◇SH1322◇英米の投資信託の歴史 ~会社型と信託型の競争に関する一考察~(1)はじめに 友松義信(2017/08/01)

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英米の投資信託の歴史

~会社型と信託型の競争に関する一考察~(1)

三菱UFJ信託銀行

友 松 義 信

 

 投資信託[1]が誕生して間もなく150年になる[2]。投資信託は、現在、世界各国で利用されている集団投資スキームで、国際投資信託協会の統計(2016年9月末現在)によれば[3]、オープン・エンド型[4]の投資信託だけでも、47以上の国・地域で利用されているという。金額ベースで見ても、世界全体で40兆ドルにのぼり、GDPの世界合計が約80兆ドル弱であるから、経済的にも非常に重要な役割を担う仕組みとなっている。このように広く利用されている理由は、どこにあるのであろうか。

 本稿は、この点に関し英米における投資信託を、4つの観点から、会社型と信託型という2つの法形態にスポットライトを当て、歴史的変遷を比較考察することにより、求められる要素は何かを検討したい。その際の4つの観点とは、①法的安定性、②独立財産制と有限責任、③経済合理性、④ガバナンス、とする。尤も、投資信託が広く利用される一番の理由は、投資に対するリターンが魅力的なものであること、即ち、運用パフォーマンスが良いことであるが、投資対象がどのようなヴィークルであるかも重要な選択理由と考えられる。そこで本稿は、運用パフォーマンスが同じ場合に、どのヴィークルを選択するか、その際の判断メルクマールは何かを考察する。なお、本稿において意見に係わる部分は、すべて筆者の個人的見解であり、所属する企業は一切無関係であることを予めお断りしておく。

 

1 法的安定性

 集団投資スキームは、広く一般から資金を集めることを想定しているから、人々が安心して投資できることが必要であり、その前提として、当該スキームが法的に不安定なものであってはならない。それは、その誕生時や商品性が揺らいだ時に顕著に現れる。

① 投資信託の誕生時(イギリス)

 信託に限らず、ある商品・サービスが世の中で広く利用されるには、その時代の経済、社会状況に適合し、人々のニーズに応えるものでなければならない。投資信託が誕生した19世紀後半のイギリスは、産業革命を経て、これまで土地からの利益を収入源とする層(Landed interest)が社会の主流であったところ、これに加えて、国債等投資からの利益を収入源とする層(Moneyed interest)が出現、徐々にそのウエイトを高めつつある時代であった。19世紀後半、主たる投資対象であった国債の利回りが低下すると、まとまった資金を有する資産家は、より利回りの高い外国債等に投資をシフトさせる動きを見せたが、Moneyed interestの中には、投資対象や投資方法がわからず、自分一人では外国債に投資できない層も相当数存在していた。

 そこで、広く多数から資金を集めてまとまった資金を運用する集団投資スキームが求められるようになったのである。集団投資スキームは、オランダで登場し、1774年にオランダ商人ケトウィッチが設立したEendragt Maakt Magtが最初と言われている[5]。これは1772年から73年にかけて発生した恐慌の後に「団結すれば強くなる」という当時のスローガンを使って、小口の投資家に分散投資の道を提供して信頼の確立を図ろうとしたものであると言われている。

 その後イギリスでも、オランダの例を参考に集団投資スキームが検討されるようになり、1868年に外国政府債に分散投資する投資信託Foreign and Colonial Government Trust(FCGT)が登場する[6]。FCGTをプロモートしたフィリップ・ローズは、「会社」は前世期に起きた南海バブル事件の後遺症から悪いイメージが残っているため、広く資金を集めることは難しいと判断、当時のイギリスにおいて多くの人々に知られていた信託を採用、社会的信頼の高い人物(Lord Westbury)を受託者とする仕組みを考案したのである。信託を採用することによって立ち上げに成功したFCGTは、その後の運用も順調に成果を出し、社会的評価を高めた。

 その成功を見て、投資信託の設定が相次いだが、1876年に不況が訪れると、配当できないファンドがあらわれ、訴訟に発展する例があらわれた。そして1879年の一審判決において、投資信託は会社法の要件を満たしておらず違法とされると、プロモーター達は一斉に信託から会社に組織形態をシフトさせる[7]。その後、裁判自体は、控訴審で信託による投資が認められたものの、法的に不安定であると受け止められ、1931年にユニット・トラスト[8]が登場するまで、イギリスでは、会社形態での集団投資スキームが主流となる。しかし、変更したのは法形式だけであって、その後も運用会社や投資会社の多くが「○○投資信託会社」を名乗ったことに象徴されるように、フィリップ・ローズが立ち上げた投資信託の仕組みが基本的に踏襲された。

 黎明期には、法的に安定した制度であることが大きな条件となると思われる。

② 大恐慌を経て投資会社法の制定へ(アメリカ)

 投資会社法の意義を考察するにあたっては、その前史を抑えておく必要がある。南北戦争後、19世紀後半のアメリカは、産業革命が本格化し、様々な業種で巨大産業が誕生していったが、恒常的に資本不足であったため、イギリスをはじめとする海外からの投資に大きく依存していた。アメリカ国内の投資ヴィークルとしては、会社とビジネス・トラスト[9]が共存していたが、株式会社は、電力・ガス等の公益事業会社の証券や不動産を保有することが当時の法により禁じられていたため[10]、有価証券の投資はビジネス・トラストにより、行われることが多かったものの、抑々、国内の資本蓄積がまだ貧弱であったため、限定的な利用にとどまっていた。

 しかし第一世界大戦後に、それが資本余剰に転ずる。ここから、国内資本による投資が本格化する。その一つとして、1920年代に投信の利用が一気に広がったのである[11]。1920年代のいわゆる「投信ブーム」は、前述の戦時国債の償還に加え、低金利(国債のクーポンが4%弱まで低下)、国内貸出の低迷、投信自体の商品性改善(様々なタイプの投資が登場、シンジケート団による全国販売網の形成、受益証券の上場等)などを原因・背景とする。潜在的投資需要があったところに、魅力的でバラエティに富んだ品揃えと組織的な販売体制により形成されたといわれている[12]

 しかし、1929年に発生した大恐慌により証券価格が大幅に下落したため、どの投信もその価値を毀損した。特に、投資銀行等が系列の投資会社を使って販売したレバレッジを効かせた投信は、自社が引き受けた証券を集中投資するファンドが多かったこともあり、下落率以上に価値を下げ、中には投資元本の1割近くとなるファンドも登場し、投信の社会的信用を失墜させる元凶となった。

 これを受け、ルーズベルト大統領は大恐慌後に設置したSECに命じて、全国規模で原因究明を徹底的に行わせ、安心して投資できる法的枠組みを国民に提示しようとした。その産物が1940年の投資会社法である。

 Massachusetts Investment Trust(MIT)は、1924年に信託宣言によって設定されたビジネス・トラスト[13]で、オープン・エンド型の投資信託第一号であるが、社債や優先証券を発行せず、単一の出資証券のみを発行していた。オープン・エンドであることに伴い、随時行われる解約に備え流動性をある程度確保せざるを得ないという構造上の問題を抱えていたため、過度な株式投資やレバレッジを効かせた投資ができず、大恐慌前に設定されていた他のファンドに比べると、下落率が相対的に低く、被害が軽微であった[14]

 そのような状況の下で投資会社法の制定による投資信託の抜本的リニューアルが図られ、MITをはじめとするオープン・エンド型の投資信託は、同法に概ね適合する仕組みであったことから、投資家が均等に利益を享受できる点を強調して「ミューチュアル・ファンド」と呼ばれるようになり、法制定後、投信の主流となる[15]。その後も、第二次世界戦後の経済復興、高度成長の波にも乗って順調に成果をあげるファンドが多かったため、爾後ミューチュアル・ファンドが投資信託の主流を形成するようになる[16]

 ここでも、大恐慌をきっかけとした大きな信用失墜から再生するには、安心できる法制度を使っているということが重要ということがわかる。

 


[1] 一般に「投資信託」とよばれる金融商品は、有価証券等に投資する運用型の集団投資スキームであり、会社型と契約型に大別されるが、さまざまな法的形態が利用されている。法制度としての「信託」は、その一形態に過ぎないが、本稿で考察するように、その歴史的経緯から、我が国では投資信託と総称することが多い。そこで、本稿では特に区別する必要のある場合を除き、会社型をあわせた集団投資スキーム全体を投信と記すこととする。

[2] イギリスの投資信託第一号Foreign and Colonial Government Trustの設立は1868年

[3] 一般社団法人 投資信託協会のホームページ、「統計データ/調査」の「投資信託の世界統計」を参照
  (https://www.toushin.or.jp/statistics/world/)

[4] 投資信託の換金方法による分類の一つ。オープン・エンド型は、いつでも自由に、その資産価値に見合った金銭に換金することができるタイプのもの。これに対し、資産を取り崩して解約することのできない(換金するためには、権利を購入してくれる相手を探すほかない)タイプのものをクローズド・エンド型という。

[5] K.G.Rouwenhort,”The Origins of Mutual Funds” Yale ICF Working Paper No. 04-48 (2004) at P.2、なおHugh Bullock, “The Story of Investment Companies(Columbia Univ. Press,1959)”は、1822年に設立されたSociété Générale des Pays-Basが最初としているが、これは、国王が作った国立銀行のような役目を担った銀行で、オランダ政府が産業育成、資金供給のために国内企業に投資するという存在であった(Bullock, at P.1)。

[6] 前掲Rouwenhort,at P.16、Bullock, at P.2、Bill Smith ”ROBERT FLEMING 1845-1933” (2000) atP.23、江口行雄著『投資信託発展史論』(ダイヤモンド社、1961年)at P.27.

[7] 前掲Smith, at P.58、江口, at P.35.

[8] 投資信託の一種。信託証書(Trust Deed)によって設定されるオープン・エンド型の投資商品で、裏付となる資産の価額は、常に、発行済みユニットの総数にユニット価格を乗じたものから取引・運用報酬その他の関連費用を差し引いたものによって表される。

[9] 信託宣言により営利目的で設立された法人格なき社団で、会社ないし組合を設立する代わりに、受託者に出資財産を帰属させ、受託者が特定の事業を経営して、受益証券の所持人である受益者に利益を分配する組織体(田中英夫『英米法辞典』)。コモン・ロー信託ということもある。

[10] Sheldon Jones,”The Massachusetts Business Trust and Registered Investment Company”,Youdan ed.,EQUITY, FIDUCIARIES AND TRSUTS[1989] P.161-179,P.164.

[11] M.P.Fink, “The Rise of Mutual Funds-An Insider’s View -”(2011) at P.9、Bullock,at P.14-P.24.

[12] 北條裕雄著『現代アメリカ資本市場論』(1992年) at P.26-P.31、前掲・江口,at P.101-P.136.

[13] 信託宣言によって設定された法人格なき団体で、流通性ある利益参加証券によってその権利が表彰される受益者のために運営される組織体。コモン・ロー信託ともいう。see 雨宮孝子/今泉邦子「ビジネス・トラストの研究」(信託181号、4頁)、工藤聡一『ビジネス・トラストの研究』(信山社、2007年)。

[14] 前掲Fink, at P.10-P.18.

[15] 1940年投信会社法施行後のアメリカの投信は会社形態となったという表現されることがあるが、同法が求めているのは会社(company)であり、それには、株式会社(corporation)だけでなく、バートナーシップであれ、信託、組合であれ、同法が定める一定の要件を満たしたものが会社であり、信託宣言により設定されたMITだけをとってみても、同法施行後の1958年においてミューチュアル・ファンドの約1割を占めている(Hugh Bullock,The Story of Investment Companies,at P.156)ことから、正確な表現ではない。

[16] 前掲Fink, at P.20-P.54.

 

 

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