラインは、銀行持株会社の、即ちグループ全体のコーポレート・ファイナンス部門に統合されており、持株会社の組織を利用した柔軟な業務運営が志向されていた。
私は、ニューヨークに駐在していた4年余の間に、このような視点から、当時円卓会議と呼ばれた長銀の常務役員連絡会議に以下の報告を行った。
- 90年2月 「米国証券業界を取り巻く環境の変化と課題」
- 90年6月 「Morgan Stanley―90年代の投資銀行業務を考えるケースとして」[5]
- 90年8月 「米国における金融サービス産業再編成をめぐる最近の議論の方向」
- 91年6月 「Bankers Trust―Global Financial Services Firmの1モデル」
- 92年5月 「米国―金融制度改革をめぐる最近の議論の動向」
- 92年11月 「米国―証券子会社の組織をめぐる幾つかの論点」
最後の報告は、ニューヨーク駐在としての総まとめの報告であり、J.P. Morgan 及びBankers Trustの各企業金融部門について、企業金融部門のヘッドが所属する銀行持株会社(98年のグラム・リーチ・ブライリー法により現在は金融持株会社に転換している)と証券子会社のそれぞれの組織づくりと両者間のレポーティング・ラインの実態を、それまでのヒアリング結果を踏まえて報告した。例えば、J.P. Morganの、企業金融の一機能である当時の社債引受業務(Debt Financing)についてみると、全米の法人企業400~500社とのリレーションを担当するNorth America Corporate Finance Groupは銀行子会社に置かれていたが、引受業務の専門部隊となるCapital Markets Services Group及びDebt Underwriting Groupは証券子会社に置かれていた。しかしながら、前者の組織も、後者の2つの組織も、それぞれのレポーティング・ラインは持株会社のCorporate Finance/M & A Groupのヘッドに繋げられるという、プラクティカルな構成が取られていた。両持株会社とも、金融証券市場のグローバル化、金融デリバティブ商品の隆盛及び投資銀行業務の拡大という80年代以降の構造変化の中で、試行錯誤を繰り返しながら、組織造り、人材の育成・調達を行ってきたのである。小売店舗を全く持っていなかったホールセール・バンクの両持株会社にとって、金融証券市場の構造変化が進み始めた80年代は、インテルのCEOであったアンドリュー・グローブ氏のいう「戦略転換点」[6]であったということができる。この報告を作成する過程で出会った、J.P. MorganのプレジデントDouglas Warner IIIの「我々には、我々がビジネスを行ってきた顧客を変えるか又は自らの組織を変えるかという選択肢があったが、(顧客のニーズに応えるために、商業銀行業務、投資銀行業務及びトレーディング機能を結合するfull service financial institutionへの変身という、痛みを伴う:筆者)自らの組織を変えるという選択を行った」[7]という言葉が印象的であった。
翻って、我が国の商業銀行はどのような帰趨を辿ったのであろうか。長銀でも、80年代半ばには、Bankers Trustに範をとった、東京を基盤とするホールセール・バンク構想を柱とする第5次長期経営計画(1985年度~88年度)が策定された。しかしながら、結果として、長銀も含めてほとんどの金融機関は、80年代半ば以降進行した金融市場の「戦略転換点」の中で、ホールセール・バンク構想とは逆のリテール戦略を一層強化したことにより、バブル経済崩壊後の不良債権処理に多くの時間を費やさざるを得なくなったのである[8]。
長銀は、「幻の引受業務構想」から23年後の95年4月より、米国に範をとって私がそのドラフトを作成したファイア・ウォールの下で証券子会社方式により証券引受業務へ漸く進出できたのであった(この稿は、長銀昭和46年入行者40周年記念誌『あのころ そして今』(平成23年12月3日発行)に寄稿したものを加筆修正したものである)。
[1] 企画部ニューヨーク駐在の辞令を受けて大野木企画部長に挨拶に伺うと、同部長からの開口一番は、「ニューヨークでは、君には、要するに、レイモンド・チャンドラーの世界のIntelligence Officerの役割を果たして欲しい」という、奮った言葉であった。
[2] J.P. Morgan は、84年12月に、”Rethinking Glass – Steagall”という論文を公表し、銀行がその親会社である銀行持株会社の子会社を通して証券業務に進出したとしても、金融市場に何らの混乱も不公正も招くことはない、と主張していた。
[3] 現在はドイツ銀行の投資銀行部門になっている。
[4] Morgan Stanleyでは、ニューヨーク本部とロンドン現地法人との間で、業務権限をめぐる確執が多年にわたり続いたが、最終的には、85年に、組織上又はregionalなレポーティング・ラインではなく、顧客に提供する金融機能に応じたfunctionalなレポーティング・ラインを導入し、その後の、グローバル化した投資銀行業務のモデルを提供した(”How Morgan Stanley maps its moves”(”Institutional Investor,” June 1992)。
[5] この報告を作成する前の、90年5月に面談したMorgan StanleyのストラティジストLewis W. Bernard氏は、同社におけるプログラム・トレーディングの導入者であり、ロン・チャーナウ『モルガン家 金融帝国の盛衰』(93年7月、日本経済新聞社)の中で、生粋のWASPの同社にあって、ユダヤ人でありながら、「1973年に31歳でモルガン・スタンレー史上最も若いパートナーとなり、重要な企業戦略の立案者」として紹介されている(下巻252頁)。
[6] アンドリュー・グロープ氏は、スタンフォード大学ビジネススクールでの講義録を纏めた『インテル戦略転換』(七賢出版、1997年11月)の中で、「戦略転換点は技術変化によってもたらされることがあるが、通常の技術革新よりも深刻な事態を招く。また、競合企業によってもたらされる場合もあるが、単なる競争にはとどまらない。戦略転換点は事業のあり方を全面的に変えてしまうので、それまでのように新技術を導入するとか、競合との争いを激化させるといった方策だけでは十分に対応できないのだ。・・・要するに戦略転換点とは、・・・いかなる産業にも起こりうる事業基盤の変化なのだ。」(13、14頁)と述べている。
[7] “Mighty Morgan” (”Business Week”, Dec.23, 1991).
[8] 長銀の第5次長期経営計画とその計画期間中にリテール軸足を置いた第6次長期経営計画(1989年度~93年度)に転換されたその後の帰趨については、長銀の副頭取を務められた水上万里夫氏が『オーラル・ヒストリー』(政策研究大学院大学C.O.E. オーラル・政策研究プロジェクト、2005年1月)の中で詳細に述べられている。その後の長銀の破綻については、ファイナンシャル・タイムズ紙東京支局長であったジリアン・テット女史(現在、同紙アメリカ版編集長)による『セイビング・ザ・サン-リップルウッドと新生銀行の誕生』(日本経済新聞社、2004年4月)に譲りたい。この書籍を執筆中の彼女からインタビューを受けた際の、彼女の「長銀には優れた人材が多数集まっていたにもかかわらず、何故長銀は破綻したのか」という質問が印象的であった。